92:蠱毒の壷 その二十六
それが確固として存在出来るのは、中心に核があるからである。
その核とはもちろん迷宮のボスのことだ。
迷宮とは言うなればボスである怪異の夢のようなものと言っていいだろう。
そこに、餌としての人間以外の異質な意思の混入は有り得ない。
紛れ込んだり呼び寄せられた怪異は、核であるボスの意思に飲み込まれるか、逆にそいつがボスに成り代わるか、そのどちらかしか道は無いのだ。
「馬鹿な、迷宮の主の意思を反映しない異質な怪異が内部に存在出来るはずがない」
「そうだな」
いきなり耳元に出現した声の主に、考える前に足払いを仕掛けた。
「足癖が悪いな」
声と共に鋭い痛みが右足に走る。
防御術式と防刃繊維に守られたズボンが裂け、うっすらと血が滲んだ。
「ほう、頑丈だな。ひと息に断つつもりだったが表皮に止まったか」
移動が見えない。
完全に物理法則を無視した動きだ。
間違ない。
こいつは怪異だ。
しかもかなり上位の。
やはり本物の
こうなれば理由など考えている場合じゃない。
そういう小難しい理屈はうちの出来の良い二人に任せておけばいいからな。
まずは奴を捕らえる。
目で見て間に合わないなら気配を頼りにすればいい。
薄くとも、独特なその気配は間違えようがない代物だ。
俺は意識を集中した。
しかし、その緊迫した攻防は突然打ち切られることとなる。
「ウラアアアアアア!!」
全く警戒していなかった方向からの大声の不意打ちに、俺は一瞬大きく隙を晒す羽目となった。
だが、幸運なことにそれは敵も同じだったらしい。
気配が揺らぎ攻撃が止まった。
そんな一瞬の空隙を突いて、無数の光の粒が舞い踊る。
「貴様らは滅びろ!」
まるで一斉に焚かれたフラッシュの嵐のようにきらめきながら、それらは轟音を立てて殺到した。
「まだまだあめえな」
一番の厚い攻撃は奴等のリーダーを狙い、更に牽制のためか他の連中にも光の粒は降り注ぐ。
だが、リーダーの男は余裕ありげに笑ってそう言ってのけた。
到底避けようもない攻撃に思えたが、それはふいに消え失せる。
周囲に霧が出現し、まるでそれに絡めとられるように小さな球の動きが止まり、そのまま吸い取られるように消えたのだ。
「ちっ! シット!」
ピーターの吐き捨てるような叫び。
そう、あの唐突な攻撃はピーターの物だった。
俺は別にピーターの存在を無視していた訳じゃない。
ただ、前の戦いで酷く消耗していたので、今回は参戦は無理だろうと高をくくっていたのだ。
甘いと言えば俺が甘かった。
「面白いな。水を操る者はよくいるが、凍らせるのではなくこんなふうに固めるとは。だが、貴様自身に掛かる負荷は相当なものと見た。薬によるドーピングか? 無粋だな。それ以外にも色々弄っているようだ。相変わらず人間は悪趣味でいけない」
霧が消え去り、振り向いた視線の先で吸血鬼野郎がピーターを空中高く吊り上げている光景が目に映った。
どうやら今この周辺に漂っている霧は、この
そして目前の光景はおよそ笑えるぐらいシニカルな物だった。
吸血鬼野郎は病的な色白のひょろりとした男で、ピーターはゴツい装備を付けた大男だ。
総重量が何百キロになるかわからないが、ピーターは装備込みでかなりの重さだと見ただけでわかる。
俺も理不尽には慣れているが、やはり不健康な見た目の男が自分の何倍もの重量のある相手を吊り上げる姿には違和感が拭えなかった。
しかしだからこそ、そこには凶悪なほどの力の差があった。
「ピーター!」
バキバキという不吉な音を聞きながら、俺は吸血鬼野郎に肉薄した。
ピーターを捕らえている今、奴はこれまでのようには動けないはずだ。
「っ!」
しかし、思惑通り奴の右腕を掴んだのはいいが、それはびくともしなかった。
なんとかピーターから引き剥がそうとしても、俺の攻撃など、そよ吹く風ほどにも感じていないように振り向きもしない。
野郎、馬鹿にしやがって。
ピーターの左肩の突起部分がひしゃげ、その内側、生身の肩へと装甲がめり込んで行く。
「ぐっ、ハア!」
ピーターは声を上げたが、そのギラギラとしたまなざしは衰えること無く更に強い憎悪の光を帯びて行く。
「オレ、ハ、ヒーローだ!
