93:掌の雪 その一
俺達が迷宮から帰還するとその場は大騒ぎとなった。
ある程度の連絡は入れていた訳だが、なにしろモールス信号による通信だ。
怪我人がいることがわかっていたので救護班はいても、警察官はいなかった。
そもそもあいつらに国内の法が適用されるのかどうかもわからない。
まぁ一応迷宮のゲートは我が国が領土宣言しているらしいのだが、迷宮内は無法地帯で、そこで起きた諸々が刑事事件として取り沙汰されることは無いはずだ。
ただ、国際ルールはあるので、今回の一件は国際法で裁かれることになるのだろう。
お偉いさんにはさぞや頭の痛い話だろうな。
とにかく容疑者とか死にかけている人間とか、……死体とか。
責任の所在がはっきりしていると、人は物事を的確に処理出来るものなのだ。
「忙しい身なのにずっといたんですか?」
俺はつい心配になって聞いてしまった。
「ここは私の職場でもあるんだぞ? ちゃんと執務室で仕事をしていたさ」
などと言っていたが、どうだか。
だって本庁舎はここじゃないだろ。
ここはあくまでも現場の本部であって、間違ってもトップの大臣が仕事をする場所ではない。
取り敢えず俺達は報告書を後日提出ということでほとんどむりやり解散させられた。
後で聞いた話だが、その場では慌ただしくピーターとアンナ嬢を引き取ることのみに集中していた各国サポーター達だったが、落ち着いたら俺達を事情聴取の名目で両国が自国大使館に引っ張っていきかねないという不安も、関係者のなかにあったらしい。
この国は勇者血統を決して外部に出さないが、俺達にはハンターの肩書もあるし、事情説明の要請を無碍に断れないという部分もある。
結局のところ、その要請を容れるかどうかは俺達次第ということになる訳だ。
この時の精神的に弱っている状態では相手方の要請を断りきれずに連れて行かれるかもしれないと、連絡を受けた我が国の偉いさんは戦々恐々としていたらしい。
「今日はとにかく何も考えずに休め。後の細かい調整は私達の仕事だからな」
と、ほとんど追い出されるように慌ただしく重要事項の申し送りをして本部を出された。
攻略の概要に関しては明子さんが細かい記録を付けていたので俺達の報告は主観口述と、別行動時の記録程度だった。
それも一時間も掛からないという、お役所らしからぬスピードで終了した。
「なんか食べて帰るか?」
本部の建物を出て、ちょっとした憩いの広場となっている前庭の敷地を横切りながら、今や同じマンションのお隣りさんとなった弟妹にそう声を掛ける。
振り向くと、由美子はさっそく携帯を操作しているようだった。
……まさか、彼氏が出来た訳じゃないだろうな?
不安に襲われた俺の気も知らず、浩二はのんびりと「そうですね」などと本部の敷地の境である正門を見やりながら答えた。
「この特区は冒険者向けの変わったお店も多いそうです、よ……」
語尾が変な具合に途切れたので、疑問に思った俺はその視線を辿った。
「う? あ」
なぜか門の前に、今正に全力疾走して来ましたといわんばかりに息を弾ませた伊藤さんがいた。
「早い」
背後から小さくそう呟く由美子の声が聞こえる。
ちょっと待て、彼女を呼んだのか?
てか伊藤さん、どうやって特区に入ったんだ? とか、
こんな無法地帯みたいなとこ、普通のお嬢さんの彼女には危ないだろ! とか、
とにかく色々な想いが頭の中をぐるぐるしていて、すぐには言葉が出て来ない。
その間にタタッと彼女に駆け寄った由美子が、
「ゆかりん、凄い、早かったね」
「うん、そこの茶店にいたんだ」
などとやり取りを始めていた。
いかん、このままでは状況に流されてしまう。
危機感を持った俺は焦ってそれに続く。
「伊藤さん、どうしてこんな所に」
怒るのも心配するのもほっとした気持ちも、全部いっしょくたになってなんとなく声に力が籠らない。
当の伊藤さんは悪戯が成功した子供のように無邪気な笑顔を寄越した。
「やっぱり心配だったので」
そう言って花が咲くように微笑んだ。
やばい、なんか鼻の奥がツンとして来た。
今の俺はそうとう情緒不安定らしいと自覚して、心の中でオロオロし始める。
こんな状態で彼女と対面していて大丈夫なのだろうか。
「狡いですよ、そんな言い方をされると怒れないじゃないですか」
「あ、怒ってくださるつもりだったのですか? 嬉しいです」
くっ、この人は……。
由美子が彼女の背後で滅多に見ないいい笑顔をしている。
そして腹立たしいことに、やや先行して振り向いた浩二が口角を僅かに上げて俺を見ていた。
あの笑い方は、昔俺が集めていたグラビアを、おふくろが部屋の掃除に取り掛かる前に頼みもしないのに隠しておいて御礼と称して小遣いを巻き上げた時の顔だ。
「それじゃ、兄さんをよろしくお願いします」
由美子が伊藤さんに向かってぺこりと頭を下げる。
「え?」
きょとんとした伊藤さんを余所に、由美子は俺に駆け寄ると、少し声のトーンを落として囁いた。
「今夜はてふてふちゃん達は私の部屋に連れて行きます」
「え?」
何を言っているのか理解しようとする俺の耳に、更に浩二の声が聞こえた。
なぜかご丁寧に遠くから囁きを伝える術を使っている。
「個々の部屋はプライバシーを守るために完全に隔離しています。安心して彼女と過ごしてください」
「な! ちょ!」
ちょっと待て! お前は何を考えているんだ?
