第2章 我の攪乱

1.


 この身となって初めての町攻略後、もう一つ町を陥としたところで敵が掻き集めてきた反攻軍が到来して、にらみあいとなった。このまま町に籠っていても、実は我には特にすることが無い。軍の指揮はチマオのほうがうまいし、まだ小勢しか任せていないながら、ブルガに指揮官としての適性が見受けられたので、これの育成もチマオに預けてある。

 こういう状況で我にできることは1つ。後方に下がって我が王国内を整えて回ることである。ニカラともう1人、元は行商人だったコンと言う名の魍魎をお供にして、我は王国内の各地を巡って様々な処置を施した。殊に、我が領国の東辺沿岸を度々侵す"海の民"対策は入念に入念を重ねた。

 我が処置を終えてチマオがいる都市タンザに戻ってくると、西部戦線は膠着していた。いや、チマオが膠着させていたというほうが正しい。我が宮廷の侍従長であるとともに一軍を率いる将でもある彼は堅実な性質だ。その彼が、我の提案に渋い顔をした。

「また、御自ら出向かれるのですか……」

「いたし方あるまい。魍魎の数が足りぬ」

 これは領国内を巡っての我の結論であり、彼も同様であろう。

「我にはこの能力しかないのだぞ?」

 と両掌を、なおも渋い顔のままのチマオのほうに突き出してみせる。

 そう、我にはヒトの空想家が書き綴っているというお話に出てくる"魔王"のように、豪腕で敵を切り裂いたり、怪しげな呪文で炎だの吹雪だのを敵に食らわしたり、神通力で神出鬼没であったり、といった能力はない。

 あるのはただ1つ、ヒトを魍魎に変える"馴致"の力のみ。あとはせいぜい、大抵のヒトより敏捷に動けたり、王として経綸の才を持っているだけだ。

 今、南方戦線では武力衝突が起こっているようだが、ここは膠着状態。捕虜として連行されてくるヒトが多くは見込めない以上、我自らヒトの多く住まう地に飛び込んで、魍魎を作り出すほかないのだ。

 魍魎。ヒトを遥かに優越する筋力を持ち、我と、我が委嘱した者の命に絶対服従する存在。一人でも多くのヒトを魍魎に変える。できれば、今我の目の前にいるチマオのように、技能や知識を多く有する者ならなお良い。魍魎と化しても、知恵と経験が倍に膨らむわけではないし、作り出す剣の切れ味が増すわけでもないのだから。

「致し方ありません」

 長い嘆息ののち、チマオは諦めた。

「ただし、これを最後に願いますぞ。最初の町攻略から半月、もうそろそろ陛下の人相書きも出回る頃合でございますゆえ」

「むろんだ。わざわざ敵の只中に飛び込んで、決死の脱出行を楽しんでいるわけではないぞ?」

「怪しい……」

「何か申したか?」

「いえべつに」

 いたって棒読みで返すと、侍従長はぬかずいてごまかした。

 そして今、我はベイティア王国中東部にある大都市、トウエ=キョウドに数多ある酒場の一つで、夕食を摂っている。

 ここは現在ベイティア王国が抱えている2つの戦線の後方にあって、それぞれのベイティア王軍に物資と補充兵力を運ぶ小荷駄隊が必ず滞留、通過する重要拠点である。

 ここを、先のような奇襲で奪えると思うほど、我は夢想家ではない。先の町とは駐留兵力も、その質も段違いである。よってこの潜入行は情報収集と後方攪乱、そしてなにより魍魎の徴発を兼ねて行っているのであった。

 我のいでたちは、小ざっぱりとした若造行商人のそれである。情報収集のためには、流れ者では入れない所へ入り込まねばならない。場合によっては酒の一杯も奢ってやれば、ヒトは口が軽くなるものである。残念ながら今夕はそういった縁にはまだ巡り会えず、我は独り鵞鳥のモモ肉の炙り焼きを肴に酒をちびちびとやっていた。

 痛飲したいのはやまやまだが、我の背後で騒々しい一団の会話を聞き逃すわけにはいかない。王都から来たと思しき裕福そうな商人2人と、地元の商人らしい3人と。彼らの間に、実に興味深い会話が繰り広げられていた。

「随分派手な登場でしたな、今回の魔王は」

「しっ!!」

 と地元商人の一人が警戒感も露わにする。実際、"魔王"という単語に反応した酔客が何人か、商人たちを見ている気配がする。

(お気を付け下さい。魔王軍に家族を取られたり、損害を受けた者も少なからずおるのですぞ!)

