第7章 我の寧日

1.


 4月を迎えて、コミュニソーシャ村は活気に溢れていた。

 この村を占領してから1カ月、遠征軍が一度攻めてきたのを撃退したきり、敵の音沙汰がなくなった。西部戦線も南方戦線も動きが無い。

 かつて唱えられたトウエ=キョウド急襲案は頓挫した。支配下の村々への兵糧調達は芳しくなかったうえ、南方戦線に敵の攻勢が始まって、ナツァトン将軍が戻らざるを得なくなったことにより沙汰止みとなったのだ。

 そしてこの村を去るか否かで討議が行われ、新たに支配下となった地域の集落が比較的穏便に我の支配を受け入れたことを勘案し、村に残留してここを前線の拠点として活用することになった。結果的に、救援前にかの将軍が提案した積極策に沿う形になってしまったことになる。

 その策に基づくにしても、村の要塞化は最優先ながら徐々に進めざるを得なかった。西部・南方両戦線への連絡網の整備にも力を注がねばならぬ。その差配に加えて、支配下の集落からの使節との謁見、既支配領域の行政の総見、などなどの執務もこなさねばならぬ。

 我は、その一部を委任することにした。グートを既支配地域の諸政務総監兼侍従長補に任命したのだ。本来ならこの村で、かつて得ていた様々な知識をもってトウエ=キョウド対策に当たらせるべきかもしれぬ。だが、武将としてはかつての経歴から言ってユーゴスの上に位付けせざるを得ない以上、この戦域の指揮官はグートになってしまう。だが、用兵家としての能力はユーゴスのそれに劣り、行政官としては勝ると我は見た。ゆえに宮中の職も上乗せして、グートを後方に送り出したのだ。

 そして彼と手勢が出立したあと、入れ替わるように商人たちが村にやってくるようになった。王を始めとする官僚と軍団が駐留することになったのだから、我が王国最西部における文字通りのいち寒村であろうと商人たちの足が遠のくわけがない。村の目抜き通りがすぐに店で埋まり、入りきれない商人たちは村の南東に急遽開通した街道に沿って掘立小屋を並べた。

 賑やかな目抜き通りを、我は臨時の王宮と定めた村長の屋敷に向かって帰還するところであった。人々の黙礼に鷹揚に手を振り、馬をゆっくりと進ませる。

 屋敷に着くと、侍従長のチマオが玄関前にて我を迎えた。

「お疲れ様でございます、陛下」

「うむ、我は見ているだけだったがな」

 我は村西部の街道沿いに築城中の砦を視察しに行ったのであった。

「本当でございますか?」

「なぜに疑う?」

 いつものことながら、侍従長は疑い深い。

「このあいだ行かれた街道敷設現場で、ちょっと目を離したら、自らモッコを担いで土を運んでおられたのはどなたでしたかな?」

「ぐぅ……手が足りないと監督が申す故、仕方ないではないか」

「まったく……」

 侍従長のぼやきが聞こえた直後、中庭のほうで掛け声が聞こえ始めた。

(まだ続けておるのか。一途なことよな)

 その思念とともに、我は以前のことをふいに思い出した……



 ある日、執務を途中休憩してくつろいでいた我の耳に、聞き慣れぬ音が聞こえてきた。

「ところで侍従長よ」

 と我は問いかけた。我の政務を補佐するため、村の解放後すぐこちらに移動してきたのだ。

「この声はなんだ?」

 声。それは若い女のものである。掛け声のように聞こえる。

 侍従長は黙って、中庭に我を案内してくれた。

 エイ! ヤア! エイ! エイ! ヤア!