「じゃあ僕たちはどこか美味しいお店でのんびり食事をしてから帰りますから。どうかふつつかな兄ですけどよろしくお願いします」
ふつつかってどういうことだ!
そもそもそれって嫁入りの時の嫁さんの常套句じゃねえか。アホか!
「え? あの」
浩二の物言いに伊藤さんは真っ赤になった。
なに、この可愛いひと。
じゃなかった!
「おい、お前ら!」
しかし、二人ニコニコと手を振りながらさっさと先へと行ってしまった。
追おうにも赤くなってフリーズしている伊藤さんを置いて行く訳にもいかず、結果的に二人で取り残されてしまう。
計ったな! 後で覚えてろよ!
「えっと、伊藤さん」
「あ、申し訳ありません。びっくりしてしまって。せっかくお身内だけでのんびりする所だったのにお邪魔してしまいましたね。私はただ、無事にお戻りになったのを自分の目で確かめたかっただけだったんです」
今度はしょんぼりとしてしまった。
「あ、いや。あいつらこそ、うるさい長男を押し付けてのんびりしたかっただけですから」
俺は必死で説明した。
気を利かせたとか、いっそ兄を困らせて楽しそうだったとか、正直に言う訳にもいかないしな。
「それにしても、どうやって特区に? 治安が悪いとまでは言いませんが少なくとも柄は悪いし、貴女みたいな人の来るような所ではないでしょう。危ないから止めてください。凄く心臓に悪いです」
とにかく話題を逸してしまわねば。
それに本気で説教ものだろ、これは。
伊藤さんって見掛けと違って行動力がありすぎて怖い。
ちょっと今後も気を付けないと何をするか分からないぞ、この人。
「あ、それは、ほら、うちのお父さん元冒険者だったでしょう? だとしたらお父さんのお仲間も冒険者じゃないですか。そう考えてそのコネを使いました」
そう言って悪びれずにエヘヘと笑う伊藤さんは正に怖いもの知らずである。
それに今日の彼女の服装はこの特区では浮きまくっているのだ。
ふんわりとした毛玉のような襟元と裾の、淡いクリーム色の短めのコートに、ふんわりとした白のロングのスカート、短いブーツは茶色と白のツートンカラーで、ここにも毛玉のような物があしらわれていた。
とにかく全体的にふわふわした格好だ。
筋肉上等でゴツイ装備を着込んだやつらが行き交うこの特区の中では狼の群れの中の仔ウサギのように浮きまくっているのだ。
よくもまぁ何も無かったものだ。
俺はちょっと目眩を感じてしまった。
何かあってからでは取り返しが付かないだろ、マジで。
「ここは伊達や酔狂で一般人立入禁止になっているんじゃないんですよ。冒険者ってのは命がけの生活をしている荒くれ者が多いんです。危ないです」
「あら、木村さんは忘れていらっしゃいます。私、こっちに住み着くまではその冒険者の中で暮らしていたんですよ? その頃は未開地開拓のメンバーだと思っていましたけど。だからこういう雰囲気は懐かしいぐらいです」
ああ、そういえばそうだったっけ。
でもそれって親父さんの
そういうのとこういう野放図な場所って一緒にしていいもんじゃないと思うぞ。
俺は溜め息を吐いた。
そして、ふと気づいた。
迷宮からずっと引き摺っていた、重い、足を捕らえる泥のような感じがちょっとだけ軽くなっていることに。
伊藤さんは俺に怒られたと思ったのか、強気に言い返しはしたものの、流石にしゅんとしている。
……ああ、そっか、俺はやっと帰って来たんだ。
たった一日半潜っていただけなのに、彼女の纏う柔らかな日常の空気が懐かしい。
「まぁ、でも、その、来てくれてありがとう。その、……嬉しかったです」
そして俺はほとんど反射的にお礼を口にしていた。
果たして、伊藤さんの表情がぱあっと明るくなる。
「はい、私も嬉しいです。おかえりなさい。無事で良かった」
ああ、良かったな、帰って来れて。
俺は改めてそう感じたのだった。
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