(すまぬすまぬ、つい王都と同じ感覚で話をしてしまった)

 ということは、王都はいまだ新たな出し物でも観覧している気分ということか。

 場を取り繕うため、しばらく無言で飲食していた商人たちが、また会話を再開する。

「それにしても、勇者殿はまだ来ませんな」

「そのことじゃがな」

 と年嵩のほうの王都の商人が発した声色が、いささか嘲弄を帯びる。

「今回は、勇者を一般にも公募するそうじゃ」

「! なんと……」

 そうつぶやいたきり、現地商人たちは飲食の手も止まってしまったようだ。

 おそらく目で続きを促したのだろう、王都の商人がしゃべり始めた。それを総合すると、これまで勇者を輩出してきた3つの家門にどれも、勇者たる該当者がいないらしい。その他過去に勇者を出した武門の家にも該当者はおらず。

 そのため、もったいなくも賢明なる国王陛下が勅令にて、『我こそは勇者たる力を持つと思う者、く王宮に集え』と全土に発するそうだ。

(ふむ、確かに3家とも当主は高齢であったな……となると先王を倒した勇者は、やはり――)

 我の推測は、商人たちの会話が補ってくれた。

「それにしても、先代の勇者様は生き急ぎなさいましたな。魔王討伐成功後、わずか2カ月で落馬事故とは……」

 その忍び笑いを、今度は王都の商人が止めた。が、2人とも口調に冷笑的な感じが聞こえる。

(やはりか……)と我は瞑目し、勇者を弔った。

 勇者は長生きしない。

 ベイティア国王自らの聖別によってその能力を恵与される勇者は、勇者たる言動を常に求められる。その重圧たるや、魍魎の王たる我など比較にならないであろう。さらに彼らは雇い主たる国王から『魔王を倒せ 疾く 疾く』と矢のような、かつ無責任な催促をも受け続けねばならないのだ。

 そして魔王を倒せば栄耀栄華が一身に、などまさに夢物語。『勇者が魔王を倒すのは当然の義務』であり、名誉職と封土の無い叙爵、そして魔王討伐の諸経費にいくらか上乗せされた報奨金が下賜されて、はいさようなら、だ。

 至極当然に、勇者は不満を持つ。そして不満を抱えた勇者は、一転して王国一の危険人物と化す。なにせ力は十人力、剣に"勇者の光"を乗せた斬撃は煉瓦造りの壁程度なら水のごとく切り裂けるのだ。

 ゆえに、勇者は長生きしない。食中り、火災、泥酔しての落水、落馬事故……それでも勇者になりたいという輩は過去枚挙にいとまがなかった。遺族の手元に官職と報奨金が遺されるとはいえ、大貴族である勇者の家門からすればほんの余禄でしかない。まさに『浜の真砂は尽きずとも 世に勇者うつけの種は尽きまじ』とはヒトながら上手い例えである。

 それが、ついに該当者無しで一般公募とは。権門どももようやく学習したのだろうか。だが、先の商人たちの冷笑から分かるとおり、民草には勇者に関する仕掛けが密かに知れ渡っている。志願者が果たして現れるであろうか。

(ふむ、しばらく勇者は来ないな)

 我は酒の残りを喉に注ぎ込む。酒が喉を焼く、ひりひりとした心地に浸っていると、今度は現地の商人が別の話題を切り出した。

「そういえば、例の団体が、いよいよ討伐される風向きになってまいりましたぞ」

(団体?)

