第5章 我の出会い

1.


 村での夜は、屋敷前の広場でのささやかな歓迎の宴で始まった。

 我を主賓席に据え、左をナツァトンとユーゴス、右には教団主宰のグラデシュと副宰のイアナが座る。それぞれの後ろには幕僚たちや教団の幹部が長机に居並び、食事と酒を振る舞われていた。だが今は、先程まで騒々しくがっついていた音が見事なまでに止み、我と同様、前方を見つめている。

 我らの面前では、2人1組の女性たち6組が舞いを舞っていた。手を繋いでクルクルと回ったかと思うと、手を放したあと各自が舞踊したり、ゆっくりとした艶やかな仕草を見せたりと、なかなかに変化に富んだ踊りだ。

 群舞の場面ではいささか揃わぬ部分もあり、また伴奏を受け持った男性たちもいかにも急ごしらえといった風情で、音がずれて踊り子が戸惑う時があった。だがそれでも楽しげな雰囲気は損なわれず、彼女らが踊り終えた時、我はためらいなく拍手を送った。

 少し遅れて他の者たちも拍手を送ると、踊り子たちは照れて手を振りながら下がっていった。

「いかがでしたか? 救い主様にいつか見ていただこうと、皆で練習していた舞いでございます」

「うむ。良くできておったな」

 我は褒めると杯を取り、中身を口に含んだ。

「お気に召しませぬか?」

 我の表情が彼にとって思いのほか平静なものであったのだろう、心配げにかつ控えめに訪ねてくる主宰に、我は微笑んだ。

「ところで主宰よ」

「は、はい」

「その頭に付けている角飾りはなんだ?」

「これは、救い主様のお姿をお借りし、少しでもお近づきになりたい私たちの合い印でございます」

 主宰のみならず、居並ぶ幹部にも、先ほどの踊り子たちにも側頭部に一対ずつ紐で結わえてあるのは、山羊のものと思しき角だった。

「はて……そういえば、先々代の王が被っていた兜にそのようなものがあったな。そなたはそれを見たことがあるのか?」

 我の下問に主催は慌てた。

「い、いえ! 王都大聖堂に描かれた魔王、いや失礼、救い主様のお姿に、角がございましたので」

「なるほど」

「お気に召しませぬか?」

「いや、かまわぬ。そなたらの風習に干渉する気はない」

 我の言葉を聞いて安心したらしい。主宰は一礼すると、瓶子を持って我の臣下たちに酒を注ぎに行った。副宰もそれに倣う。我が臣下的には、女性である副宰のほうが嬉しいようだ。

「ニカラ」

「へい」

「お前とコンの酒食は、あのグラデシュという男に別に用意させてある。すまぬが、我が床に就くまで辛抱してくれ」

「へへへ、お見通しですかい」

「ニカラ、言葉遣い直しな」

 とコンがたしなめると、ニカラはへいへいと言って直立した。

 ふと右を流し見ると、幕僚の1人が遠くからすっと頭を下げた。我は席から離れると、主宰に一時離席の断りを入れてくるようコンに言い付けて、幕僚の後に従った。

 屋敷の陰にて、我は問う。

「いかがいたした?」

「村長がお会いしたいと申しておりますが、いかがいたしましょうか?」

「村長? それはあの主宰ではないのか?」

 主宰からはそう説明を受けていたのだ。が、幕僚は首を振った。

「本当の村長、と言うべきかと。どうやら平和裏の移住ではない様子です」

「よし、会おう」と我は言った。

 本当の村長とやらは、屋敷から少し離れた人家の前にいた。頭の禿げあがった老齢の男性で、ポドンラーと名乗った。なおも何か言おうとするポドンラーの機先を制して、我は告げた。