「……何をしておる?」

 声の主は、マルカだった。長い髪をひっつめ、腕まくりまでして、自分の腕より太い木刀を振っているではないか。

「あ、陛下! お帰りなさいませ!」

 我の発した問いに気付いて、マルカは素振りを止め、元気に一礼した。相変わらず元気の良いことであるが、

「うむ。で、何をしておるのだ?」

「はい! 剣の稽古です!」

「何ゆえそのようなことを……」

 兵士にでも転職する気なのだろうか。側仕えになったばかりだというのに。

 教団主宰のグラデシュは我の叱責のあとすぐ、姿をくらました。

 騒然となった教団は副宰が取りまとめようとしたが失敗し、10人程度の構成員を残して崩壊した。故郷へ帰る者、我が領内の集落へ転出する者、昵懇になった村人の所に転がり込む者とそれぞれがそれぞれの活路を選んだが、魍魎になりたいと願う者が一人として出なかったことに、我はまた落胆したような納得したような奇妙な感想を抱いた。

 そして、マルカはこの顛末に、まったく蚊帳の外であった。彼女は誰からも相談されず、希望を聞かれず、誘われなかったのだ。噂ではあの昼食会に1人で行ったのが決定的であったとのことであったが、ならば我の責任である。

 噂を聞いてすぐ村中を探し回り、村はずれの大木の下で悄然と座り込んでいたマルカをようやく見つけて屋敷に連れ帰った時には、すでにその日も暮れようとしていた。部屋を与えたあと、夕食までに出した結論は、『マルカを我の側に仕えさせる』というものであった。

 マルカは木刀を地面に寝かせ、そのままかしこまって答えた。

「陛下はいつも短剣1つ帯びるだけで出歩かれます。侍従長様に伺いましたら、長剣を使う気も力も無いからだとのお答えでした。ニカラさんやコンさんもいらっしゃいますし、警護の方も見えますけど、私もいざという時に陛下をお守りしたいのです。それでユーゴスさんに相談したら、これを渡されました」

 あの男も無茶をする、と我は思った。先ほどの素振りを見ている限り、明らかに木刀に振られている。あれでは自分の身すら守れぬであろう。

 ニカラも同じ意見のようだ。

「もっと細いやつか、短いやつで素振りしたほうがいいんじゃねぇか? マルカちゃんよ」

 それを聞いて、マルカはうなだれるどころか、にっこりしてニカラに答えた。

「いえでも、剣を振る力を今付けているところですから、これでしばらくやってみたいと思います」

「まぁ、それならいいけどよ」

「ふむ、確かにな」と我も同意した。

「その鶏ガラのような腕では、短剣すら振るえないだろうからな」

 と言い終わらないうちに、我は左足の先に痛みを感じた。チマオが我の足を踏んでいるではないか。何事ぞとその顔を見ると、やけに険しい。

(陛下、年頃のおなごにそのような言辞を使ってはなりませぬ)

 侍従長の囁きも、コンの視線も厳しい。マルカはと見れば、袖をまくった自分の腕をじっと見つめている。コンが空咳をして話し出した。

「まあほら、昔のあたしみたいに仕事で重い荷物を持つようになるとさ、腕が太くなっちゃってほら、これはこれで、ね?」

「確かにおめぇの腕は太いよな、うん」

「ニカラ? またあたしにケンカ売ろうってのかい?」

(チマオよ、ニカラは褒めたのに怒られたぞ?)

(褒めておりませぬ)

 中庭に給仕が入ってきて、昼食の支度を始めた。ここにいても邪魔になるので、マルカも伴って執務室へと移動する。

 ポドンラーが村人の陳情を聞いたり少人数での会合を開く時に使用していた中くらいの広さの部屋を、我は執務室として使用していた。出入り口にも窓辺にも衛兵を立哨させているため、ニカラとコンの任務を解き、部屋の椅子でくつろがせる。マルカは我とチマオにお茶を淹れ、それから3人分を淹れてニカラたちのところに座っておしゃべりを始めた。

 書類の決裁を進めて1時間、ようやく溜まった仕事を終えて、我はぐっと伸びをした。マルカが気付き、いそいそとお茶を淹れ直す支度を始める。

「ああいや、マルカ。もうすぐ昼食ゆえ、お茶は淹れなくてよい」

 とチマオが止めると、我のほうに向き直った。

「陛下、そういえば、マルカの例の件、考えはまとまりましたか?」

「マルカの? ああ、職称のことか」

 マルカの現状を表す役職が、今までにない。そのことが、マルカを仕えさせる時に問題となったのだ。召使と呼ぶほど、細々とした雑務をさせるわけではない。かといって侍従では、儀式の次第を司ったり枢密の儀を相談したりといった役職になり、そこまではという事になる。

