暗闇の中の灯火

 落盤し外から光が差し込まなくなったトンネルも暗かったが、下水路はその比ではないぐらいに暗い。ライトの光がなければ前後不覚どころか天と地がわからなくなってしまいそうだ。

 肺を劈くような冷気が体に重くのしかかる。まるで闇そのものが質量を持っているかのようだった。

 鼻腔を刺激する臭気は凄まじく、様々なものが混ざり腐敗した複雑な臭いがする。


 神代市の真下に張り巡らされた下水路。自らの足音が不気味に反響するその中を、志希人は一筋の光を頼りに進んで行く。


 《血の王》の男の足取りは、この下水路を境にぱったりと途絶えていた。とするのなら、この中のどこかにとやらの拠点があるに違いない。彼は神代市ちじょうで誘拐されてここへ連れてこられ、《血の王》とさせられたのだろう。警察の行方不明者リストに男の顔と名前があったから、そうに違いない。


「これじゃ吸血鬼コウモリじゃなくてドブ鼠だな……」


 そんな冗談を一人口ずさみながらも、志希人は警戒を怠らない。左手には行く手を照らすライトを持ち、右手にはいつでも発砲出来るよう拳銃のトリガーに指が掛かりっぱなしだ。


 お前ら、と男が言っていたからには複数犯。そして作為的に同族を増やしているとすれば、自我を持つ――つまりは《血因能力》を有する個体が複数。そして吸血鬼と揶揄される彼らだ、当然のように夜目が利く。そんな中で襲われれば、拳銃一丁でどうにかなる相手ではない。


 ここまで居所を突き止めたのなら組合に連絡をし、調査報告を待つのが妥当なのかもしれないが、どうしても自分の目で確かめたいという欲求には抗えなかった。


「……それに加えてアネモネが犯人だった日には死ぬな、俺」


 今は切り札である《試作・杭打ち機》があるとは言え、アレは複数戦を想定していない、短期決戦のためのものだ。一対一であの惨敗だったのだから、複数に寄って集られた場合、どうしようもない。


 だからこの闇の広がりの中に足を踏み入れた時、心のどこかでアネモネはいないでくれ、アネモネが犯人であってほしくないと願っていたのかも知れない。

 あの芽依子たちに向けた笑みが、嘘であってほしくはない。


「……ちっ、《人外》相手にそんなことを思うなんて、俺も日和ったか?」


 ぽつりと吐き出した志希人の言葉が下水路内に反響し、再び志希人の中へと戻ってくる。その音の中に、自身以外の何者かの足音があることに志希人は気が付いた。


 後ろを振り返りライトで照らすが――そこには誰もいない。


「……この暗闇のせいでついに幻聴まで聞こえた、か?」


 そんなことを考えながら再び歩き出す。耳を澄ましてみるも、先ほど聞こえた足音はしない、やはり志希人の気のせいであったらしい。


 安堵と自身の過敏さに落胆をしていると、視線の先にぼんやりとした光が見えた。こんな下水路に、本来ならばそんな光があるワケがない。

 

 はやる気持ちを抑え、ゆっくりと光へ近付いていく。頃合を見計らって飛び出し、銃口を構えるが、そこに在ったのは《血の王》の群れなどではなく、

「……エレ、ベーター?」

 獣の檻を思わせる、堅牢なエレベーターがボタンを薄っすらと発光させて、そこにあった。水道局などが下水路の点検などのために使用するものかとも一瞬考えたが、飛び散った血の跡が付着した物騒なものをそう判断するのにはあまりに平和ボケが過ぎる。


 下水路は拠点などではなく、そこへ続くための通路に過ぎない、というワケか。ボタンを押すとすぐに扉が開き、志希人を招き入れた。箱の中身は外見以上に物騒で、ここで殺人があったのではと疑うほどに血が飛び散り、臭いが充満していた。下水路も腐敗臭も酷いものだが、こちらも負けず劣らない。嗅ぎ慣れないものであればたちまち吐き気を催す生の腐った臭いだ。