言葉の途中、吸血鬼野郎の遊んでいた左手がピーターの喉をそのガードの上から掴んだ。
メリメリと嫌な音が聞こえる。
「いい加減に、しやがれ!」
俺は今まで抑えてきた体内の血を、自ら煽るように燃え立たせる。
全身が溶鉱炉に突っ込んだような赤銅の輝きを帯び、衝動が理性のコントロールを離れて暴れようと始める。
掴んでいる吸血鬼野郎の腕の中に自らの指が沈んで行く感触に、相手を破壊したいという欲求が、仄暗い愉悦と共に沸き上がった。
メキリという音を聞くと同時に、相手はピーターから手を離す。
「ほう、力比べで我に挑むと言うか? 少々体を弄られただけの哀れな餌に過ぎぬくせに」
吸血鬼野郎の牙が伸び、歪んだその顔はもはや人間の範疇からはみ出してしまっている。
俺は無言で更に力を込める。
そして奴は牙を突き立てようと首に噛み付いて来た。
唐突に響いたバキン! という音は、まるで太い鉄筋でも折れたような硬質な音だった。
「ぐ? あ?」
突き立てた二本の牙は砕け散り、吸血鬼だった男はよろめき、急速に変化を見せる。
あの人狼と同じく激しい衰弱と老化だ。
「な、なんだこれは! 俺は今までどうして? ……貴様! 約束が違うぞ!」
うろたえ、弱り果てながらもその元吸血鬼は仲間の男、リーダーらしき野郎を糾弾した。
「おいおい、約束は最強だろ? 間違いなく元となったお方は最強なんだ。よかったじゃねえか、願いが叶って、な」
せせら笑うように答える奴の手にある物を見て、俺は焦りを覚えた。
それは祈り石と呼ばれる怪異に関わる物品の一つだ。
命と引き換えに願い事を一つ叶えるというオーソドックスな物だが、実はチャージ対応出来るため、込められた力によってはその相応のとんでもない効果を発揮する。
つまりある程度の夢のカケラをチャージすれば、かなり上位の願いが叶うということになるのだ。
安価なアイテムではないが、脱出符よりは数段安い。
さすがは冒険者と言うべきか、効率のいいアイテムの運用をいろいろと知っているようだ。
「それに貴様の命は俺の役に立つんだ、光栄に思え!」
告げるなり奴は術文を口にした。
「地に実りし
もちろん奴の詠唱が終わるのを悠長に待つ義理は無い。
俺は奴の言い分が終わったと同時に、吸血鬼になっていた男に向かって守護の術式を展開した。
狭い範囲の固定術式という使い勝手の悪い術式符だが、その分強力なやつだ。
普通の魔術や呪いなら短時間に限って撥ね退けてくれる。
だが、俺は翻訳された奴の文言を聞いて舌打ちした。
縁を元にした呪は空間を超える。
この防御では防げない。
激しい憤りに襲われた俺は闇雲にリーダーと思しき冒険者にナイフを投げ付けた。
僅かにでも妨害出来ればという気持ちだった。
奴の仲間の魔術師がニヤリと笑い、ナイフは硬い音を立てて弾かれる。
だが、
「残念だったな。貴様等は既に詰んでいる」
浩二の声に、奴らは今初めてうちの後衛の存在に気づいたかのように振り向いた。
浩二はこの戦いが始まると同時に装甲車周辺に防御を展開し、穏行の術を行使して密かにアンナ嬢救出のための下地を築いていたのだ。
奴らの焦りと驚愕は、そのまま自らの体に向けられることとなる。
「な、これは!」
奴らの影から滑るように湧き出た多数の蛇が、二人の男の体から自由を奪う。
それはまるで体が凍りついたかのように身動きが取れなくなる影の呪だ。
バタリと倒れた連中をそのままに、俺はピーターを抱え起こした。
「おい、大丈夫か?」
左肩からは出血が続き、ガードがそのままめり込んだ喉が細く笛のような音を立てて呼吸している。
「オ、オレの、弟ハ、俺をヒーローだと言っていたンだ。だから……」
ヒューヒューと掠れた息の元で呟かれた言葉を術式が明瞭に翻訳した。
「おい、無茶すんな、馬鹿野郎」
背後でガチャンという音がして、鳥籠がバラバラに崩れて消える。
開放されたアンナ嬢は礼も何も口にせず、まっすぐこっちに来るとピーターの体を覗き込み、俺を邪険に押しのけた。
「邪魔です」
そうですね、うん。
彼女は得意の複数の魔法陣をピーターと倒れている元吸血鬼だった男に展開する。
離れた場所でも主犯連中の拘束が終わったようだった。
ん? あれ? 最終的な血の喚起までやったのに、俺なんか活躍したっけ?
一人あぶれた俺は、ボス部屋の入り口らしきパネルに歩み寄る。
そこには東西南北の記号と様々な色の象徴アイコン、舌とか目とか耳とか鼻とかがフェイクのアイコンと一緒に並んでいて、パズルのように正しい場所に当て嵌めるようになっていた。
なるほど、これは実際に移動ポイントを全て開放した人間にしかわからないし、開放していても覚えていないと先へ進めない。
奴らがここで止まっていたのは俺達が開放した後をただついて来ていたせいで、このパズルの正解がわからなかったからなのだろう。
「どうしますか? マスター」
音もなく近寄ってきた装甲車がそう声を掛けて来た。
真っ先に声を掛けてくれたのが魔法機械って、ちょっと寂しい。
「今回ボス攻略は無理だ。脱出符を使おう」
俺の言葉を聞いた仲間達は誰も意外そうな顔はしなかった。
まぁ、どう考えてもこの状態でボス戦はやりたくないよな。
早く本格的な手当や検査をしないとヤバイ奴が多すぎる。
そう、仕方がない判断だったんだ。
だからとりあえず、使用する脱出符は国家予算で落としてもらいたい。
切実に。
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