「それなのだがな、チマオよ」

 我は考えあぐねた末の腹案を出してみることにした。

「側に仕えるおなごなのだから、"側女そばめ"はどうか?」

 部屋の隅で、ニカラとコンが突然茶を吹き出した。チマオはもう茶碗の中は空なのに、なぜか苦いものを飲んだように渋い顔をしている。

「陛下?」

「うむ?」

「わざとやっておられますな?」

「何がだ?」

 ふと窓際から視線を感じた。そちらを見れば、急須を片手にマルカが顔を真っ赤にして我を凝視している。いや、あれは固まっているのか?

「陛下、側女というのは、側室や妾を指す隠語でございますぞ」

 とようやく侍従長が声を発し、

「ぬぅ、なるほど」

 これでこやつらの反応が理解できた。

「妻もおらぬのに、妾というのもおかしな話であるな」

「そういう問題ではないのですが……」

 見える。チマオの顔に『このうつけ、どうしてくれようか』と書いてあるのが。

「陛下陛下陛下! それならいっそ、"王妃"にしちまえば万事解決じゃねぇですか!」

「お?! おおおおおうひ?!」

 ニカラが何やら面白げに建白し、我より速くマルカが素っ頓狂な叫びを上げた。

「ニカラ、あんたにしちゃあ冴えた提案じゃないか?」

「へっへっへっ」

 コンに褒められて嬉しそうなニカラ。そちらをチマオがにらむ。

「戯言を申すな。陛下がその気になったらどうするのだ」

「まあ確かにな」と我は腕を組んで考えた。

「我がヒトとまぐわ……いや失敬」

 チマオは先日の昼食会のことを弟のナツァトンから通報されており、我の失言未遂に対して即座に目くじらを立てる勢いである。

「……おほん、同衾もせぬのに王妃はおかしいな、うむ。……どうした? マルカ」

 マルカの顔を染めていた朱はだいぶ引いて、今は頬に残るだけである。その眼は一時の驚愕から打って変わって、我が思わず見入るほど輝いていた。窓に背を向けているにもかかわらず。

 侍従長が咳払いをした。

「では、これでいかがでしょう? ニカラやコン、マルカをまとめて"御側衆"ということで」

「……なんだか側女と大して変わらぬような気もするが、まあよい」

「ではそのようにいたします」

 侍従長は一礼し、その件は決まった。

 マルカはまだ持っていた急須を盆にようやく置くと、ふうっと溜息をついた。そこから急に立ち直る。

「そうだ! やっぱり剣の稽古をしないと! 御側衆なんだし」

(まだ続ける気なのか……)

 我は呆れながら、やや冷めた茶をすすった……



 我の追憶は部屋の戸を叩く音で破られた。御前会議の用意ができたようだ。

 その冒頭、グートから送ってきた報告が読み上げられた。海の民による沿岸への攻撃は依然続いているようで、防衛戦力の手当てを求めてきている。

「あの辺りに予備兵力は……ございませんな」

 チマオが手元の資料を見ずに発言する。となれば、どこかから持ってこねばならないが……

「南方戦線に、回せる兵力はあるか?」

 ナツァトンの幕僚を南方戦線から呼んである。我の問いに、彼はいたって申し訳なさそうに答えた。

「恐れながら、余裕はございません」

「西部戦線とて、余裕はないぞ」とその戦線の司令官であるチマオが言う。

 我は資料を見て考え、決定を下した。

「ここと西部、南方から1部隊ずつ送ることとする。チマオよ」

 我はかしこまる侍従長に命令を追加する。

「グート宛に、その兵力でなんとかせよということ、海の民との休戦の可能性を探ること、その2点を伝えよ」

 追えば海の向こうに逃げるゆえ、撃滅はできぬ。軍船も無い現状ではなおさら。ならば、平和を金で買う。当面の時間稼ぎということになる。

 そのほか幾つかの議題を消化して、御前会議は終了した。


2.