 エレベーターを目撃した際、志希人の心中には安堵の念が芽生えた。外からやって来たばかりの《血の王》が――アネモネが、こんなものを用意出来るワケがない。と言うことはつまり、彼女は今回の件に関しては白、濡れ衣であったということになる。


 ちん、とその厳つい外見に似合わず、エレベーターが軽快な音を立てて到着を知らせる。扉が開き、志希人の目には黒幕たちの拠点が飛び込んでくる。


 しかし安堵も束の間。


「……何だ、これ」


 眼前に広がる光景に、驚きの声を隠せない。


 神代市と下水路の狭間には――巨大な魔術師の工房が設えられていた。

 病的なまでに白を基調とした廊下。今まで血の臭いが充満したエレベーターに乗っていたことが嘘の様だ。空気には薬品の臭いと高濃度の魔力が混じり、そして数多の絶叫が響き渡っている。


 リノリウムの床を蹴り、一歩踏み出すと、地獄絵図がすぐそこにあった。


 分厚いガラス張りの一室。その床から天井までの高さはビル数階分ほどあり、志希人が立っている場所はその最上階部、一室全てを俯瞰出来る位置だった。ジョニーの所有する倉庫ほどの広さがあるその空間では、今まさに実験が行われている最中だった。


 無数に並べられたベッドと、その上に拘束される人々。その横には数名の白衣を着込んだものたちが立っており、それぞれが役割を持っているようだった。バインダーを携え一心不乱にデータを書き殴るもの、秒ごとに変動する機械の数値を眺め続けるもの、そして極め付きが真っ赤な血液の入った注射を携えるもの。


 注射器がベッドに拘束された男性の血管に差し込まれた。空間は広く、そして分断するガラスは分厚いというのに、彼の絶叫は志希人の耳まで届く。


 いやだ、やめてくれ、俺はあんな風になりたくない、やめて、やめてくれ。


 そんな懇願など聞こえていないかのように、注射器は血液をゆっくりと男性へと注いでいく。

 拘束されているというのに、それを振り切らんばかりの勢いで男性の体がびくりと跳ね上がる。もはや言葉にならない叫び声を発し、体を揺さぶる。それまで皮膚の下に隠れていた血管が異様なまでに膨張を始めた。彼の顔つきはまるで別人のように歪み――そして水を入れすぎた風船のごとく、内側から弾けた。


 《血の王》の拒絶反応だ。誰も彼もが血を摂取すれば彼らと同じ物になれるワケではない。潜在的な適性があるものしか、彼らの血族に加わることが出来ない。媒介たる血の質が低ければ低いほどに吸血衝動に飲まれた亡者になりやすく、質が高ければ高いほどに適性が求められるが、自我をハッキリと残させつつ《血因能力》を発露させやすい。


 あの拒絶反応を見るに、相当高位の《血の王》のものらしい。


「これだけの工房を、組合にバレないで作ったっていうのかよ……!」


 地下にこれだけ巨大な工房を拵えるだけの時間と資金、そして稼動させるための人員。どれもこれもが想定以上で――今回の一件、志希人が考えている以上に根が深いものらしい。


 行方不明者が続出し、《血の王》が増加し始めたのはここ数ヶ月のことだが、この工房を見るからに、相当入念に用意されての計画だということが窺えた。


「……後ろ盾はすごそうだな。さぞ名のある魔術師だろうよ」


 今すぐにでもこの工房を全て破壊してやりたいところだが、そうしてしまうと黒幕の顔を拝めないまま逃げられてしまう。ガラスの向こうで起こる惨劇に義憤を燃やしながら、志希人はさらに奥へと歩を進めて行く。




 資料室とプレートが掲げられた部屋へピッキングして侵入する。デスクの上には文字通り山となった資料の束が投げ打たれていた。その中から探し物をすることを志希人は嫌い、棚のほうへと目を向ける。


