85:蠱毒の壷 その十九

 ざわざわと、クラゲのような怪異のリボン状の足が数を増やし、それぞれに角度を変えて一斉に突っ込んで来る。

 後ろは気になるが、正気に戻ったアンナ嬢がいる以上この程度の攻撃でどうこうなるとも考えにくいので気にしないことにした。

 ナイフで一々この量を相手にするのも馬鹿らしいので、片足を軸にぐるりと回転して迫っていたリボンのような足を蹴り飛ばし、相手が反射的に怯んだのに合わせて飛び上がる。


 しかしあれだな、このグニャッとしたのを足場にして素早く高く跳ぶのはそもそもが無茶な話だった。

 力を溜めて緊張している瞬間ならそれでも十分に足場足り得るが、足場として所構わず蹴り付けるとなるとそうもいかない。

 結果として俺は本体の傘部分に辿り着くことなく途中で失速した。 

 だが、接近自体は無為でもなかった。

 クラゲ野郎は獲物を狩ることよりも我が身を守ることのほうが大事だと思い至ったようで、下界の二人を無視してこちらに集中し出したのだ。


「おーにさんこーちら! 手の鳴るほうへ! ってね」


 耳元でこちらを捉えようとするクラゲの足が風を切る音がヒュンヒュンと鳴り、踏みつけた足元はグネグネと蠢いて毒針を生やして巻き付こうとする。

 正直楽しかった。

 無理に力を抑える必要もない。

 少なくともこうしている間は俺は素でいられるのだ。

 好きな機械からくりいじりをしている時とは方向性の違った喜びが胸に沸き起こる。

 ナイフを持った手を一閃させると断たれたリボンのような足が一時輝いて消えて行く。

 それは人とは違う怪異の命の輝きだ。

 失った足をクラゲ野郎は頑張って再生させるんだが、そのたびに頭上の傘は僅かに縮む。


「おいおい大丈夫か? カサが減ってるぞ?」


 と、つい口にしてから恥ずかしくなって、聞く者などいないのに「いや、今のは駄洒落じゃないし」と言い訳をしてしまった。

 濃密な霧の中をヒラヒラと翻る白いリボンのような足と、それが光りながら消えて行く光景は、言ってはなんだがなかなかに幻想的なものだった。

 一歩跳ぶごとに切り取られた足が舞い、傘が縮む。

 しかし波打つふんわりとした足は踏み切る力を与えずに、俺の位置は地上からさほど離れることが出来ない。

 おかげで一気に中心部を攻撃出来ないでいた。


 そうなるともはや我慢比べの様相を呈して来ていた。

 そしてどうやらその勝負に根負けしたのはあちらのほうが先だったらしい。

 やがて頭上の傘がぶるりと一際強く震えると、たちまちさあっと大きく傘の裾を広げたのだ。

 同時におびただしく伸びていた足は本体に収納されて行く。

 まるで薄いレースの布地を頭上に広げられたようにクラゲ野郎の本体が薄くふんわりと広がった。

 こんな時だが、そのあまりの幻想的な光景に俺の脳裏にふと、新しい玩具からくりのデザインアイディアが浮かぶ。


「帰ったら何か作るか」


 ぽつりと口走った俺を気にすることもなく、広がった裾は俺を包み込むと巾着袋のようにしぼられた。

 閉じられた内部が急速に収縮する。

 頭上でびっしりと歯に覆われた口らしき物が大きく開き、その両脇にぎょろりとした目玉が出現した。


「お食事の時間か? だけどお前、相手を弱らせて食べるのが通常の手段じゃねぇの? いいのか? お作法ルールを守らなくて?」


 少し弾力のある壁は、トランポリンの上のような不安定さだが、走れなくはない。


「んじゃ、いくぜ!」


 掛け声を掛けると一気に走り出す。

 踏む一歩で移動する距離が弾け過ぎて着地点が読めない。

 まるで夢の中で走っている時のようだ。

 これは走るより跳ぶ方が楽だなと気づいて、俺は膝を弛めて一気に踏み切った。


「よいせっ!」


 ギチギチと蠢く口に取り付くとその両脇の目がぎろりと睨んだ。


「デカ過ぎるってのも不便なもんだな、おい」


 そう言って笑って見せると、無造作にその口を殴り付ける。

 鋭く並んだ歯が折れ飛び、そうやってむりやり開いた空間に潜り込んで蠢く内部を更に殴る。

 まるでゼリーをぐしゃりと潰したような感触がして、クラゲに似た怪異は活動を停止した。

 俺は、そういやクラゲって西方の言葉でゼリー? みたいな名前だったなぁと、どうでもいいことをその感触からふと思い出したのだった。


 さて、倒したのはいいが、敵さんがいたのは空中である。

 俺を包んでいた囲いに穴を開け切る前に本体が消えてしまい、たちまち俺は落下した。

 おかげで戦っていた時よりもヒヤリとすることとなった。

 なにしろ霧のせいで高度がさっぱり分からないまま自由落下をするハメになったのだ。

 轟々と耳を聾す風切りの音は、しかし意外に早く終わりを迎えた。

 カツンと堅い音を響かせて降り立った場所はやや傾斜している。


「これは屋根かな?」