 午後はコミュニソーシャ村長改め臨時王都市長となったポドンラーの招きで、臨時王都郊外にある彼の牧場へ行く。

 彼には王都に働くヒトを束ね、動かしてもらわねばならないため、こういった招待はお互いの溝を埋めるためにも必要であろう。また、そういった政治的思惑とは別に、我にとって牧場への招待は格別の馳走である。

 牧場は事前に聞いていたとおり、見渡す限りの広さであった。その正門前で、ポドンラー一家が我ら一行を出迎えてくれた。

 型どおりの挨拶もそこそこに母屋の広間に入り、お互いの紹介が始まった。ヒトであるマルカが我の随員として紹介された時も、事前に言い含めてあったのだろう、表面上は驚きは見られなかった。

 そのマルカが目を輝かせた。

「わ! 赤ちゃん!」

 長男の嫁が胸に抱いているのは、市長の初孫であると言う。少しだけためらったあと、彼女はマルカに子どもを抱かせた。

「へぇ、上手に抱けるもんだねぇ」

 とコンが目を細めている。赤子も愛想良くマルカの長い髪を束で掴んでみたり、なにやらごにょごにょと叫んでみたり。その難語に律儀に返すマルカの表情は、いつもの溌剌とした可愛さとは趣の違う、なんと言えばよいのか――

「女らしさ、って言えばいいんですよ、陛下」

「我の思考を読むか、コンよ」

 コンと話す我を見て、マルカの表情がなぜか少し拗ねたものになった。ゆっくりと近づいてくると、赤子をそっと差し出す。

「陛下も抱かれますか?」

 そのにこやかな、しかしなぜか斬り込んでくるような声色に我は思わず手を伸ばし、すんでのところで引っ込めた。

「陛下! 危ないじゃありませんか!」

 マルカの叫びに続いて、ポドンラー一家の息を飲む音が聞こえる。だがそれは、我が赤子をもらう振りをしたのが危なっかしかったからではあるまい。そこに気付かぬ様子のマルカに、我は静かに告げた。両掌を彼女のほうに見せて。

「すまぬ。この手ゆえ、抱けぬのだ」

 マルカの表情は、驚きで急変した。懸命に我と母親に詫びる彼女に同調したのか、赤子がぐずり始める。我は赤子を母親に返すようマルカに命じると、声を敢えて張った。

「では市長よ、牧場に案内願いたい」

 こちらもさすがに大人である市長の何事も無かったような先導で、我らは春の若草が生い茂る牧場へと足を踏み入れた。つらつらと要所要所を見せてもらったあと、市長はいささか恐縮の態で彼方を手で示した。

「では陛下、こちらへ。既にしつらえてありますので」

 そこは母屋からさほど遠くない、小高い丘の上に設けられた見張り台であった。我とマルカたち随員、そして衛兵が入れる程度の広さで、きれいに掃き清められている。中央やや前方に寄って置かれている大机の上には、軽食と葡萄酒や水の入った瓶子が並べられていた。

 牧場の使用人を1人残し、飲食の追加などの用命はその者にと言い置いて、ポドンラーは母屋に去っていった。

「ニカラ、コン、マルカ」

「はい」

「まあ座れ。衛兵よ、すまぬ」

 我は緑の牧場を見渡せる正面に座り、机の横側、我の視界を遮らぬように右にニカラとコン、左にマルカが座った。

「ほら、マルカちゃん。お酌お酌」

「あ、ああ、そうですね」

 コンに囁かれたマルカが慌てて立ち上がり、こぼさぬように気をつけて、瓶子から我の杯に葡萄酒を注いだ。簡素な作りながら銀製の杯は重厚感があり、よく磨かれている。その杯を手に取り、お側衆の3人がすべて注ぎ終わるのを待って、我は発声した。