 研究日誌、と記されたレポートを見つけ、それを手に取り、ざっと流し読む。


 終ぞ主宰、とぼやかした表現をされるだけで、一体何者がこの工房を取り仕切っているのか名が出ることはなかった。末端のレポートにまで秘密主義を徹底しているのだ、それほどまでに名がバレてはまずい人物なのだろう。


 しかし、この工房の結社の目的はわかった。陳腐な言い方をするのであれば、完璧な不老不死の体現。そのために不死者である――生命の頂点とされる《血の王》を人為的に増やし、暴き、その不死の仕組みを白日の下に晒そうというものだった。


 何よりも驚いたのは、この工房から逃げ出しバスジャックを行ったあの《血の王》の男についてだった。今までは自我の飲まれた出来損ないしか産出していなかったというのに、何故《血因能力》まで有する個体を生み出せたのか。理由は単純明快、質の高い媒介を手に入れたためだ。その媒介というのが、《血染花》のものだという。日誌の日付を見るに、志希人との交戦後すぐだ。


 あのビジネスホテルで、血は採取された。そんなことを出来るのは戦闘後、事後処理としてあの場に立ち入った組合員だけだ。とすれば、組合の中に裏切りものがいる。


「……冗談だろ、早くアリアさんに知らせないと」


 証拠品である日誌を《二重蔵》へ収めると、志希人は資料室を出る。誰にも見つからぬよう、この工房を脱出してアリアの元へ向かわなくては。




 エレベーターの元へと戻ると、何やらガラス張りの大部屋の様子がおかしい。


 先ほどまで魔術師たちは一心不乱に研究に取り掛かっていたというのに、今では皆、一点を見つめて微動だにしない。

 志希人も釣られてそちらのほうを見ると、志希人が使用していたものの他にもう一基、エレベーターがあるようだ。表示を見ると、どうにも地上から工房へ下ってきているらしい。


 開いた扉から現れたのは、修道女のような出で立ちをした女性だった。純白のフードとローブを身に纏い、縁には豪奢な刺繍が施されている。手にも同様の手袋がはめられており、顔以外に素肌が覗く部位はないようだ。その服装には感染防護の魔術的効果が刺繍によって与えられていたが、何よりも彼女がそれに身を包んでいるのは、威厳のためのような気がした。彼女の纏う空気だけが、ひりついている。遠くから眺める志希人ですらそれを感じるのだ、同じ空間にいる魔術師たちはというと――その場に平伏し、頭を上げようともしない。


 彼女の放つ雰囲気と、傅く魔術師たちの態度で志希人は直感的に悟る。あの女が主宰だ。


 主宰は魔術師たちに頭を上げさせると、実験動物モルモットたちの様子を窺っていった。


 今日はツいてる。志気人は心中でそうほくそ笑んだ。まさか正体不明の主宰の姿をこの目で拝むことが出来るなんて。


 だが数秒後、志希人は前言を撤回したくなる。何が幸運なものか。何も知らなければ、そちらのほうが幸運だったのではないか。

 フードの下、その顔が、眼球に焼きついて離れない。



 魔術師組合神代市支部組合長、《緑奴の魔女ウィッチ・ザ・ギリードゥ》――アリア・ベルのその顔が。



「……あ?」


 目の当たりにした光景に心は拒絶を図る。有り得ない、有り得ない、アリアがこの場にいるなんて有り得ない。アリアが結社を率いる主宰だなんて嘘だ、嘘だ、そんなのは嘘だ。

 けれども脳みそは残酷なほどに冴え渡っており、その光景を受け入れてしまっていた。むしろアリアが主宰であるとするのならば妥当だ、との見解まで示していた。


 これだけの規模の工房を組合は感知出来ないでいた。それも当然、組合の長が全力を持って隠蔽工作を図っていたのだから。


 彼らがなぜ大切な実験動物であるハズの《血の王》を野に放つのか不思議で仕方がなかった。誰かが作為を持って《血の王》を増やしていると知らしめるような行為であるのに。ひっそりと地下で実験だけをしていればいいのに。だが組合と結びついているならば納得がいく。