 "討伐"とは穏やかではない。我は背後の商人たちが酒をお代わりしたついでに給仕に手を挙げ、最前と同じ酒を頼んで会話の聴取に再び集中した。

「奇矯な団体と笑いものになっていることは聞いていたが、そうか、ついに公儀も動くか」

「ええ、コミュニソーシャの村を本拠と定めてから、急激に信者の数が増えたようでして」

 と語り、現地商人は酒で喉を湿らせた。

「先月、信者が王国徴税人の納税督促を拒否したそうです」

 王都の商人が鼻で笑った。

「愚かな。王国徴税人を退ければ、駐在伯の軍勢が取り立てに来ることぐらい、税の掛かる商いをしている者なら常識だろうに」

 駐在伯とは、魍魎だけでなく他国との戦で境界線が定かでない地を統治するために派遣される司令官に附される臨時の爵位であり、戦功を上げれば"駐在"が取れてその地の領主となれる。駐在伯はその地における国王課税を徴収する徴税人の元締めでもあり、配下の軍勢は不届きな滞納者を圧する"荒事担当"も務めているのだ。

(しかしなぜ、納税を拒否しただけで"取り立て"ではなく"討伐"なのだ? "信者"というからには宗教団体なのか?)

「まったく、不信心なだけでなく、滞納までやらかすとは」

("キャピタの家"も、ついに綻びが見え始めたということか?)

「まあ、魔王なぞを信奉していることが露見しては、どんな言い訳もできますまい」

(!!)

 我を? 信奉?

 届いた酒を受け取る手が震えぬよう気を遣いながら、我はまさに背中に耳を付けた。


2.


 宿に戻った時は、既に外出禁止刻限ぎりぎりであった。部屋で考えをまとめたいと急ぐ我に、主人が気安く話しかけてくる。

「ああ、コンさん、お帰りなさい」

「あ、ああ、どうも。ただいま」

 このトウエ=キョウドに潜入するにあたって、魍魎となる前は行商人であったコンから組合発行の手形を借りた。彼女が定宿にしていた宿とは離れた地区に宿を借りているので、偽者であることがばれるとは思えないが、商売にもいかずにフラフラしているのだから、いいかげんここを立つ頃合いである。

 そのまま就寝の挨拶をして部屋に戻ろうとして、ふと我は足を止めた。そうだ、この者に"団体"とやらのことを聞いてみよう。

「あの、ちょっと酒場で小耳に挟んだんですが」

 自分の部屋に帰りかけていた中年の主人は、やや驚いた面持ちで振り返った。

「コミュニソーシャとかいう村が、駐在伯様の討伐を受けるって聞いたんですけど――」

「ああ、止めときな止めときな」

 訳知り顔をした主人は手を振って我を引き留めようとしてくるのだが、何のことやら分からない。

「何を止めとくんですか?」

「だって」と主人は笑う。

「村か、討伐軍相手に商売しに行こうってんだろ? 止めときな」

 我は"行商人"としての立場上、聞かざるを得ない。なぜ、商売に行ってはいけないのか。

「まずな――」

 と主人は指を一本立てる。口調も同輩、いや後輩へのそれになって、すっかり先達役の風情だが、こちらは我慢して聞くしかない。黙って苦笑いしている我を見て、説明を始めた。

「教団には、ああ、俺が直に行って見てきたわけじゃないけどよ、金があんまりないって話だ。貧乏人しかいないのさ」

 つまり食い詰め者が集まって、信仰を糧に細々と暮らしているということなのか。

「で、討伐軍のほうも、金にはならないな」

「なぜです? 駐在伯といえば、結構な羽振りのよさだと聞きましたけど……」

「だからこそ、さ」と主人は『分かってないな小僧』という顔をした。

「正直どこにあるか俺も知らない辺鄙な村に、軍勢を長い間行かせる気はねぇ、と俺の知り合いの商人は見てる」

 つまり、速戦即決ということか。

「なるほど、よく分かりました。この街で稼いだほうがマシってことですね?」

 我は深々と頭を下げた。

「それにしてもなあ、なんで魔王なんぞに心を売っちまうかね」

 我の正体的には聞き捨てならぬ発言。思わず(こいつ、馴致してやろうか)と考えたが、ここで正体を現すのは得策ではないと我が身を抑える。なにより、そこが聞きたい部分でもある。我は努めて笑い顔を作ると、主人に問うた。

