94:掌の雪 その二
場所柄落ち着かない気持ちのままに、かろうじて「何か食べに行きますか?」という提案をした俺に、伊藤さんは「お部屋にお邪魔してはいけませんか?」と応えた。
「え?」
俺はその言葉を理解するのに半瞬を、それが俺の願望による幻聴ではないかと考えるのに数秒を要し、更にその返事を考え付くことが出来ず言葉を無くした。
「お疲れでしょうし、お店で食べるより材料を買って帰ってゆっくり出来る自分の家で食べるほうがいいでしょう?」
ちょっとはにかむようにそう尋ねられた時の俺には、もはやまともな思考力があったとはとても言えない。
その後、特区を出てスーパーかコンビニで買い物をしたはずなのだが、その辺りのことは俺の記憶にはろくすっぽ残っていなかった。
辛うじて記憶に残っていたのは、伊藤さんがマンションのセキュリティと部屋を見ていちいち驚いていたことだ。
確かに静脈と波動形と網膜までチェックするのは珍しいだろうし、前のアパートを知っていれば新しい部屋はびっくりするぐらい綺麗で広いと思うだろう。
実はこの部屋ファミリーサイズなんだよな。
一人では完全に持て余す広さだ。
そんなふうにぼうっとしていた間に無意識に荷物を片付けたり部屋で着替えたりし終わっていたようで、俺は自分の無意識下での意外な才能に少し驚いた。
リビング兼ダイニングキッチンに戻ると、伊藤さんはいい匂いをさせて料理を作っていた。
何も入っても乗ってもいないカウンターテーブルの向こうで、持ち込みらしいエプロンを着けて背中を向けている。
「実は一回テレビで観て作ったことがあるだけなんです。もし美味しくなかったら正直に言ってくださいね」
広いフローリングのリビング側に平織りのい草のラグを敷き、馴染んだちゃぶ台がデンと置いてあるアンバランスなそこで、俺はあろうことかぼうっとしたまま座り込んでしまっていた。
なにお客さんに全部任せてくつろいでるんだよ、俺!
ふと正気に戻って唐突にスイッチでも入ったかのように立ち上がる。
「あ、手伝います!」
何やってんだか、全く。
伊藤さんに何もかもやらせて何様のつもりなんだ。
自分を殴りたい気持ちになりながら慌てて立ち上がるとキッチンに猛然と突き進む。
伊藤さんは笑いながら「じゃあお皿を並べてください」と指示を出した。
どうやら料理はもう完成してしまっていたらしい。
ああ、もう。
こっちに越して来てから、本人の知らない間に食器が増えていて、以前のように皿が足りないなどということはない。
そのいつの間にか増えた白地の大皿に綺麗に収まっていたのは、黄金色のふんわりとこぼれ落ちそうなオムレツだった。
赤いケチャップがその上で『パワー』という文字を描いている。
伊藤さん、お茶目すぎる。
それにしてもなんで今一番食べたい物がドンピシャでここにあるんだろう? 伊藤さんは実は
「せっかくリクエストしてくださったのに、美味しくなかったら本当にごめんなさい」
彼女の緊張している顔を見て思い出す。
そうだった、何のことはない、俺がリクエストしたんだった。……たぶん。
おぼつかない足取りで皿を運びながら、俺はふわふわした意識を現世に引き戻す。
このままでは無意識に何をやらかすかわからない。
理性を手放しては駄目だ。取り返しが付かない結果になる確信がある。
付け合わせの温野菜のサラダとオニオンと鶏肉のコンソメスープ、そしてご飯だけはなぜか和風にご飯茶碗に盛られて出て来た。
でも、これは嬉しい誤算という所だ。下手にご飯が洋皿に盛られてナイフとフォークとか出されるよりこっちのほうがいかにも自宅飯って感じで気楽で有り難い。
もちろん二人共箸を使った。
いつの間にか点けていたらしいテレビジョンからはニュースの時間らしく本日の出来事を読み上げるキャスターの声が聞こえている。
内容はあまり頭に入って来ないけどな。