 放流した彼らを志希人に狩らせ、英国本部から金をせしめる。そして帳簿を改ざんし、その金をこの工房の運用資金として横流ししていたのだろう。これだけの規模、人員だ、日々金は湯水のように溶けていくに違いない。


 志希人はさぞ使い勝手のいい駒だっただろう。本部が生け捕りにしろ、と指示してこようが、その憎悪に身を任せて殺してしまうのだから。そして証拠は、組合アリアが闇に葬る。


 この自作自演マッチポンプを繰り返して行けば、資金に困ることはなく、また事件を難航させて長引かせることで、長期的かつ大規模的に実験に専念出来るとアリアたちは考えていたに違いない。


 しかしアリアたちには二点落ち度があった。


 一つ目は、来訪の理由はいまだハッキリとしないが、彼の《血染花》が神代市にやって来、志希人が討伐出来なかったこと。これにより、本国から応援を呼ばざるを得ない状況に陥ってしまった。そうなれば、自分たちの工房のことがバレてしまうかもしれない。


 二つ目は、その焦燥感から研究を急ぎ、《血染花》の血で自我持ちの個体を作ったはいいが、脱走されてしまったこと。放出するのと脱走されるのとでは勝手が違う。隠蔽工作は困難を極め、彼がお喋りであったのならそれだけで破滅へと向かう。


 異名持ちが潜伏しているとわかっても志希人に指示をするだけで現場に出て来なかったアリア。しかしバスジャックの折りに足を運んで来ていた。あれは状況が気が気でなかったからだろう。


 そしてアリアの懸念は的中した。志希人が脱走した《血の王》の痕跡を遡り真実まで辿り着いた――着いてのだから。


「――――――――――――ッ!!」


 取り出された《試作・杭打ち機》が強化ガラスを打ち破る。下層にいた魔術師たちは皆、ガラスの割れる音に反応してそれまで見向きもしなかった上階を見上げた。ガラス片と共に、志希人はアリアの前へと舞い降りる。


 一瞬、フードの下でアリアは驚いたように目を見開いたが、すぐさま目を細めた。


「ここの連中を捕まえるために来ただけだよな、アリアさん……」


 そうだと言ってくれよ。戸惑いと怒気を孕んだ声が腹の底から吐き出される。

 この後に及んでまだアリアの清廉潔白をどこかで望んでいた。


「そうよ――と言いたいところだけれど、残念ねん。その逆よ。志希人君も気が付いてるんでしょ? 私が裏で糸を引いていたことも、君を利用していたことも、ね」

「――……ッ」


 声色は普段と変わらないふざけた調子で、けれども目は絶対零度に冷たく。そんなアリアを初めて見たものだから、思わず背筋が震え上がる。


「何でッ……何でこんなことを!」

「何でってことはないじゃないのよん。私たち、なのよ? 己が悲願を果たすためには、いかなる手段も惜しまない。例えそれが命を弄ぶことだとしても、ね。そもそもおかしな話なのよ。法を打ち破る外法の探求者である魔術師が律儀に法に従うなんて」


 自らの頬に突き立て、引っ掻く。すると化粧がパラパラとこそげ落ち、素肌が露わになる。実年齢を考えれば十分に若々しい肌だが、やはり老いを感じさせる枯れた肌だ。


「最も美しかった絶頂から、転げ落ちて行くだけの人生。老いが着々とこの身を蝕む恐怖。これを止めるには外法中の外法に頼る他ないでしょう?」


 君にわかるかしらとアリアが問うてくるも、志希人は答えない。声が出なかった。


「まっ、君にはわからないわよね。まだ二十年も生きていないんですもの、その絶頂すら訪れていないんだから。さぞ将来が楽しみなことでしょうね。……ああ、でも君には関係ないか! もう生身じゃないものね。私たちは、わからないか」