「挨拶はいい。我はあちらの宴に出席中である。簡潔に申せ」

 一瞬鼻白んだポドンラーであったが、すぐに気を取り直して話し始めた。

「その……陛下におかせられては、あの教団をどうなさるおつもりですか?」

「その件については、まだ検討中である」

 救援に来たことは、間違いない。だが、我を"救い主"と呼ぶこの教団をどうするか、どうしたいかを決めかねている。それ以前に、まだ彼らの教義というか、考えを聞いていないのだ。それは明日の朝食後に時間を取って、聴取する予定である。

 そのことをポドンラーに伝え、さらに付け加えた。

「お前の意見については、そののち聞くこととしたい。それから、あの教団といさかいを起こすな」

 ポドンラーは明らかに不服そうであったが、首を垂れた。最後に、この村の祭司を害するつもりも無いことを伝えて、我は背を向け宴の会場へと去った。

「ニカラ」

「へい」

「何がおかしい?」

「いえね――」

 くつくつと笑いながら、ニカラは言った。

「ヒトだった時は、王様ってのはいつも踏ん反りかえってりゃいいんだから楽な商売だよな、って思ってたんすよ。でも陛下を見てると、あんな爺の恨み節も無視できねぇ。因果なこってすねぇ」

「ニカラ、言葉遣い直しな」と遅れてきたコンがまたたしなめる。

「まあベイティア王の場合は、王に直に恨み節が行く前に、大臣だのなんだのと臣下がおるだろうからな」

 宴の場へ戻る道を辿りながら、我は言った。

「陛下にもいらっしゃるじゃありませんか。侍従長殿とか、その、ユーゴス殿とか」

 コンの指摘に返答する。

「あやつらは忙しい。取り留めない愚痴など聞いている暇はない。だから我が聞く。それだけのことだ」

 ニカラとコンが何か言おうとしたが、主宰が近づいてきたので手で制した。

「救い主――」

「その呼び名だが」と我は主宰を遮った。

「我はまだそなたの説明を聞いておらぬ。そなたらが駐在伯に討伐されると聞いて救援には来たが、そなたらをどうするかはまだ決めていないのだ。我がそなたの説明を聞いてのち、呼び名をどうするかは考えたい」

「で、では早速にでもご説明を――」

「明日の朝。そう伝えたな?」

 我は、不必要にくどい輩が好きではない。そのことが表情に出たのであろう、主宰は即座に平伏した。

「そ、それではもう1つだけ」

「なんだ?」

「夜伽は、いかがなさいますか?」

「いらぬ」と我は素っ気無く答えた。

「魍魎がヒトと交わらぬこと、知らぬそなたではあるまい? 我も同様である」

 支配下地域にあるヒトの集落を回ると、この手の斡旋というか誘いをよく受ける。その度ごとに説明するのだが、話を持ちかけてくる村長や町の有力者たちの『またまたご冗談を』や『聖人君子ぶりやがって』と言わんばかりの面が、実に不愉快である。

 目の前にいる主宰も、同様の感想だったようだ。群舞の時最前列にいた娘がどうとか言い始めたので無視していると、

「陛下、さあ、参りましょう。皆、陛下の還御を待っております」

 話を聞いていたのだろう。ユーゴスが主宰の後ろから近づいてきて、その場を収めてくれた。


2.


 宴がお開きとなって、我は寝所に入った。屋敷は村で一番大きく立派な建築物で、ポドンラーの物であったのを主宰が防衛の指揮を取るため、解放後は我に提供するため接収したらしい。なるほどここを追い出されたのだから、怒り心頭なのは分からないでもない。

 不寝番の衛兵と交代して自由の身となったニカラとコンが、何やら言い合いながら遠ざかっていくのを部屋の外に聞きながら、我は考える。

 さて、どうしたものか。

 正直な話、主宰の第一印象は良くなかった。情熱は分からないでもない。その情熱の相手が直々に救援に来たのだ。嬉しさの余りはしゃぐのも無理はない、とは思う。

 だが、あの他人の話を聞こうとしない姿勢が、どうにも気に触る。今朝解放してやった大祭司もああいう物言いであったことを考えると、宗教者とはかくなるものなのだろうか。

 いずれにせよ、明日だ。寝台に近づいた我を、戸を叩く訪いの音が止めた。

「なにか?」

「お休みのところ申し訳ありません」

 と衛兵の戸惑った声が扉越しに聞こえる。この声は、屋敷の内部を巡回している者のそれだ。

「娘が1人、来ております。陛下にお会いしたいと申しておりまして……」

(主宰め……!)

