《人外》だから、《人間》だから。

 治療を受けるべきだ、と主張するアリアを振り解き、志希人は緊急搬送された芽依子に付き添った。


 病院に備えられた時計が秒針をカチコチと鳴らす。音と音との感覚が酷く長く感じられた。

 芽依子が目を覚まさない間、志希人は祈ることしか出来ない。

 こんな時ばかり捨てた魔術が惜しくなる何かしてやれることがあるかもしれないのに、と。


「……志、希?」


 震える芽依子のまぶたが開けられた時、信じてもいない神様にお礼を言いたいぐらいだった。


「よかった……よかったあ……」


 芽依子の手を握りしめると暖かくて、彼女が生きているのだと実感出来た。鋼の体にぬくぬくと熱が行き渡り、気が付けば涙が伝って落ちていた。


「……ボロボロなのは志希なのに、泣くなんて変なの」

「うるせえ、俺は頑丈だからいいんだよ」


 まだ意識は朦朧としているのか、ぼうっとした瞳が志希人を見つめ返す。


「ああそっか……これも夢なのね」

「夢……?」

「……バスジャック犯に捕まった私を、志希が助け出してくれる夢の、その続き」

「……ッ」


 志希人の体が強張った。それは芽依子には決して知られたくない志希人の非日常もうひとつの姿。

 いやしかし、夢と思ってくれているのなら、それでいい。肩の力を抜き、芽依子に目を見る。


「……ああ、そうだ、夢の続きだよ」


 そっか、と芽依子は苦笑を浮かべる。


「……志希、夢の中なのに颯爽と私を助けるワケじゃなくて、ボコボコにやられちゃうんだもん。反撃すればいいのに、私が人質になっちゃってるから、何も出来なくて。自分も痛いだろうに、我慢してさ。見てるのがすごい辛くて悲しくて……でも、ちょっぴり嬉しかった」


 小さい芽依子の指が、志希人の手を握り返す。


「……夢の中でも、志希は優しいんだね」


 そう呟くと、芽依子の大きな目からポロポロと大粒の涙がこぼれた。どこか痛いのか、と志希人が慌てふためいていると、違うの、違うの、と彼女は繰り返すばかり。しばらくして落ち着いたのか、涙を垂れ流しながらまた口を開いた。


「私、志希にひどいことしちゃったよね……志希のこと考えもせずに怒って、無視してさ。優しい志希が、理由もなくアネちゃんにあんなこと言うワケないのに」


 手の甲で自らの目を覆い隠し、まだ芽依子は泣きじゃくった。それは、母に罪を告白する子供のようにも見えた。


「……私、志希と仲直りしたい。夢から覚めたら、きっと謝りに行くから。でも、現実の志希は許してくれるかな……」

「許すに決まってるだろ。俺だってメーコと仲直りしたいんだ。メーコとケンカしたままじゃ学校に行っても全然楽しくねえんだもん。だから安心して、今は眠れよ。起きたら、仲直りしよう」


 志希人がそう答えると心の重荷が軽くなったからなのか、それとも疲弊からか、数秒の間も置かず芽依子は穏やかな寝息を立て始めた。

 涙を拭い、肩まで布団を掛けてやると、志希人は病室を出た。


 夕焼けに照らされて茜色に染まる病院の廊下。そこには壁に寄りかかって腕を組んだアネモネがいた。だが志希人はあまり驚かない。何となく、いるだろうとは思っていた。


「よかったな、仲直り出来そうで」


 病室内のやり取りが聞こえていたのだろう、アネモネは悪戯な笑みを志希人へと向けた。


 アネモネの顔を見た途端、それまでくしゃくしゃにほぐれていた志希人の表情がぎしりと音を立てて凝固する。


「おお、怖い怖い。そんなに睨むなよ。仮にも私は芽依子の命の恩人だぞ」

「ああ、仮にも、な」


 今にも切りかからんばかりの真剣味を帯びた眼光を向けられてなお、アネモネは飄々としていて掴み所がない。


「てめえは何の目的であそこに来た?」

「はて、言ったハズだが? 芽依子があのバスに乗っていたかもしれないから助けに――」

「――嘘を吐くなよ」

「……何?」


 言葉を途中で切られたアネモネは、怪訝な顔で志希人を睨みつける。


「てめえがメーコを助けに来た? そんなワケねえだろ」

「……なぜそう思う?」


 羽のように軽快であったアネモネの声色が沈む。


「《人外》が、人間を助けるものかよ。《人外てめえら》は人間を殺し食らう生き物だろう」


 志希人にとっては自明の理だ。彼らがそんなことをするハズがない。彼らは意志を持った暴力で、人間を餌に生きている。彼らにとって餌に過ぎない一つの命を、どうして助けになどくるものか。