「皆の健康と平和に」

 街の酒場ならば杯を打ち鳴らして気勢を上げるところだが、我はあの風習が嫌いである。それを忘れたニカラが勢いよく杯を突き出そうとして、思い出して中途半端な姿勢で止まった姿が可笑しく、皆でくすりとした。

 そこから後は、我はただただ、草原を吹き渡る微風になぶられながら、牧場を眺めるのみ。我のいる囲い場は馬のためのものであり、共に草を食む親子、首を振り振り柵の近くを回り続ける馬、3頭で駆け合いをしては止まりを繰り返す若駒たちなどを飽かず見つめ続けた。

 ちびちびと舐めていた葡萄酒が、いつの間にかなくなっていることに気付く。マルカが黙って立ち上がって瓶子を持ち上げ、注いでくれた。

 それを幾たび繰り返したろうか。マルカの物問いたげな表情に気付き、我は彼女の面長な顔を見やった。

「何か?」

「あの、恐れながらお聞きしたいことがございます」

 賑やかに、しかし我の邪魔にならぬ程度に話し込んでいたニカラとコンが話を止め、我らの会話に注目した。

「無礼ならば、お叱りください。その御手のことなのですが」

「うむ」

「何かで包めば、触れたものが魍魎にならなくなる、ということはないのでしょうか? 例えば分厚い皮の手袋とか……」

「それはない」と我は首を振った。

「さすがに壁の向こうのヒトに試したことはないが、間にどんな物があっても馴致は行えるのだ。厚さも、そうさな」と我は大机の縁を少しのぞいて、

「この机程度の厚さなら、馴致が可能だな。……先程の赤子の件か?」

 いえ、と呟くマルカの気落ちした表情に、我の心はざわめく。他に一体何があるのだろう。そのことを問おうとしたが、マルカの次の問いのほうが早かった。

「陛下は、牧場がお好きなんですか?」

「うむ」

 いささかはぐらかされたような気もするが、我は素直に頷いた。

「何も考えず、ということもあるまいが、我らやヒトのように陰謀を巡らし、こせこせと動き回る。そういうことが、あの者どもには無い。それを眺め暮らすのが、我の休暇なのだ」

「じゃあ、奥の院っていうのがある本拠地には、大きな牧場が――」

「無い」

 我はまた素直に否定した。

「お造りになれば――あぁいえ! その、浪費しろとかそういうことを申し上げてるわけじゃなくって、その……」

「違う。家畜を初め動物たちは、魍魎を嫌う。気付かなんだか? あの馬たちが、我らに近寄ってこないのを。馬が本質的に臆病なのを除いても、我らには牧畜が出来ぬのだ」

 よって、牧場を経営しようと思えばヒトを働かせねばならない。が、本拠地にヒトは入れられない。家畜を魍魎にすれば言うことを聞くようになるが、それでは繁殖ができない。また、馴致した肉畜は食えぬ。

「ゆえに、我はこの大地に住まうもの全てを魍魎にする気はないのだ」

 と説明を終えた。

 静かに頷くと、マルカはまた葡萄酒を注いでくれ、それから馬を見始めた。午後の陽ざしが心地良く、段々ニカラの声も、コンの笑いも気にならなくなってきた……

 ……どれほど眠っていたのだろうか。ふと我の意識は、『陛下』という単語に刺激されて覚めた。

(マルカちゃんよ、これはもうはっきり言ってやらねぇと分からねぇお人だぜ?)

(うんうん、鈍いなんてもんじゃないね)

 誰の話をしている?

(でも……わたしは別に……)

 マルカ?

(はっきり言ってやれって。赤子じゃねぇ、抱いてもらいてぇのは――)

(きゃー! キャー! 止めてくださいよニカラさん!)

(シーッ! 陛下が起きるよ!)

 我が、何を抱くと?

(まあでも、言ったとしても通じなさそうじゃない?)

(そうか?)

(ほら、前に奥の院に帰った時いたじゃん、陛下に色目使ってる召使が)

(ああ、イイ女だったなぁ)

(へ、陛下はそんなお人じゃありません!)