 それはただの言葉であったが、志希人の心臓に深く突き刺さる。心臓が握り潰されたかのように苦しい。


「安っぽい願いだと思われるかもしれないけれどね、私は美しいまま永遠を生きたいの。絶頂を更新し続けたい。《血の王》は私の理想に近いんだけど、でもダメ。美しくないわん。水も太陽も銀もダメだなんて、不完全すぎる。私はそんな欠けた美しさじゃ嫌。人間のまま、美しく、そして永遠を生きたいの」


 するりとアリアの指が手術台に縛り付けられた男へと伸び、妖しくその顔を撫でる。


「そのためだったら何でも利用するわん。組合長という立場も、あなたの哀れな過去も、そして他人の命も」


 けたけたとアリアが笑う。


 死の淵に瀕してもなお折れなかった志希人の心が、壊されていく。


 十年前のあの日、アリアが拾ってくれなければ、今の綾女志希人は存在しなかった。高校に通うことを打診してくれなければ、芽依子にも晴彦にも出会うことはなかっただろう。奪われたものへの弔いの、復讐の道。そしてかつて失った日常の温かさ。全て彼女が用意してくれたものだ。

 態度こそ素っ気なかったかもしれないが、アリアのことを慕っていた。

 

 それがこんな形で裏切られた。倒すべき《人外》ではなく、愛すべき人間から。人間が人間を食い物にしていたという事実。信じていたものが崩れ去っていく。


「あぁあ……あぁぁぁあぁああ!」


 心が壊されてしまう前に、


 無我夢中で武器を携えて走っていた。考えなくても殺すにはどうすればいいか体に染み着いている。右腕を大きく後方へ反らし、跳び、そして腕を振りかぶり――トリガーを引く。


 《鋼人》の疾駆に、魔術師たちは慄き、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。

 

 アリアだけが冷静に、志希人を正面から見据えていた。


 懐から透明な液体で満ちた、種子の浮かぶ小瓶を取り出し放り投げる。《碧緑の壁グレートウォール》、というアリアの声に反応し、液体の中の種子が魔力を帯び、眩く発光した。その一瞬の輝きのうちに種子は発芽し、茎を伸ばし、葉を宿し――巨大な樹木へと成長する。


 志希人とアリアを分かつように聳えた巨木。そこへ志希人の放った杭が直進していくも、貫くどころか深部にすら到達させてもらえなかった。


「――ッ!?」


 志希人の知るその魔術は、これほどまでの強度を誇るものではなかった。精々時間稼ぎの、身代わり程度の防御魔術のハズ。


 小瓶をもう一つ取り出し、アリアは見せびらかすようにそれを掲げて見せた。


「うふふ、すごいでしょ、この液体。上質な《血の王》の血液を精製した、超高濃度の生命力なのよん。不老不死研究の副産物でしかないんだけど、効果はご覧の通り。私の植物魔術と相性がよくってね。今までの比じゃないぐらいにパワーアップしてるのよん」


