四章『Good night world』
前へ
戦場に身をやつし、死を傍らに置き続けた志希人は本能的な直感とも言える挙動で背後より襲い来るアネモネの刃を紙一重で避けた。
切っ先は襟首を掠め、浅い傷を残す。指で触れると、ぬるりとした血が指に絡む。
「……何のつもりだアネモネ。避けなけりゃ死んでたぞ……!」
「はん、その時は死ねばよかったのだ。剣を取れよ、志希人。取れないのならただただ死ね」
前のめりに踏み込むと、咽喉を狙う鋭い横薙ぎをアネモネが繰り出す。その一撃に迷いはなく、彼女の言うように死んでも構わないという気概が見て取れた。
「……っ、俺の命を何だと思ってやがる!」
《二重蔵》から日本刀を引き抜くと、鞘に納めたままアネモネの振りを受け切る。鞘はその威力に耐え切れず、木っ端微塵に破壊された。切る、と言うよりは殴るような一撃。志希人の足は地から浮き上がり、くの字に体を折り曲げられて撥ね飛ばされる。
「俺の命だと? 何を勘違いしている。貴様は私に挑み、敗北したのだ、その命は私のものだ。私が貴様に預けた命だ」
弾き飛ばされた志希人は地を滑る。起き上がる算段もついていないところへ、跳躍してきたアネモネが頭上から剣を振り下ろす。転がるようにしてそれを避けると、地が穿たれ、剣圧は土煙を舞い上げる。
「貴様が生きながらえていたのは、私がその命を預けているからだ。魂の有り方が美しいと思ったから手折らずにいたというのに――今の貴様では、ダメだ。《
土煙の中から鈍く光る刀身がゆらりと姿を晒し、その切っ先は地を這う志希人へ向けられた。
「だというのに、今の貴様は何だ。その情けない惨めな姿は何だ! あの時私に見せた勇姿は幻だったとでも言うのか!?」
垂直に落とすように振るわれた剣を、刀身と鍔で向かい打ち、受け止め、衝突する瞬間に肘を引き寄せることで衝撃を逃がす。刃と刃が攻めぎ合い、両者の間に火花が生まれる。位置関係、膂力、そして気力のどれもが劣る志希人の刃が、徐々に押し込まれていく。
「お前に、お前に俺の何がわかる! 俺は、もう……!」
「心が折れたか? 心は脆く儚い硝子だと言うのなら、砕けたそれを掻き集め、炉にくべてまた作り直せ! 貴様はそうして今日まで前へ向かって歩いて来たのだろう。復讐のためにボロボロの体で魔術を学び、それでも届かないとわかれば全てをくべて前へ進む力としてきたのではないのか。その鋼の体は、貴様の人生を体現するものではないのか!?」
「……ッ、お前、俺のことを」
「ああ、知っているとも。何故《人外》を恨むのかも、その体になった経緯も、アリアが貴様にとって親代わりのような存在であったことも」
「……ッ」
「全て知った上で私は言うぞ。その鋼の体は誇ることはあれど、恥じることは一切ない! 胸を張れ、その体は貴様が絶望に屈せず、前へ進み続けた証だろう! 貴様はここで折れる器ではないだろう! あの日立ち上がることの出来た貴様が今再び歩き出せぬワケがない!」
剣に加えられる力が強くなり、さらに志希人の日本刀が押し込まれた。
「それとな、癪に障るんだ。もう貴様は私の言葉を忘れてしまったのか……? 《人外》などという存在がいないように、人間なんてどこにもいない。いたのはアリア・ベルだ。貴様を裏切ったのは人間などではなく、アリア・ベルだろうがッ」
刃と刃の隙間から、アネモネの激昂した瞳が覗いてくる。その目は真っ直ぐに綾女志希人を見ていた。
「人間に裏切られただと? ふざけるのも大概にしろよ。ならばあの己の命も厭わず貴様を助けにきた青年は、武器屋の老人は、晴彦は、芽衣子は!? 貴様を裏切ったと言うのか……!」
「――……ッ!」
それまで炎の消えてしまっていた志希人の心に、ざわりと風が吹いた。風は隠れて沈んでいた火を煽りたて、微かな熱を呼び覚ます。
「……違う、そんなことは、決して」
食いしばった歯の隙間からこぼれる、小さな小さな声。だがそれでも、志希人の確かな意志。
「そんなことは、決してあるワケがない!」
暗く閉ざされていた志希人の世界に、再び光が差した。暗闇の先、微かに光る弱い灯火ではない。志希人の足元を照らし出してくれる、寄り添う無数の灯火。それは志希人の知る人間の数だけ光る、温かな灯火だ。
この光が照らしてくれるのなら、復讐と言う暗い道のりの中、あの影法師のような化け物と同じ末路を辿ることはない。志希人はまだ前に進める。
「お、お、お、お」
圧されるばかりであった鍔競り合いはみるみるうちに志希人が押し返し、最後にはアネモネの刃を弾いた。
虚を突かれたアネモネは、無防備にも胸を志希人の眼前に曝け出し、腕は弾き返された剣の重さで肩より後ろに持っていかれてしまっていた。
その身に宿る膂力を持って、これ以上姿勢が崩れることを防ぐ。しかし全身の体を強張らせた一瞬、動きは完全に静止していた。
アネモネが動きを止めたその隙を活かし、志希人は崩れていた体勢を持ち直し、日本刀を腰だめに構える。そして横一閃に刃を走らせた。
対してアネモネは、崩れた姿勢からの豪快な振り下ろし。
志希人の横薙ぎとアネモネの縦切りが十文字に交わり、ガギィン、という高音にして高速の衝突音を周囲に響き渡らせた。両者の腕は完全に振り切られており、次に動作に移る様子はない。それはまるで切り取られた絵画の一幕のような静けさだった。吹き抜ける風にそよがれる髪やコートの裾だけが時間が停止したワケではないと告げている。
志希人の日本刀は鍔から半分ほどまでしか刀身が残っていなかった。整った構えからの、力を刃全体に行き渡らせた見事な振り抜きであったが、それまでにアネモネの猛攻を受けていたために刀身が限界を迎えてしまったのだ。静止した両者の頭上では、折れた刃がひゅんひゅんと風切り音を立てていた。
ゆらりとアネモネが柄を握る手首を返し、
「……最期に貴様の意志は見せてもらった。しかしここで勝てぬのなら、ダメだ」
その刃を、志希人の首元に添えた。
勝敗は決したように見えたが――志希人は、まだあきらめてなどいなかった。
折れた日本刀をアネモネに投げつけると、空より飛来する折れた刀身を素手で鷲掴みにし、自身の首に添えられていた剣の腹を叩く。
「俺の心臓は、まだ止まっちゃいねえ……!」
刃から背までの幅がいくらぶ厚かろうとも刀身の腹はそうではない。横合いからの攻撃には脆い。
剣は崩れ落ちた先から錆びて霧散していく。そして志希人の手には、まだ刃がある。
自身の鮮血滴る刃を、アネモネを咽喉元へと差し向けた。
してやられた、と渋面を浮かべた後、アネモネはふっ、と破顔し、剣の柄を捨て降参の意を示す。
「ああ、貴様はそういうやつだった」
「ああ、俺はこういうやつだった」
「私の負けだ。貴様の命は、貴様のものだよ」
「……確かに、返してもらった」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます