人間卒業

 バスの乗車口には男が小太りの女性を盾にするようにして立っており、その顔は険しいものだった。ただ焦りもあるのか、汗を浮かべている。食いしばった歯からはよだれが垂れ流されており、目の焦点は曖昧だ。


 小太りの女性が殺されていないことに胸を撫で下ろす。配信者である彼女が生きているとうことは、推測に過ぎないが他の人質にも手は出していないだろう。男がまだ理性的で助かった。


「逃走用の車はどうしたぁぁあ……」

「……出入り口が塞がってしまって。撤去しているところだと思うので、もう少し時間が」


 電話越しでも感じていたことだが、直接耳朶を打つ男の声は獣の唸り声のようだった。今は自我がハッキリとしているようだが、いつ吸血衝動に飲まれてしまうかわかったものではない。


「……そうかよぉぉお、じゃあさっさとそれを寄こしやがれぇ」

「その前に、その女性だけでも解放してはもらえませんか」

「……お前が金を渡すっていう保障はあるのかよぉぉお?」

「……あなたが人質を解放してくれるという保障はありますか」


 男は水掛け論に嫌そうな顔をし、舌打ちを一つする。


「……わかった、手渡しで交換だぁ。だがその前にだ、そのジャケットを脱ぎ捨ててベルトとズボンの隙間なんかをよく見せろぉ。お前が武装をしていないっていう保障がほしい」

「……わかりました」


 男に言われたとおり、志希人はジャケットを脱ぎ捨て、掲げた両腕をひっくり返して見せる。まるでタネがないことを観客に証明する手品師のような気分だ。それで男は納得したのか、安堵の息を男がこぼし、志希人へじりじりと歩み寄ってきた。


「……これがあなたの要求した二億円です」


 ケースを開け、中身を男に見せる。それを確認した男は、突き離すようにして小太りの女性を解放した。

 志希人もケースを前へ突き出し――男が受け取ろうと手を伸ばしたところで、グリップから指を離す。重力に引き寄せられて落下するケースに、自然と彼の目が奪われる。


 瞬間、志希人は《二重蔵》より拳銃を取り出し男の太ももに銃弾を六発打ち込んだ。


 何が起きたか理解が追いつかない男は素っ頓狂な顔をして、飛散する自身の血を眺めていた。


「……あ?」


 姿勢が崩れ、無防備になった脇腹に回し蹴りを放つ。文字通り鋼の肉体から繰り出される蹴りは彼の体を易々と吹き飛ばす。転がるようにして激突、もうもうと土煙を上げた。


「きゃあああああッ!!」


 銃声で理性の限界を迎えてしまった女性がパニックを起こし、神代市側の出入り口へと走り出す。


「ばっ、馬鹿! そっちに逃げるんじゃねえ、入り口は塞がってる! バスのほうに逃げ込め!」


 何のために蹴り飛ばして男をバスから遠ざけたと思っている。

 しかし混乱状態となった女性には、そんな冷静な判断は不可能だ。

 

 土煙が裂けたかと思うと、液体が弧を描いて壁や道路、女性の顔に付着する。


 液体――男の血液が付着した部位に衝撃波が走り、壁や道路には亀裂が生じて瓦解、女性は殴られたかのように横っ飛びに倒れた。


「……くしょう、ちくしょう、騙しやがったな……皆して俺をコケにしやがってよぉぉぉお」


 足を引きずりながら男が煙の中から現れる。彼は倒れた女性のほうへと向かっていくと、鋭い牙がぞろりと生え揃った大口を開けた。


「やっ、やめろ!」


 警告を無視し、男は女性へと近付いていく。牽制に発砲しようにも、誤って女性を撃ってしまうやもしれず、指が動かせない。


「俺ァもう化け物になっちまったぁ……バスに轢かれても何ともないぐらいには人間をやめちまったんだぁ。その俺を、こんだけぶっ飛ばすってことは、お前も大概じゃねぇよなぁぁぁあ?」


 血走った目玉をぎょろりと剥いて、志希人を見た。


「やっとあの地獄から逃げられたと思ったのに、またお前らが俺の前に出て来るのかよぉぉお」

「お前ら……? おい、誰と勘違いしている? お前らって誰のことだよ!」


 叫ぶも、しかし男にはもう志希人の言葉など届いていない。


「……俺はあの運転手を殺しちまったぁ……なら一人も二人も変わらないよなぁぁあ。腹が、腹が空いてしかたがねぇんだよぉぉお。吸え、吸えって誰かが俺の頭の中で叫ぶんだよぉぉお!」


 倒れて意識が朦朧としている女性は自らに迫り来るそれを霞がかかる視界の中、ただただ呆然と眺めていたことだろう。


 男の牙が首筋に立てられ、瑞々しかった女性の肌は干物のように土気色に乾いていく。彼女の体から血がなくなっていくに従い男の太ももの傷は癒えていき、やがては傷跡などなくなってしまった。