「まったくですね。そこらへん、何か聞いてませんか?」

「さあな」と主人に鼻で笑われた。

「どうせ今の王様に不満のあるやつが、こじらせちまっただけさ。つまらん連中だと思うぜ」

 じゃあおやすみなさい、ともう一度笑って主人は我に背を向けた。今ほど、我に呪殺の能力が無いことが恨めしいと思ったことはない。

 しばらく主人の背中をにらんでいたが、やはり主人の身に変調は起こらず、失望して部屋に戻る。ぶっきらぼうに、かつ早足にならぬよう苦慮して。

 廊下の灯から火を分けてもらって、部屋に入り灯りをともす。備え付けの水差しから汲んだ水は、昨日一昨日と違ってことのほか旨かった。

(我を信奉する団体がある……コミュニソーシャ……どこにあったかな)

 戦略的要衝でも、古戦場でもない。そうならば我の記憶にあるはず。

 戻りたい。今すぐに。戻って、地図が見たい。

 そう我に思わせる、椿事の出来しゅったいであった。そして、地図を見た後どうするか、我は考えねばなるまい。

 我を信奉するヒト。始王まで記憶を遡っても、そんな風聞すら覚えが無い。正気とは思えない、とまで考えて、我はその自虐に笑った。先の主人の台詞も、あながち間違ってはいないのだ。

 そう、我は魔王である。ヒトを魍魎に変え、その身命や財産を破壊し、奪取し、王国の領域を不法占拠している悪玉の巨魁――ヒトからすれば、それが普遍的認識であろう。

 その我を信奉する輩が、1人ではないという。この実に奇妙な者たちを、見てみたい。本尊たる我をその眼前に突きつけて、『我が魔王であるが、何か?』と言ってみたい――そんな稚気の発露とはうらはらに、"魔王"としての打算も存在する。

 ヒトが魔王を信奉しているという事実と、(先の商人の話が確かならば)信者が増え続けているという現実。それはかの王国の国教である"キャピタの家"を揺るがす手札として使えるのではないか。

 討伐が近い、と言っていたな。ならば、今この都市に駐屯している伯の手勢を、そのまま出動させるやもしれぬ。減らしておかねばならない。当初の計画は市場を初めとする市街地に騒乱を起こすことだったが。

 となれば、やはり明日の朝が潮時であるな。

 我は駐在伯の手勢が駐屯する地区を手作りの地図で確認し、予め考えてあった計画に修正を加えたのち、眠りについた。


3.


 夜が明ける少し前に、我は荷物を背負うと宿を出た。部屋の机には『今日の朝市で商売をして、そのまま家に帰ります』との書置きとともに、少し上乗せした宿賃を重し代わりに置いてきた。

 予め目星をつけてあった場所まで急ぐ。そこは行商人たちの露店が占める一角であり、東門からも遠くない。今回修正した計画に必要な『兵舎を襲う』ためには少し遠いのが難点ではあるが、我が捕まる危険とを天秤に掛ければ止むを得まい。

 その場所は、やはり今朝も空いていた。ここを常習的に使用している行商人は、いつも朝が少し遅いのだ。その近くにある建物の角で荷物を降ろし、切らした息を整えつつじっと耳を澄ます。通りがかる行商人たちが、我と傍らの荷物に不審げな視線を投げかけるが、気にせず待つこと5分ほど。よく晴れた東の空が白み始める。