 我の言葉を無視するとは、良い度胸だ。良かろう、今すぐにでも無視できぬようにしてやる。勢い込んで扉を開けた我は、そこに衛兵2鬼に挟まれた1人の若い娘を見とめた。

 廊下に灯された蝋燭2つでは判然としないが、歳の頃は10代前半だろうか。上背の高さで近づく者を威圧することも任務のうちである衛兵の、肩までの背丈しかない細身に簡素な白い服を身にまとい、両手を胸の前に組んで我を緊張した面持ちで見つめている。その姿を見た我の中に、先ほどとは別の怒りが沸き上がった。

(このような年端もゆかぬ少女を使うとは、非道にも程がある!)

 我は衛兵に声をかけた。

「付いて参れ。主宰のところへ行く」

「主宰……様?」と少女が声を発した。

「そうだ。お前を夜伽に差し出した人非人よ」

「よ?! よよよ、よと……?!」

 少女の素っ頓狂な声と反応に、玄関へ足早に向かっていた我は思わず振り返った。見れば、彼女はほの暗い灯りの下でも分かるほど、真っ赤な顔で固まっているではないか。

「なぜ、そのような意外そうな声を出す? 主宰に言われて来たのであろう?」

「い、いえ! 私は、陛下に一目お会いしたくて参りました。あの……舞いを褒めていただいたので、嬉しくって」

 我は、今度は上気して頬を紅潮させた少女を見つめた。嘘を言っている眼ではない、ように見える。

「そうか。そなたを含め、皆見事な舞いであった。改めて、褒めてつかわす」

 言われて、ぱあっと少女の顔がほころぶ。先程までその端正な顔は硬い表情だったが、今は満開の花を見るようだ。我もつられて笑み返すと、少女は照れた。そして、

「そ、それでは。失礼いたします。お休みのところ、申し訳ありませんでした」

 勢いよく頭を下げると、くるりと方向転換して、ぎごちなく歩いていった。その姿も微笑ましいと我は笑みのまましばらく見送ると、寝所に戻って今度こそ床に就いた。

 そういえばあの娘、我を"陛下"と呼んでおったな。"救い主"ではなく。そんな疑問も、久方ぶりの柔らかい寝台が供する眠りに溶けていった。


4.


 翌朝。朝食を終えた我は一度寝所に戻り、身支度を整えた。といっても出征中ゆえ王たる衣服など持って来ておらぬので、服にほつれや汚れがないかをニカラとコンに点検してもらうだけだが。

「ニカラ」

「へい」

「何をにやついておる?」

 こやつはすぐ顔に出る。いつものようにコンがにらむが、最近は全くお構いなしだ。もっとも、王の護衛として出ている時は弁えるくらいの知恵はある。そのニカラがいかにもからかい口調で我に答えた。