 水分の失せた女性の体が、とさり、と軽い音を立てて投げ捨てられる。


 その光景を契機に、どこか入りきらないでいた志希人のスイッチが切り替わる。


「……てめえぇ、《人外》ァァァアアアッ!!」


 殺意を孕んだ雄叫びがトンネル内に反響する。


 満足げに血を滴らせながら、男は口元を大きく歪ませた。煙るトンネル内、照らす薄オレンジ色のライトの光を受けて、彼のシルエットが不気味に揺れる。


「番外、《試作・杭打ち機》ッ!!」


 志希人の叫びに呼応してそれはアスファルトを踏み拉き現れる。


「ヘェハハハッ、すげぇや! 傷がもう治った! 体が羽のように軽い! 力が溢れてくる! これで皆、皆、皆殺しにしてやる! 俺をコケにするやつ全員ぶっ殺してやるよぉぉぉお!」


 もう男の口元からはよだれが垂れることはなく、焦点はしっかりと定まっている。血で満たされた彼は吸血衝動にうなされない。自らの意志で人を殺し、人の血を吸う。もはや彼は血によって狂うのではない、自らの意志で狂っているのだ。


 這うように低く低く、男は身構える。その姿は獲物を草の茂みから狙う肉食獣のようだ。


「まずはお前だぁぁあ!」


 男はただ愚直に、何の考えもなしに志希人へと跳躍する。


 志希人は男の顔面が通るであろう地点に右拳――《試作・杭打ち機》を頭上から弧を描くようにして振り下ろす。


「ッ!?」


 地面を手で叩き軌道を横に修正することによって、男は杭を紙一重で避けた。


 重量が増加した《試作・杭打ち機》では、以前のように素早く振るって相手を重打する、という芸当は難しい。その重さがスピードを殺してしまうがためだ。

 しかし頭上からの振り下ろしであるのなら、その重量は逆に追い風となる。スピードを補ってあまりあるウェイトを一身に受けた杭は、火薬を使用していないながらに――地を貫く。


 アスファルトにめり込んだ杭の先端を志希人が引き抜く様を、男は警戒するように凝視していた。だから志希人は焦らすように、恐怖心を煽るようにゆっくりと引き抜く。


「覚悟しろ、クソ《人外》。これからてめえはこれでぶっ貫かれるんだ。ってのがどこの誰だか吐かせたら、俺の目の前で人間食ったことを骨の髄まで後悔させてやる」


 志希人の纏う、触れるものを全て切り裂くような殺意。

 それを感じ取った男は身を一瞬竦ませた。


「……ッ」


 その恐怖を振り払うかのように、男は腕を横に薙ぐ。その軌道に従い、彼の血が飛び散る。


「死ぃぃいねぇぇえ!」


 志希人は足元に転がっていたジャケットを足で拾い上げて掴み、襲い来る男の血を払い落とした。手を離すとジャケットに衝撃波が走り、ズタボロに千切れた。しかし志希人にダメージはない。


「……何、だよそれ」


 自慢の技があっさりと防がれ呆然としている男を尻目に、志希人はその《血因能力》を冷静に分析する。

 おそらく付着した血の量に比例して衝撃波を発生させる能力。天井崩落時の映像から察するに有効射程範囲は差三十メートル強と言ったところだろうか。


「……ッ澄ました顔してんじゃねぇぞぉぉお!」


 殴りかかってきた男の拳を避ける。大振りなそれだが、風切り音がするほどに素早い。どれほど荒削りな拳であろうとも人の二十倍の怪力だ、当たればたまったものではない。

 右腕を構えると、男の体が一瞬強張った。この武装がトラックに跳ねられても死ななかった不死身の肉体を殺しきることが出来るものだと、彼の本能が知っている。だから少しの動作でも気にせずにはいられない。


 男が右腕に気を回しているその隙に、志希人は左拳を鳩尾へと食らわす。


「かっ……」


 男の息が詰まり、動きが止まった。そこへ射出口を構えてやると、さすがに意識をこちらへ集中させていただけはあって、杭が射出される瞬間、銃身を殴られ射線を逸らされた。


「ちっ……!」


 左手を男の襟元まで持っていくと、衣類を掴み上げ、力任せに押し倒す。

 男は自身の身長分の高さから落下し、後頭部を強打する。倒れ込む勢いを、そのまま杭へと加算させて振り抜く。体の捻りが利かない今なら、殴って軌道を変えることは出来ない。