 その旭日に向かって、我の周囲、いや、我の視界の及ぶ限りの人々は、直立したまま深く頭を垂れて祈り始めた。キャピタの家の主神であるキャピタは、太陽そのものである。日の出の時間に目を覚ましているものならば、必ず行わねばならない"旭拝の儀"は3分間ほど続いた。やがて、その東のほうから門を開く重々しい音とともに、人々のざわめきと、それを超えて余りある荷車の車輪が石畳を蹴る音と、それらが聞こえてきた。

 我はそれらの騒音を聞いても、もう少しだけ待つ。門口が渋滞せず、かといって人と物が整然と並ばず。すなわち我の馴致に人々が混乱し、しかし全てを振り捨てて逃げるには踏ん切りがつかない、その時間帯が来るまで。

 我の見ている前を、これは市当局の雇いである巡邏の兵8名が通り過ぎてゆく。まずいな。いつもより早いではないか。……もう少し待つか。

 さらに5分ほど待って、ついに我は行動を開始する。重い荷物を勢い付けて持ち上げると、件の空き区画へ悠然と歩を進めた。途中の行商人たちの目がいよいよ不審の色を増す中、我は空き区画にわざと、

「どっこいしょっと」

 大声を上げて下ろすと、これまた大仰に額の汗を拭く真似をした。実際我の腕の力は、ヒトのこの年頃の少年と大差無いのだから、まんざら芝居でもないのだが。

 我の言動は、周りの行商人にいたく刺激を与えたようだ。右目の潰れた禿頭の男が、足音も荒く我の元にやってきた。

「おい兄ちゃん、誰に断ってここで商売しようってんだ?」

 胴間声も高らかに、男は我を威圧する。我の背丈を遥かに超える、正直商人には見えないほどいかつい男。我のような不心得者、あるいは余所者が来たときの排除担当なのだろう。我はいたって平静に答えた。

「でもここ、空いてましたよ?」

 男の表情は変わらない。いきなり我の胸倉を掴んできた。

「失せろ」

「おめでとう」

「んだと?」

「お前が今日の第1号である」

 言い終わらぬうちに、我は男が胸倉を掴む腕を握った。さあ、騒動の始まりだ!

 男の身体を赤黒い光が巡り、魍魎と化す。我は男に命じた。

「ヒトを捕まえて我に捧げよ」

「はい」

 男は右へ、それを見た我は左へ動く。自失から一転、行商人たちは悲鳴を上げて逃げようとするのをまず1人、背中に掌を当てる。そいつにも先と同じ指示を与えて動くこと1分ほど、仲間をさらに4人ほど失った行商人たちは逃げ散り、そいつらが撒き散らす流言で市場がざわめき始めた。

 最初の男が2人抱えてきた。絶叫しながらもがく2人の繰り出す足にいささか難儀しながらも、馴致を果たした我は、この場にいた魍魎たちに指示を変えた。

「お前以外は兵舎を襲え。駐在伯の手勢のだ。行け!」

 兵舎の人間も夜明けと同時に起床だが、武具も防具も兵舎の棚に置いて朝の基礎調練をしているはず。襲うには最適の時間帯なのだ。

 最初の男には我の後を追いかけるよう指示し、我は東門に向かって走り出した。

 市場は混乱を始めていた。荷車から降ろしかけた野菜を手にまごつく者、露店を開くべき場にて隣人と相談している者。せっかく降ろした品物を、必死の形相で荷車に積み直している者。そこに我が駆け込んだ。悲鳴を上げて。

「助けてくれぇ!」

 我に付き従う魍魎が、我を追いかけているように見える。その目論見は成功し、人々の視線が魍魎に集中する――その瞬間を我は突いた。

 怯えて事態に背を向け丸まっている女に掌を当てる。次にその隣の区画で野菜を取り落とした若い男の腕にも、そのまま野菜を踏み越えてそのまた隣の笠売りの壮年男性の頭にも。我は魍魎たちに声をかけ、走る。