「いえね、陛下も隅に置けねぇな、と思いましてね」

「ニカラ!」

「んだよ」とニカラは我の衣服の点検を先に終えたコンをにらむ。

「おめぇだぜ? 朝一の台詞が『王様とあの女の子、どうなったのかねぇ?』っつってたのはよぉ?」

「女の子……ああ、寝る前に来た娘のことか」

 我はにらみ合いを始めた2鬼を手で制すると、素っ気無く答えた。

「舞いのことを改めて褒めたら、喜んで帰って行ったぞ」

「……なるほど」

 ニカラが神妙な顔をした。コンは彼を相手にすることを止めて、自分の身づくろいを始めた。

「何が、なるほどなのだ?」

「焦らして落とすっつう手口ですかい? 王様ならこう、有無を言わさず『オレの寝床に服脱いで入りな』って言やぁ――」

「陛下。アホは無視して、参りましょう」

「なるほど」

 我は思い至ったことを口にしてみた。

「ニカラがコンにそれを言って、肘鉄を食らったということだな?」

「違います」

 2鬼ともに揃って否定して、またにらみ合う。我がくすりとした時、迎えの声が扉の向こうから聞こえた。

 朝の光が窓から差し込む広間には、昨日の宴に出席した面々が揃っていた。我の入室に合わせて起立し、一斉に頭を下げる。その中を我は進み、村長が裁判の時に使う、床から一段高い席に着席した。

 主宰がそそくさと教団側の集団から進み出て我を跪拝し、朝の挨拶を始めるのを聞き流す。なおもご機嫌伺いに流れ始めた彼の口上を切りのいいところで遮った。

「そろそろ始めよ」

「は、はい」とのみ答えて姿勢を正した主宰は、話し始めた。

「私は、勇者の、いや先代のと言うべきですな、先代勇者の婚約者の父でした」

 我は目を見張り、我が軍の幹部たちは囁きを交し合った。思えば、始王以来勇者には幾度となく襲撃され、斃したり斃されたりを繰り返してきた。だが、その関係者と称す者に会うのは初めてである。

「娘は、歴代勇者の辿る末路のことを知っておりました。知っていながら、それでも娘は勇者と心を通い合わせ、婚約いたしました。『魔王を斃して帰ってきたら、祝言を挙げよう』と勇者は娘に言い残し、旅立ちました」

 どうにも話を聞く気分が乗ってこないのは、結末を知っているからか。はたまた、勇者の台詞がお約束にすぎるからか。

「勇者は見事魔王を斃し――」

「主宰殿とやら」

 ナツァトン将軍が、我のすぐ傍の席から声を上げる。

「そなたの過去の立場は分かるが、今お主の目の前におられるのは、その先代魔王陛下が再誕された方なるぞ。言葉を慎めぃ」

 主宰が大仰に驚き、平伏する。将軍に礼を言うと、我は続きを促した。

「えー……勇者は娘の元に戻って参りましたが、結果はご存じのとおりでございます。約束した祝言まであとひと月でした……」

 我は無言。軍幹部がなんとも言えぬ顔つきをする反面、教団幹部たちからはすすり泣く声が聞こえた。どうやら教団の者たちは、主宰同様感情の振れ幅が大きいのかもしれない。

「私は考えました。主神キャピタは、なにゆえに私と娘にかような試練を与えるのかと。いや、なぜ我々がそのような試練を受けねばならないのか、と。王都大聖堂の祭司に聞いても、祈りなさいとしか言われません。納得できずに通い詰めれば、不信心者として告発すると脅され、大聖堂守護職の配下に叩き出されました」

 さもありなん。キャピタ自身が――我も会ったことなどないが――光臨して回答しない限り、末端の祭司などにこの思い詰め者を説得などできようはずもない。

「そのうえ、そのうえ……」

 眼下の主宰は、震えていた。

「いかがいたした?」

「娘を侮辱したのです! 『さっさと勇者と寝ておけば、報奨金の分け前くらいには預かれたものを、惜しいことしたな』と!」

「誰が侮辱したのだ? そなたの娘を」

「大聖堂守護職です!」

「……ふむ。それで?」

 我の問いに、主宰の動きがぴたりと止まった。

「そ、それでとは?」

「そなたの過去には、いや、そなたら父子の過去には同情いたす。それで、そこからどうしたのか。そなたは今我に、それを話しておるのであろう?」

「……私は、キャピタの意志とは一体なんなのかを討議する団体を立ち上げました。1年、2年と経つうちに次第に同志も増え、より深い議論ができるようになりました」

 ここからが本題のような、まだ過去話をされているような。我は内心苛つき始めた。いきなり要点を言われても理解できないことは分かっているが、このどうにも相手に聞かせようとしない一方語りはどうにかならぬのか。