 言っている間に、巨樹の抉れた箇所が塞がっていく。アリアの言うように、魔術のレベルが段違いに上がっている。


 ところで志希人君、とアリアがもったいぶった口調でそう付け足した。


「私が君の攻撃、防げてよかったわね? そうじゃなかったら君、人殺しになってたのよ? 君の大、大、大、だァい嫌いな、《人外》と同じ人殺しに」


 次の攻撃行動に移ろうとしていた志希人の体が、びたりと金縛りにあったかのように止まる。


「体どころか心まで《人外》と同じになっちゃったら、もう目も当てられないわよねぇ」

「あっ……あ、う」


 アリアは綾女志希人という人間を熟知していた。故に自らの手の平の上で踊らせ、良き駒として利用出来ていた。ならば、彼女が志希人の心の壊し方を知らないハズがない。


 堅牢な鋼の鎧で守る、硝子の心。一度ヒビが入れば、砕けるのはとても早い。


 もはや志希人は、アリアに杭を向けられない。


「うふふ、御しやすい子ねえ。お姉さん嫌いじゃないわ。でも君は多くを知りすぎたから、消さないとダメね」


 小瓶に収まった赤く丸々とした種子が発光、一瞬にして成長し、紅蓮の大輪の薔薇を咲き誇らせる。それを支える茨は雄々しく、棘は獣の牙のように鋭利だ。


「死因はそうねえ、《血染花》に勇猛果敢に再戦を挑み、返り討ちにあう、でいいかしら」


 指先で志希人を指し示すと、茨は意志を持つかのように身をもたげ、蛇のごとく地を這う。


 迫る死を、志希人は認知すら出来ていなかった。残酷な現実が、受け止められない。


「おいおい、これ以上罪を擦り付けられたのではたまったものではないな」


 喪失しかけていた自我を、聞こえるハズのないその声が無理矢理に引き戻した。後ろを振り返るがしかし、声の主の姿は見えない。その代わり、視界の隅に異物を発見した。自身の足元に映る黒い影。それが水面のように波紋を生んで揺れていた。そしてその影の中からずるりと人の手が伸びる。やがて腕だけではなく、全身までもが志希人の影の中から現れた。

 影の水面から姿を現したのは真っ赤なコートを着込んだ少女。予期せぬ彼女の登場に驚いたのは志希人ばかりではなく、魔術師たち、そしてアリアも同様だった。


『《血染花》――ッ!?』


 驚愕のネームコールを無視して、アネモネは己が行動を突き通す。指先を指揮棒のように振るうと、その軌道をなぞるようにして足元から伸びる薄い帯のような血液が走り、志希人の前に壁を形成する。それに一瞬遅れ、茨が襲い掛かってくるが、壁に塞き止められてしまう。


 現実に壊されつつあった志希人の心は、アネモネの登場によって冷や水をぶっかけられたかのように多少の冷静さを取り戻す。


「全く、貴様はいつもピンチだな」

「アネモネ……何でここに」

「ふむ、そういえば似たような質問を最近されたな。だが悪いが、芽依子のように貴様を助けに来たワケではないぞ。個人的な目的だ。あまり私は目立たないほうがよかったのでな、行き先が同じであった貴様の影に厄介になっていたのだ」

「……いつの間に」

「ふむ、貴様が下水路でビクついていた時だな。足音は消していたつもりなのに、よく気が付く。まあ、無断で隠れていたことは悪いと思うが、結果的に貴様を救うことになったのだから多少大目に見てくれ。貴様ほどの使い手なら手助けも無用だと思い、最後まで静観を決め込むつもりだったのだがな」

「というか、待てよ。お前の個人的な目的って一体……?」

「ああ、ソレか」


 ぎろり、とアネモネが猛禽類を思わせる鋭い目つきでアリアたちを睨み付けると、それだけでアリアを除く魔術師たちは竦み上がってしまう。威圧感を含んだ眼光を浴びせられて、彼女だけが怒りを燃やしていた。


「醜いコウモリ。私の身の回りをかぎ回るだけじゃ飽き足らず、私の工房にまで忍び込んでいたのね……!」


 志希人たちを攻撃するようにアリアが叱咤すると、魔術師たちは恐怖から幾許か回復し、たどたどしい呪文を詠唱し始めた。


「ちっ、やはり面倒なことになったな。色々と疑問は尽きないだろうが、今は貴様の質問に答えている暇はない。逃げるぞ」


 逃げるとは言っても、この工房から出るには構造上二基のエレベーターのどちらかに乗らなければならない。そんな悠長に搭乗し降る時間をアリアが与えてくれるとは思えなかった。