「兵舎を襲え!」

 もっと細かい指示を出したいところだが、今は走り抜けることとと魍魎を増やすことが先決である。だが、衝撃から我に返って混乱と悲鳴が拡大する一方の市場をさらに走ろうとした我の足は止まらざるを得なかった。

「こいつ! 魔王か!」

「殺せ! お前たちは魍魎を押さえろ!」

「魔王に触られるなよ! 遠めから切り刻め!」

 少し前に通過した巡邏の兵たちが鎧の音もけたたましく、騒動を聞いて戻ってきたのだ。ご丁寧に他の巡邏を呼び寄せる呼子まで吹き鳴らして、やはり大都市の兵は規律と錬度が違うな、と我はまるで他人事のように考える。

 こやつらに散開される前に先制攻撃だ。見回して、転がっていた笠売りの天秤棒を拾いながら、我はためらわなかった。

「おい」

「はい」と先ほどから付き従う魍魎が我のほうを向く。

「突撃」

「はい」

 我の渡した天秤棒を振り回して、魍魎は甲兵たちに突っ込んでゆく。我が一拍置いて魍魎の左斜め後ろを追随すると、我に気を取られた甲兵の1人が魍魎の天秤棒を横っ面に食らい、吹き飛んだ。仰向けに倒れて痙攣している。長くはないだろう。

 我はその甲兵の身体を飛び越えて、ひたすら東門目指して走った。呼子がそこらじゅうで鳴っている。急がねば、最悪の場合東門を閉鎖されてしまう。

 気付いた甲兵が2人、同僚に魍魎を任せて追いかけてきた。これが思いのほか足が速い。鎧をガチャガチャ言わせ、短いながら槍まで持って、懸命に追いすがってくる。

 既に情報が回っているのだろう、大通り沿い人影が我らの疾走に連れて2つに割れてゆく。これが以外に我には有利に働いた。人の波に阻まれて、駆けつけたほかの警邏が大通りに近づけないのだ。

 そやつらの放つ怒号と、押しのけられる民衆の悲鳴、そして野良犬が盛んに吼えかけてくる中を、我はひたすら走った。揺れる視界が捉えたものに、にやりとしながら。

 追いすがる甲兵の槍先が肩を、脇をかすめ始めた。左右に身体をよじって小傷で済ませながら、我は最後の目標に飛び込んだ。東門から逃れでようと押し合いへし合いしていた、民衆の群れに。

「わあっ! 魔王だぁ!」

「いやぁ!」

 手当たり次第、とはまさに今この時のためにある表現だろう。我はすり抜けと馴致を繰り返し、矢継ぎ早に10人を魍魎と変えた。勇敢にも我を抱き止めた男の出現には肝を冷やしたが、なおも民衆を蹴散らしてきた甲兵の槍は、その男ごと我を仕留めることあたわず、我は深手を負った男の腕を引き剥がすと逃げた。この時刺された脇腹の熱さに冷や汗が出始める。

(ぐっ、まずいな……)

 痛みで足が鈍る。我はまさにほうほうの態で、街道脇で市内の騒動を傍観していた――ゆえに状況を飲み込めていなかった――旅の一団の中に逃げこむと、馬にまたがっていた一団の長らしき人物に叫んだ!

「魍魎が来ます! 魍魎が!」

 東門界隈で馴致した魍魎が、我に付き従うべく門から姿を現しつつあったのだから、嘘は言っていない。その魍魎たちを見て吃驚した長の乗馬が跳ね、長を振り落とした。その馬に我は力を振り絞って飛び乗り、右手で馬の手綱を引っつかむと、左手を馬の首に押し当てた。

 長居は無用。我は追い付いてきた魍魎たちに走るよう指示すると、事態を飲み込んで逃げ散る旅人たちを尻目に、魍魎と化した馬の腹を踵で蹴った。

 安全圏に離れてから、脇腹の治療をさせよう。馬上の揺れで倍加する脇腹の痛みに耐える我の思考は、当面それのみであった。

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