「ある日、魔王支配下の村から商売に来ているという男と出会いました。その男はこう言ったのです。『陛下が今いないから、うちの町は大変だ』と。私は驚きました。魔王支配下の人々は、魔王からの解放を日々願っていると考えていたからです。もっとも、その男もおおっぴらにではなく、声を潜めての話ではありましたが」

 我の王国にある集落は、全て魍魎が治めているわけではない。ほとんどはヒトによる自治で、ベイティア王国内集落との商いも、国防に障りない限り自由である。魍魎は年に2回、収穫物から現物納付される年貢と、商工業活動の結果課税される十分の一税の徴収に訪れるだけである。

 代官も、守備隊も、前線に近くない限りは置かない。そんな鬼的余裕は我が王国には無いのだ。

「私はその男に問いました。『なぜ魔王支配下で満足しているのか』と。男は酒の勢いもあってか、饒舌でした」

 その男は、魔王の政がいかに優れているかを列挙した。

 ヒトの自治に任せ、主神キャピタを礼拝することすら許されているため、王国とさほど暮らしは変わらないこと。

 魍魎に出会うことは少なくないが、ヒトの側が不義理や犯罪、反乱を起こさない限り穏やかな物腰の者が多く、いさかいが起きることはほとんどないこと。

 高位の魍魎たちには、いばりちらす者もおらず、私服を肥やすこともないため、そちら方面での不満も特に無いこと。

 そして何より、ヒト・魍魎問わぬ裁判の厳正さ、特に『重犯罪者は魍魎化の刑に処す』という処置が、人々に当然の処置として受け入れられていること。

「男はそのことについて嘆いておりました。陛下がご不在のため、犯罪に手を染める者が増えていると」

 我の施政に対する賛辞は、正直むず痒い。そのように評価してくれるヒトがいる一方で、『魍魎が王として一番上に立っていることが気に入らない』という者も一定数存在するのだ。

 我が黙したままなのを続行と判断したのか、主催の舌はますます回る。

「男と酒場で別れた後、私はすぐさま仲間たちに男の話をしました。初めは異論を唱える者もおりましたが、熱論の末、私たちは結論したのです! 魍魎の王こそ、この乱れた世をお救い下さる救い主であろうと!」

「待て」

 主宰の熱弁を止めた我は、彼の意外そうな顔に向かって下問した。

「その結論に至るまで、どれほどの時がかかり、どれほどの者が脱落したのか?」

「脱落者など、おりません」

 そう昂然と胸を張る主宰の眼を、我は凝視した。嘘を言っているようには見えない、だが余りにも焦点が定まりすぎている、その眼を。

「時間はかかりました。なにより、徐々に大きくなり、会員制にして入会を制限しても増え続けたため、王都では目立ちすぎる存在となりました。それゆえトウエ=キョウドに移転したのです。救い主様に距離的にも近づきたいという思いもありました」

 そこで突然、主宰は憤激し始めた。

「トウエ=キョウドで救い主様の再臨を待っていた私たちにとって、青天の霹靂とも言うべき事態が起きました。駐在伯が交代したのです」

 駐在伯?

「私たちを辱めたあの大聖堂守護職が、トウエ=キョウドの駐在伯として赴任してきたのです。そう、あの男です!」

 やおら立ち上がった彼が指差す先には、前駐在伯であるグート・レブリテンがいた。

「グートよ」

「はい」とグートは憤激の主宰など完全に無視して、立ち上がって我に正対した。

「先ほどの主宰の申すこと、まことか?」

「はて、記憶にございません」

「しらばっくれるな! 貴様のせいで、娘は、娘は……」

 主宰の眼から、涙がほとばしる。

「勇者の墓の前で自害して果てたのだぞ!!」

 沈黙が、広間を支配した。気まずさで押し黙った魍魎たちと、主宰の憤激と涙が伝染して、グートをにらみつける教団幹部たちと。幹部たちの幾人かが立ち上がったのを見て、ナツァトンが声を発した。