 いったい何の話をしておるのだ、こやつらは?

「陛下! 陛下!」

 男の鋭い声に、我は跳ね起きた。衛兵の長が我の傍に膝を突いている。

「お休みのところ申し訳ありませんが、陽も翳って参りましたし、市長殿より、母屋にてお風呂を差し上げたいとの申し出がございましたので」

 我は伸びを一つすると首の骨を鳴らし、立ち上がった。

「待たせてすまなかった。さ、参ろうか」

「はい!」

 と嬉しそうなマルカに笑み返して、我はもう一度馬たちの姿を目に収めると、足を母屋に向けた。寝たふりをして聞いた会話を話題にするのはよくないだろう。マルカたちには黙っておこう。意味はいずれ分かるだろうし。なぜか妙な自信が、我にはあった。


3.


 牧場訪問から3日後。午前中は執務室に缶詰めで書類の決裁を頑張り、午後は市中の見回り。空は午前中は晴れていたのに曇り始め、生暖かい風が吹いている。

「ふぅ、なんだかすっきりしねぇ天気ですねぇ」

「まったくだな。暖かいのだけが救いか」

「そうですね」

 馬上から話す我に、徒歩のマルカが相槌を打ってきた。貴族の端くれである父母から言葉遣いや礼儀作法などを教えられた彼女だが、乗馬の訓練はさせてもらえなかったため、移動は徒歩である。むろん平民であったニカラもコンも馬には乗れない。

(そういえばニカラに『陛下に乗せてってもらえばいいんじゃないか』とか言われて、盛大に照れておったな)

 コンやニカラとの会話に相槌を打ちながら、我はちらとマルカを見下ろしてみた。マルカは、我を見上げていた。器用にも、前を見ず歩き続けている。

「マルカ? 何か話があるのか?」

「……いえ」

 なぜかマルカは意気消沈した。目の光が消えた顔を俯かせ、やはり器用にも前を見ずに歩いている。

(出たぜ、陛下の焦らしがよ)

(バカ、聞こえたらお手討ちもんだよ)

 今のニカラの囁きが、何ゆえ我が手討ちの対象になるのだ?

 後ろをゆくコンに確認しようとして振り返った時、我の視界に市中の人々の仕草が飛び込んできた。

 我らの一団に頭を垂れていた彼らが、通り過ぎたことで頭を上げて、何やらひそひそと話している。我らを指差す者も複数いて、その指先は我の乗る馬の腹を、いや違う。

(マルカを指差しておるのか!)

「陛下」

「なんだ!」

「お顔が怖いです」

 我知らず、指差す人々をにらみつけていたらしい。たしなめてくれたコンの向こう、指差した人々は怯えていた。

「仕方がねぇっすよ」

 とニカラが大げさに肩をすくめた。自分の周囲をぐるりを手で指して、言う。

「マルカちゃんは目立ちますぜ、どうしたって」

「ふむ」なるほど。

「確かに可憐だからな、マルカは」

「~~~!?!」

 なぜこの娘は、せっかく褒めたのに、下を向いてしまうのだ?

(殴りてぇ。ああ殴りてぇ)

(お手討ち待った無しだねぇ)

 見回せば、我と同じく馬上の衛兵たちがまっすぐ前を向いて、ふるふると震えている。"可憐"という言葉がまずかったのだろうか。たしか卑猥な言葉ではないはずなのに。だが、俯いたままのマルカは馬上からは耳しか見えず、それが真っ赤であることからも、我がまた失言したことは明らかである。