 だがそれを想像出来ないアネモネではない。

 志希人をエレベーターに押し込むと、アネモネもエレベーターの中へと入る。

 そしてゆらりと尾のように揺れる刃を伸ばし、

「その鋼の肉体、伊達ではないな?」

 と言うと、エレベーターを支えていたワイヤーを切断した。釣り下げていたそれが切れてしまえば、鉄の箱は高速で落下していくだけだ。


「うわああああああああああっ!?」


 地面に叩き付けられたエレベーターは圧縮された空き缶のようにぺしゃんこに潰れた。瓦礫の隙間から、微かに声が漏れる。


「……志希人、生きてるか?」

「……ああ、不思議と」



 

 ゆっくりはしていられないとアネモネに促され、下水路をひた駆ける。

 志希人はアネモネの指示に従い体を動かすばかりで、自我が希薄だった。


 下水路を抜けると、そこから少しばかり離れた郊外の公園へ二人は身を寄せる。


 ぽつりと立つ外灯はヂカヂカと点滅を繰り返し、それに照らし出された遊具はどれもこれもが朽ちていた。休日だろうが誰も寄りつかないであろうそんなうらぶれた公園のブランコに志希人は腰を深く下し、背を丸めて揺られていた。


 追っ手がないか様子を見に行っていたアネモネが戻ってくる。

 言葉を失ってしまった志希人に語りかけるように、アネモネが口を開く。


「私の目的という話だが。前にも一度、貴様には学校の屋上で問われていたな。何の目的で神代市に来たんだ、と。あの時は言ったところで信じないだろうと思っていたし、何より貴様がアリア・ベルの走狗でないという確証がなかったので話さなかったが」


 凜としたアネモネの声も、志希人の耳を通り抜けていく。


「私はアリア・ベルの魔手からこの神代市を救うべくして来訪したのだ」


 だがその言葉ばかりは聞き捨てならなかった。脳裏に今の言葉を反芻し、再び飲み下す。


 アネモネの言うとおり、出会った当初なら全く信じようとしなかっただろう。けれども今ならば反対に、疑う余地がなかった。彼女の行動はいつだって、人間に寄り添っていたから。そしてアリアは、人間に反していたから。


「風の噂で聞いてな。この神代市で《血の王》が作為的としか思えないほどに増加していると。組合直属の土地であるにも関わらず、一向に解決される気配がないというので何かあるのでは、と探りを入れてみれば正解だったようだ。よもや組合長が裏で糸を引いていたとは――」

 

 朗々とアネモネの唇から紡がれる言葉は、志希人の耳にはもはや届いていない。


 何だ、世界は狂ってしまったのか。

 人間が人間を食い物にし、人間を食い物にするハズの《人外》が人間を守護する。

 信じていた人間は志希人を裏切り、殺し合っていた《人外》は志希人を救う。

 もはや何を信じ、何を討てばいいのかわからない。


 すっ、と志希人の目の前が暗くなった。前方に見えていた灯火が消えてしまった。あの灯火を目指して走っていれば、暗い復讐の道も踏み外すことはなかったというのに、目の前が真っ暗で歩き出せない。


 その灯火は、自分は人間だという誇りだった。それさえ見失わなければ、歩けたのに。


 人間に裏切られたことにより、灯火は風に吹かれて消えてしまった。

 こんなことをアネモネに問うなんて馬鹿げている、と自分でもわかっていながら、志希人は問わずにはいられなかった。


「なあ、アネモネ……俺はこれから、どうすればいい。人間ヒトに裏切られた、俺は……」


 今にも泣き崩れそうな、幼子のような面をアネモネに晒す。


「――……ッ!」


 その困惑の声が染み渡るや、アネモネは一切の間も戸惑いもなく剣を形成し、志希人の項垂れる首へと向けて刃を振り抜いた。

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