「控えぃ!」

「救い主様! この男に――」

「我がいつ、そなたらに起立を許した?」

 我は幹部たちをにらむ。不承不承な顔色を隠し切れないながら、彼らは黙って着席した。続いて、グートに問いかける。

「そなた、主宰に何か申し述べることはあるか?」

「主宰殿の娘御がご不幸、謹んでお悔やみ申し上げる」

 こやつは、ヒトであったころの望みどおり、宮廷にいたほうが真価を発揮するのやもしれぬな。あるいは外交をやらせてみても面白いかもしれぬ。我は、しおらしい顔つきで頭を垂れるグートを見ながら、そう考えた。

「というわけだ、主宰よ。この件はこれで終わりだ」

「救い主様! 納得できませぬ! あの外道をこの手で、いや、救い主様の御手で誅殺なさりませ!」

「そなた、我の臣下をいかなる権利があって裁くか!」

 我は久しぶりに腹を立てた。

「この者は、もはやヒトではない。魍魎であり、我の大切な家臣である! ヒトであったころの過ちや罪がもしあったとしても、我はそれを咎めぬ。この者が今後何か過ちや罪を犯せば、その時に処罰は考える。まして――」

 我は主宰をにらみつける。

「そなたの指図は受けぬ。主宰よ」

 どうやら我の反応が慮外であったらしく、呆然と立ちすくむ主宰。その、『なぜ私が叱られているのだ?』と言わんばかりの態度にますます苛立ちながら、我は告げた。

「我に意見を述べたければ、我が問うてからにせよ」

 我の命が頭に届かぬらしい。未だ呆然の態から抜けぬなら、目に物見せてくれよう。

「従えぬなら、従えるようにしてつかわす。衛兵よ。そこなおなごを連れてまいれ」

 我があごをしゃくって示したのは、幹部の中でも一際若く、周囲から浮き立つほどの敵意をグートに向けていた女だった。衛兵2鬼の接近にたちまち恐慌を来たして逃げようとしたが、長衣の裾を踏んで転び、あっさりと捕まってしまった。

「おおおお許しを! お許しをぉ!」

 泣き叫びながら我の前に引き据えられた女に、我は席を立って近づく。

「許す? 何を申すか。そなたの年来の望みが適うのだぞ?」

「救い主様! どうか、どうかお慈悲を!」

 主宰が我の裾に取りすがろうとして、ニカラに阻まれた。身をよじろうとして、しかし衛兵の力にはまるで歯が立たず絶叫する女は、赤黒い光が体を巡ってやっと静かになった。

「主宰よ」と我は見下ろす。

「! は、はひ!」

「1つ訊こう。この者はヒトであった先ほどまで、魍魎となることを拒絶しておったが、そなたらは一体どうしたいのか?」

「ど、どうとは……」

 がっくりと膝を床に突き、ようやく声を絞り出す主宰に、我は精一杯の自制を働かせて話を続けた。

「魍魎となりて、身も心も我を崇めるのか。それとも、ヒトの身であり続ける代わりに、我に、我の王国に何か益をもたらしてゆかんと欲するのか」

 絶句。そのような単語を具現化した表情を、この忙しい時に拝まねばならぬとは。

「2日だ」

 我は最後の自制心で、できるだけ穏やかに厳命した。

「2日後の朝、そなたと信者たちの内、誰がどちらを選んだのか我に報告せよ。それから、以後我を救い主などではなく、王として相応しい呼び方をせよ。これらは勅命である」

「勅命を承ったらこうべを垂れぃ!」

 元はヒトの王に伺候していたナツァトンの叱咤で、主宰と幹部は弾かれたように平伏した。その景色を横目に、我は広間を出た。我の表情に衛兵がたじろぐほど、憤懣を顔に表して。

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