「……私が、《人外》だから、芽依子を助けるワケがない?」

「ああ、そうだとも」

「……ッ!」


 ぎしり、とアネモネが歯を食いしばり、志希人を睨み上げた。それは彼女が初めて見せる強い、素のままの感情であった。赤い目はなお燃えるように赤みを増し、その怒気は暴風のように凄まじく吹き荒れる。志希人が口を開くことさえ、許しはしなかった。


「聞いていれば、《人外》、《人外》、《人外》と」


 アネモネの指が志希人のシャツに絡み、胸倉を掴み上げる。身を翻され、志希人は壁へと押し倒され、頭蓋をかち割らんばかりの頭突きが叩き込まれた。


「何をッ……」


 しやがる、と言葉を発しようとしたが、尻すぼみに消えて行った。遠くからでも、暗闇の中でも存在感を放つアネモネの真紅の瞳が間近に迫っていた。その深淵なる瞳の中に、志希人は確かな怒りの他に、悲しみの色を見てしまった。


「刃を交えたあの日から、貴様はなど見ていないのだな。貴様の中にある《人外》像をただ重ねていただけなのだな」

「……ッ」

「私は《人外》だ。だがそれだけの理由で友人を助けてはいけないのか?」

「何度同じことを言わせやがる! 人間の命を餌としか思ってないやつが――」

「――私は人間を餌だと思ったことなどない! 私が生き血を吸ったのは、吸いたいと心の底から願ったのは貴様が初めてだ……! 私は貴様以外に生き血を吸ったこともなければ、自らの渇きのために人間を殺したこともない!」

「なっ……」


 《血の王》にとって血とは力そのものだ。異名を冠するものほど血を、生命を多く蓄えているというのが常だ。あれほど強大な力を持っておきながら、心臓を破壊されてなお立ち上がる生命力を持ちながら、そんなことは有り得るワケがない。


生命力しつは数で賄えばいい。私がなぜ《血染花》などと呼ばれるか知っているだろう」


 多くの血が流れる戦場に現れ、そこに流れた死血を飲み干して行くが故に付けられた異名。確かに膨大な量の死血を吸えば、質は賄える。しかしその戦はアネモネが裏で仕組んだものだとも言われていた。だからこそ神代市で起きている《血の王》の人為的増加の黒幕は彼女なのでは、と疑われていた。


「信じようが信じまいが構わない。だがこれだけは言わせてもらうぞ。私は《人外》以前に確固とした意志を持つ生き物だ。《人外》などという概念に成り下がった覚えはない。《人外》だからそうするんじゃない。私がそうしたいと望んだから泣き、笑い、そして友を助けに行くのだ。これの何がいけない」


 首に触れる指が、微かに震えていた。


「貴様は《人間》という生き物だから《人外》を殺すのか? そうじゃないだろう。貴様が綾女志希人という確かな個人で、様々な想いを抱いき、意志を持つからそうするのだろう。私も、それはなんだ……」

「――……ッ」


 同じ。その言葉は、志希人の脳裏にある仮定の光景を想起させる。志希人がアネモネのような扱いを受けたのなら、という、もしもの光景。


 吉野屋に《鋼人》と恐れられた時、どんな気分だった。確かに《鋼人》の称号は志希人の一部だが、志希人ではない。何だか自分を見てくれていないような気がして、寂しかったのを覚えている。だから、彼が称号に恐れず綾女志希人と対話をしてくれるようになった時は嬉しかった。

 これから全て成すことに《鋼人》だから、と枕詞が付いたのなら――きっとそれは、恐ろしいことだ。誰も志希人のことを見てくれない。人の中に囲まれていながら、孤独だ。誰も理解してくれない、恐怖。


 それを志希人は、アネモネに強いてきた。《人外》だから、と。


「……俺は、お前の意志を踏みにじっていたんだな」


 だから、これだけは言わなくてはならない。


「……すまない。それとありがとう。メーコを助けに来てくれて」


 ぎょっとして、アネモネが志希人から離れていく。まるで夢でも見ているかのようだ、と言わんばかりに彼女は自らの頬をつねった。


「……何だよ」

「いや、怒りに任せて説教をしたはいいものの、まさか貴様からそのような素直な反応が返ってくると思わなくてだな……」

「……勘違いするなよ、人間を餌だと思ったことはないだとか、俺が初めての生き血だとか、全部信じたワケじゃねえからな。俺がお前の意志を踏みにじったことと、何であれメーコを助けてくれたことには謝罪と礼をしなくちゃならねえって思ったからしたまでだ。お前は依然俺の敵だ、そこを忘れるんじゃねえぞ」


 全てを信じたワケではない。けれども全てを疑っているワケでもない。


 屈託なく笑うアネモネは、はたして本物だったのだろうか。それとも幾千もの屍の上に浮かべた偽りのものだったのか。


 ――それは僕らにんげんと同じようなものじゃないか。そんなのを殺すのは辛くないかってことだよ。

 吉野屋の言った言葉が、今になってわかったような気がした。

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