「わがままを言ってすみません」
無意識に食べたい物をリクエストしたのだろう自分の甘えを思わず謝った俺に、伊藤さんはちょっとふくれて見せた。
「わがままを言ってくださいってお願いしたのは私ですよ。むしろ言ってくださらなかったら怒ります」
ああうん、そんなこと言ってたような気もするな。そう言えば。
「前に、料理番組で、すっごく美味しそうだったんです。そのオムレツ」
伊藤さんが微笑んで言った。
「だから作ってみたんですけど、一人で食べるような料理じゃないなって思って、それっきりでした。なんにでも手を出して好奇心が強過ぎるっていつも母に怒られるんですけど、やっぱりそんなのでも経験があってよかったです」
ふんわりとトロリとしたそのオムレツは、色々な具材が詰め込まれていて、子供の頃憧れていたオムレツそのものだった。
なにしろ実家は純和風の食事ばかりだったから、本か何かで見た洋食というものに多大な憧れを持っていたのだ。
凄いな、やっぱり伊藤さんは俺の心を読めるに違いない。
人間って素晴らしい。
「特区には今日初めて入りましたけど、やっぱりちょっとだけ懐かしい感じがしました」
「そうなんですか?」
「ええ、私がこっちに来るまで暮らしていたキャンプ村もあんな感じで、防具や武器を装備したまま生活している人が一杯いたんです。まるで喧嘩のような大声の怒鳴り合いがしょっちゅう聞こえて、賑やかで楽しかったな」
そっか、それが日常だったのなら伊藤さんが特区や冒険者を恐れるはずもない、か。
「そういう生活も楽しそうですね」
「ええ、今でも時々懐かしく思い出します」
伊藤さんは、迷宮のこととか、俺の様子が変なこととか聞いたりしない。
隠し事をしない約束なのになんで話してくれないんだと責めることもしない。
きっと聞きたいだろうに、俺を信じて待ってくれているんだ。
そうわかっているのに、俺はどうしても今日のことを話すという気持ちになれなかった。
まだ、もう少しだけ待って欲しい。
身勝手でわがままな奴だと自分でも思うんだけどな。
「俺の……」
食器を片付けて手持ちぶさたになると、浅ましいことに途端に伊藤さんの顔や首や襟元に視線が彷徨い出す自分に焦って、俺はふと口走っていた。
「俺の、子供の頃の話を聞いてくれますか?」
言いながら俺は自分に問い掛けた。
おい、一体お前は何を言うつもりなんだ?
彼女は優しく温かい日常の中に生きる人間だ。
その話は非日常真っ直中の身内にさえ無理だと思った話だろう?
「はい」
彼女の声には微塵の惑いもない。
前にそう宣言したように、俺の全てを受け入れるという気持ちの篭った、そんな迷いのない声だった。
「……この話は、実は家族にもほとんど本当のことは言っていないんです。だから伊藤さんが初めてこの話をする相手になります」
「はい」
そこにあるのは全くの自然体。
少しでも彼女が身構えれば俺は自分に言い訳が出来た。
誰にも知られたくないという気持ちのままに、ずっと俺一人の胸にしまっておけた。
だが、本当は俺にはわかっていた。
これは絶対に俺一人で抱え込んではいけない問題だと。
しかし、今までは俺の周りにはあまりにも近すぎる相手しかいなかった。お互いに傷付かずにこの話が出来るような相手がいなかったのだ。
だけど伊藤さんは怪異の跋扈する世界から遠く、そんな世界の戦いからは更に遠い。
きっと俺の体験は彼女を傷付けることはないだろう。
「あれは、弟が生まれて二年が過ぎた頃だったと思います。俺は五才ぐらいでした」
ずっと思い出すまいと思っていたが、本当は一瞬たりとも忘れたことが無かったのかもしれない。
俺はあの日の風の匂いさえ、今でも生々しく思い出すことが出来るのだから。
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