 奥の院に置いてきた辞書を持ってこさせようか。そうつぶやいた我の目に、キャピタの家の祭司が住む住居とその前の人だかりが見えてきた。

 馬を止め、コンを見に行かせる。人垣に吸い込まれてからしばらく、戻ってきた彼女の声は弾んでいた。

「祝言を挙げているんですよ。それでですね」

「ふむ?」

「新郎の父親が、恐れながら陛下に一言お祝いの言葉をいただければ、って言ってますけど」

「……その新郎と新婦は、我の見知った者か?」

「あの、陛下。恐れながら」と衛兵の1人が言った。

「お決まりのお祝いの言葉を言えばいいんじゃないでしょうか?」

 なるほど、それなら集落を訪れた時に乞われてしたことがある。

「よかろう。コン、受諾した旨伝えてきてくれぬか」

 コンにもうひと仕事頼むと、我は馬を降りた。



 新郎と新婦は、聞くところによると共に16歳。この年齢で同い年ということは、好き合うた末かと父親に聞くと、そのとおりとのことであった。

 王が座るべき高みを作ろうとするので、我は止めた。一言述べて帰るのに、式を中断して造作をさせるつもりはない。

 人垣を開けた一画に、我を中心に御側衆と衛兵が周囲を取り巻いて、即席の御座所となった。もっとも、我に触れられると魍魎と化すことを知っている者たちゆえ、自然に空間は出来るのだが。

 我の目の前では、我を見つけてもそ知らぬ顔の祭司から祝福を受けた新郎と新婦が住居の玄関より出て、列席者より祝福の花びらを振り撒かれているところであった。花びらの洗礼を存分に受けた2人が、立ち止まる。列席者のみならず群衆の歓呼を浴びた彼と彼女は繋いだ手を離さぬまま向き合うと、向き合った刹那、硬く抱擁した。それは魍魎の王たる我から見ても実に微笑ましき和合の形である。

 つと脇を見ると、マルカが両手を胸の前で組み合わせていた。その瞳は陶然として、いままで我が見たこともないほど美しく煌めいている。

 やがて周りに囃されて、新郎と新婦はいささかためらった末。そっと接吻した。囃したくせに、黄色い歓声が沸き起こる。我はその光景を、飽かず眺めていた。なぜかは分からぬ。ただただ、眼前で進む一切を、好もしき泡沫うたかたとして眺めていたのだ。

 やがて名残惜しそうに唇を離した新婦に促されて、新郎は彼女の手を取ると我に歩み寄ってきた。その場に片膝を突き、我の言葉を待つ。

「うむ、この良き日に2人の門出に立ち会えたことを嬉しく思う。新郎よ」

 我に呼びかけられた新郎がびくっと震えて、面を上げた。

「そなたは今日をもって独り身ではなくなった。そなたの背には家族が載るのだ。常にな。それはそなたを励まし、ある時は支え、ある時は……喧嘩も多少はするかも知れぬが、それでも分かちがたきものであること、疑いなし。励むがよい。新婦よ」

 新婦は頭を下げたまま、わずかに体を動かした。

「そなたの横に今おるは、そなたが選びし良き人であろう。あるいはその者が病を得て、そなたが代わりに背負う役目になるやもしれぬ。だが、それもそなたが選んだ道である。投げ出すことの無きよう、同じ男として願う。祝言を心から祝福して、祝いの挨拶とする」

 拍手が起こって、我はそれを潮時に退場することとした。

 臨時王宮への帰り道は、往きよりも雲が濃くなっての薄暗いものだった。市場はすでに終わり、沿道には人がまばらにしかいない。その景色を見るともなく見ながら、マルカの声は華やいでいた。