 狙ってやったことなのか、それとも咄嗟の思いつきであったのかは志希人にはわからない。

 男は血を滲ませた手の平で銃身に触れ、その能力を発動させた。

 結果――衝撃波が杭の軌道を逸らす。

 男の顔面すれすれを通り、その真横に突き立てられるだけに終わった。


「……ッ!!」

「痛ッてぇぇえ……ッ」


 自らの能力によって男の右手は焼け焦げたように黒く変色し、ぶすぶすと音を立てている。


「いつまで俺の上に乗ってんだよぉぉお!」


 掴みかかる腕を、飛び退いて避ける。

 去り際に拳銃を牽制とばかりに撃つが、空中に飛散していた血の玉が炸裂、それにより生まれた風が壁の役割を果たし、男を守る。


「ヘェハハ……この力の使い方が少しずつわかってきたぞぉおお」

「クソッ……思ったより厄介な能力だ」

 

 ただの破壊パワー系に見えて意外と応用の幅が広い。それが志希人の決め手を阻害する。


 だが当たり前のことだが、アネモネのそれと比べれば、応用が利くと言っても高が知れている。アネモネの《血因能力》は底がもっと深く、計り知れなかった。ならば志希人はこんなところで苦戦しているワケにはいかないのだ。


 やることはいつもと同じだ――そう自分に言い聞かせる。


 そう、ただ一点を除いて。


 その一つの例外が、志希人の気がかりであり、殺意を鈍らせる原因となっていた。この殺し合いに、全霊を持って挑めない。


「……ふぅぅぅぅ」


 気取られぬよう、呼吸を整え、姿勢を正す。


 男が地を蹴り、跳ぶが――その速度は、一度目の跳躍よりも遥かに素早い。


「なっ……」


 自身の足に能力を行使し、ジェット噴射の代わりにしたのだろう。男の靴底はボロボロに壊れていた。


 飛びつかれた勢いを殺そうと、志希人は体の向きをぐるりと九十度回転させる。その遠心力程度では男を振り払えない。彼はがっしりと志希人の左腕、右肩を掴んでは離さなかった。

 顎が外れんばかりに大口を開けると、女性や運転手がしたように齧りつこうとした。


「その手が通用するかよ……ッ」


 右肩が動かせなくとも肘から先は動かせる。杭の射線を男の心臓に合わせると、トリガーを引いた。

 撃鉄が落ちたその刹那、男がほくそ笑み、

「その手が通用するかよぉぉお」

 志希人の体を掴んでいた男の指は自然と離れ、、彼の体が後方へ吹き飛ばされて行った。


 杭の切っ先には一切の手ごたえがない。虚しく空を切った杭が再装填された反動だけが残る。

 男は杭に当たったから吹き飛ばされたのではなく、自らの能力で飛んだのだ。


 しかしあれだけ杭を気に掛けていたにも関わらず、なぜ男は自ら懐に入ってきたのだろうか。適切に距離を保っていれば杭を撃たせる隙はなく、また態々痛みを伴う回避を強いられることもないというのに。


 まるで攻撃するために近付いてきたのではなく、別の目的があったような――、

「……まさか」

 男が飛んで行く先を見ると、そこにはカーテンの閉め切られたバスが停車している。そしてその中にはいまだに怯え続けている人質が大勢いた。


「しまった……ッ」


 男が志希人へ距離を詰めてきたのは攻撃のためではなく、そう思わせて油断した隙にバスへと近付くためだった。


 志希人唯一の気掛かり。それは人質がこの戦場にいる、ということだ。巻き込まないよう配慮した武装を選択せねばならないし、何より《血の王》の標的とならぬよう気を回さなければならず、戦闘に全神経を集中することが出来なかった。