 そのまま下るとまた空中に投げ出され、今度こそ地面かと思えば目の前には低い柵があって、造り的にベランダのようだった。

 相変わらず地上が見えず、柵を越えて飛び降りるのも何か嫌な気分なので、俺は屋内の偵察も兼ねてなかから降りることにした。


 ベランダから続くガラス戸は鍵も掛かって無くてカララという軽い音と共に開く。

 中は案外普通の部屋だった。

 家具があり、女物の洋服がハンガーに掛かっている。

 但しそこには色が無かった。

 立ち込める霧のせいなのか、それとも元々そうなのか、俺は以前観たことのあるモノクロの記録映像を思い出し、酷く非現実な気分になる。

 とはいえ、ここは迷宮だ。

 これ以上非現実な場所は無いに違いないし、それはまぁ仕方あるまい。

 あまり考えるのもかえって毒なので、俺は足早にその部屋を突っ切り廊下へと進んだ。


 吹き抜けのリビングを見下ろす螺旋の階段を踏んで一気に下の階に飛び降りる。

 ふと、どこからか水音が聞こえた。

 リビングにはソファーとテーブル、それに壁に嵌め込まれたデカいテレビジョンがあった。


「いい家だな」


 リビングから廊下へと続くであろうドアに顔を向けた俺の背後でピーンというハム音が響いた。

 思わず振り向いた目に映ったのは、テレビジョンの中の鮮やかな青い色だった。


「ぐっ!」


 一瞬目が眩んだ。

 と、ふわりと風を感じる。

 見回すと、どこかの庭らしき場所に立っていた。

 どうやらさっきの部屋が移動点ワープポイントだったらしい。


「ち、本格的に分断されたな」


 舌打ちをする。

 迷宮だけを相手にするのなら別に分断されても問題があるようなメンバーではない。

 しかし、血統狙いの冒険者が入り込んでいる現在、下手な分断は命取りだ。

 もうそろそろ浩二や由美子達とアンナ嬢が合流するはずなので、あっちは今の所大丈夫だとは思うが、この手の移動ポイントがあるなら全員で行動する必要があるだろう。


「さて、これが移動点を使った通路ならどっかに戻り道があるはずだし、単なる移動だけなら合流目標になりそうなポイントを見つけておかないとまずいな」

 辺りを見回した俺の耳に、突然笛の音が届いた。


「っ!」


 聴き覚えのある音色。

 古式ゆかしい木製の横笛の音だ。


「白音、いるのか?」


 ふわりと、庭の木立の前に和装の白音の姿が浮かぶ。

 色の無い世界の中に浮かぶその柔らかな橙の色は、人の暮らす場所に灯る明かりを思い起こさせた。

 普通の景色の中では決して強く主張しない色合いの彼女の姿だが、この霧にけぶる場所ではむしろ命ある者だということをくっきりと示すようだ。


「お久しゅうございます」

「こないだ会っただろ」


 数ヶ月を過ぎているのだから普通に考えればそこそこ時間は経過しているはずだが、俺としては短期間の内に遭いすぎという感じだ。

 むしろ勘弁してもらいたい。


「よお、お楽しみだな」


 白音が来た時点でわかっていたはずなのに、俺は反射的に飛び退いてしまった。

 ぞっとする感覚が全身を走り抜け、気力が最低の所まで下降する。

 その代わりというようにふつふつと怒りだけが沸き起こった。


「こんな低い階層をボスが徘徊か? それとも自分の迷宮で迷ったか?」


 俺の嫌味をどうやら冗談の一種だと受け取ったらしい野郎は心から楽しそうに笑ってみせた。

 そう、この迷宮の主、終天童子が、己の眷属である白音を露払いにして俺の目前に実体化でお出ましくださったのだ。


「俺の意図とは違った方向だが、これはこれでアリじゃねぇか? なあ、坊主」

「てめえの意味のわからねぇ自慢話は沢山だ、俺は忙しい、しゃべりたきゃ一人でしゃべってろ!」


 叩きつけるような俺の言葉に全く感銘を受けた風でもなく、終天は実に楽しそうだった。


「命は争うのがあるべき姿。より高みへと届くのは頂点に立てたモノだけだ。だが、俺が思った以上に、人は争い合うことが好きとみえる。全くよ、人ってのはたくましく、いじましいとは思わないか?」


 くそっ、膝が崩れそうだ。

 命としての格の違い、数百年を生きる鬼の気が場を支配して全てを飲み込んでしまう。


「独り言を呟きたいだけなら好きにしてろ!」


 地面に貼り付きそうな足を引き剥がし、俺はあえて背を向けた。

 実際今はこいつの相手をしている場合じゃない。


「なあ、いつまでも地を這う虫でいいのか? 愚かな獣は同じ場所に立つ相手に噛み付くのを躊躇わない。吠え立てられるのが嫌ならば、牙の届かぬ場所に立つしかないぞ?」

「失せろ!」


 フッと気配が消える。

 まるで何倍もの重力に晒されていたように我が身一つを支えるのに必死になっていたせいで、僅かな間に汗が全身を濡らしていた。


「くそが」


 吐き捨てるように呟いて、音を立てて奥歯を噛み締めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る