「ステキなお式でしたねぇ」

「ふむ、具体的にはどの辺りをそう思ったのだ?」

 と聞いてみると、即答が返ってくる。

「祭司様のお宅から出てきた2人が、愛を誓い合うところです。私も、あんなふうにしてもらえたらいいのに……」

 改めてマルカを見れば、まるで自分の事のように上気した顔である。

「ああ、抱き合って口吸いをした場面か。なるほど、そういうものか……」

「陛下、いつも思うんすけど、口吸いとかの古い言葉、どこから拾ってくるんすか?」

 とニカラが呆れ顔だ。それから、思い出したようにぼやいた。

「拍手してんのは半分くらいでしたねぇ」

「ん? そうであったか?」

 我の祝辞のことらしい。気にしていなかったが、コンもマルカもうなずいている。

「ったく、ケツの穴の小いせぇ奴らだぜ。祝いの席くらい盛大にやりやがれってんだ」

「2人が幸せそうだったから、いいじゃないか」とコンがニカラをなだめた。

「そおかぁ?」とニカラには異論があるようだ。

「客の顔ぶれを見た感じ、新郎の奴ぁ職人の半人前か、一人立ちしてまもなくって感じじゃねぇか? なのに所帯なんか持っちまってよ、苦労するぜ? 奴もカミさんも」

「ニカラさんは、世知辛すぎます!」

 そう叫んで口を尖らせたのはマルカだった。歩きながら手を先ほどのように胸の前で組んで、これは先ほどではないながら眼も輝かせている。

「好き合った2人が、何があっても手と手を取り合っていく……素敵じゃないですか」

「別に好き合うなたぁ言ってねぇよ。もっとしっかり稼げるようになってから嫁探ししろっての! そのほうがいい嫁が見つかるってもんだぜ! ねぇ、陛下?」

 我に振られるでもなく、これが常識である。妻の実家の力と人脈があればあるほど、男は仕事が広がる。男は世間の波にもまれて、波に飲まれないで泳ぐ術を身に着け、その結果手に入れた社会的地位に応じた女性に求婚できるのだ。勢い、男が所帯を持つ年齢は遅めになるというものである。

 我がした肯定的な返事が不満だったのか、マルカはコンに与力を求めようとした。だが。

「……ごめんね、マルカちゃん。あたし、恋愛結婚だったから」

「ですよね! …って、あれ? なんで"ごめんね"なんですか?」

 マルカの疑問は、彼女の急上昇によって遮られた。ニカラがマルカの両脇を持ち上げると、我の座る鞍の後ろに少女をひょいと乗せてしまったのだ。

「ニカラ!」「なななにするんですか?!」

「衛兵さん、傘貸してくれ!」

 傘という言葉に我はハッと気づく。雨粒が天から落ちてきたのだ。衛兵の1人が自分の鞍から外した我の傘を、ニカラは素早く拡げると我とマルカのために差してくれた。

 降り始めた時特有の土の匂いが鼻孔をくすぐる。春雨らしくしとしとと降る中を、我らはやや速足で帰路をたどった。

(ニカラ……)

(んあ?)

(……すまないね)

(ああ)

 コンとニカラの会話を耳にしながら、背のマルカに我は話しかけた。何と言うか、何か話しかけねばならぬような気持ちになったのだ。

「そういえばマルカよ」

「は、はい!」

 今の2人の会話で察してくれたのか、マルカは元気よく答えた。

「以前体験した時に聞いたのだが、ヒトの風習ではこの状況を相合傘と言うそうだな? まことか?」

「そうですね」

 なぜだろう、我の後頭部に感じる視線が不穏である。

「陛下?」

「なんだ?」

「どこのどなたと、相合傘なんてなさったんですか?」

「? 何を怒っておるのだ?」

「怒ってなんかいません!」

「声を荒げておるではないか!」

「荒げていらっしゃるのは、陛下です!」

(コン――)

(今面白いところだから、黙ってて)

「コン! なぜ名乗り出ぬ!」

 チッ、と舌打ちが聞こえた気がしたが、王者の心で聞き流してやり、コンに説明させる。

「ふーん……」

「ニカラ」

「へい」

「なぜ、マルカは機嫌が悪いのだ?」

「それをあっしに振りますか……」

「勅命である。答えよ」

 ニカラは傘を持っていないほうの手で頭をぼりぼり掻きつつ答えた。

「恐れながら申し上げます。おなごの気持ちなら、オレよりコンのほうが……といいますか、マルカちゃんの言動見て、本当に分からねぇんですか?」

「分からぬから聞いておる――」

 我の言葉は、臨時王宮のほうから泥を盛大に跳ね上げて迫ってくる馬が立てる馬蹄の音によって妨げられた。その馬に乗る、馬と同じく泥まみれの兵が叫ぶ。

「申し上げます!」

「何事だ!」

「敵の大軍がここに向かっております!」

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