 そちらに注意を払っていたつもりだったのだが、まさかこのような形で出し抜かれるとは。


 男が乗車口をひしゃげさせながらバスの中へと侵入する。


「動くんじゃねぇよぉぉお」


 バスへ向けて駆け出そうとすると男の声がトンネル内に木霊し、志希人を制止させた。


「ヘェハハ、本当はよぉ、咽喉の渇きを潤したいところなんだが……俺ァどうにもお前に勝てる気がしねぇからよぉおお」


 ゆらりと余裕のある動作で、バスから男が姿を現す。


「だからよぉぉお、食うんじゃなくて、きっちり人質として使わせてもらうことにするぜぇ」


 男に髪の毛を引きずられ、女の子がバスから出てきた。必死に髪に絡まる指を解こうと暴れ回り、悲鳴を上げるも、男の怪力の前には無力だ。


 男は女の子のことなどはおかまいなしに、バスの階段を下りる。背を打ちつけた女の子がむせ返り、その場で蹲った。


「泣き喚くんならせめて向こうのやつに命乞いの一つでもしてくれねぇか?」


 髪を指からほどき、首に手を伸ばす。


「やめろ、やめろォッ!!」


 まるで猫を掴むような気軽さで、女の子を腕一本で吊るし上げる。当然猫とは構造の違う女の子は息も満足に出来ず、苦しそうに悶える。


 ただでさえ人質を取られて気が気でなかった志希人の心が、その人質の顔を視認すると凍り付いてしまった。

 何で、何故、ここに。困惑の声が上がった。

 ――隣の県に少し用事があってね。



「……メー、コ?」



 遠目であっても、その顔を見間違えることはない。男が人質として取った女の子は、志希人の親友である一之瀬芽依子だった。


 何も凍るのは心ばかりではない。《人外》に対する怒りで血を滾らせていた体までもが音を立てて凍りついていく。


「あ……う、あ……」


 頭では芽依子を助け出すためにも戦わなければならないとわかっているハズなのに、彼女にそんな自分を見てほしくない、見られたくない、知られたくないという相反する思いが湧き上がり、体が微動だにもしない。


 苛烈なまでの志希人の殺気は、霧散し、消えて行く。


「ハッハァ、ビンゴォ! やっぱりお前、人質取られるの嫌がってたなぁぁあ」


 大仰な身振りで男は血を散布する。それは志希人のズボンに付着し、じわりと染み込んだ。回避するだとか、切り捨てるだとか、選択肢は様々残されていたハズだ。しかし志希人はどれも選択しない――出来ない。


 自分を圧倒していた相手を今度は自分が圧倒し返す、というシチュエーションに浸る男は、ゆっくりと焦らすようにして能力を発動させた。


「ヘェヘヘヘ」


 身を貫く激痛が走る。

 思考停止状態だった志希人の頭に、痛い、という感覚だけが呼び覚まされる。


「あっ……がぁぁぁあッ」

「まったくひでぇ話だ、俺のことは弄んだくせに、この人質はそうじゃあないんだもんなぁ。お前をぶっ殺したら次はその他のやつらもぶっ殺してやるから、覚悟しておけよぉぉお?」


 言いながらまた志希人に少量の血を付着させ、能力を発動。絶叫がトンネルの外にまで走り抜けて行く。


「俺をこんな風にしたのはお前じゃねぇけどよぉぉお、俺の憂さ晴らしに付き合ってくれよ。じわじわと嬲り殺しにしてやるからよぉぉお、ヘェハハハハハハ!」



 

 それからどれほど男の嬲り殺しは続いただろう。

 

 絶え間なく襲う激痛の中、志希人はいまだ自らがどうするべきか答えを得られぬまま、動けないままだった。ただそこにある人形のように、呆然と男の攻撃を受けるだけ。


「……しつけえ、しつけえしつけえしつけえしつけえ! いい加減に倒れろよなぁぁあ!?」


 それでも地に膝をつけなかったのは、志希人の最後の抵抗と言う他なかった。

 志希人が倒れれば、男は芽依子を食らってしまうだろうから。

 また何も出来ずに日常を奪われるなんて、絶対に嫌だ。けれども現状を切り開く打開策は何も浮かばない。



「――ふうむ、随分と苦戦しているようだな、一つ手を貸してやろう」



 バスの行く手を阻む瓦礫と瓦礫の隙間から決壊したダムの濁流のごとく、凄まじい勢いで赤黒い血が噴き出した。


「……なんだぁぁあ!?」


 それはバスを飲み込み、そして男と、彼の抱える芽依子までを飲み込もうとする。


 芽依子を抱えたままでは奔流に溺死させられると悟った男は何の惜しげもなくその手を離し、そこから離脱する。

 血の川は芽依子を捕らえると、引き潮のように後退していき、やがてバスをもすっぽりと収納してしまう巨大なドームを形取った。


「《鉄血処女アイアンメイデン監獄ジェイルハウス》」


 途切れそうになる意識の中、そのドームの上に立つ少女の姿を志希人は見た。


 あの忌々しい《人外》の、《血の王》の――《血染花》だ。


 学生の姿ではなく、出会った時同様、真っ赤なロングコートの裾をたなびかせた姿でそこに悠然と立っていた。


「……何で、てめえがここにいやがる」

「なに、街頭で臨時ニュースを見かけてな。もしかすると芽依子が乗っているバスなのでは、と思い駆けつけたのだ。そしていざ到着してみればこのザマだ、手の一つや二つ、貸したくなるだろう? しばらくの間匿っておいてやるから、気兼ねなくやるといい」

「……匿う? てめえは《人外》だろ、何でそんなことを。それに、信じられると思うか?」

「……こんな時までブレないな、貴様は。別に信じなくとも構わんよ。しかし私が嘘を吐いていると思うのなら、それこそ眼前の敵をさっさと駆逐し、私から助け出すべきではないか?」

「……ッ」


 アネモネの言うことを認めたくはないが、もっともな弁だ。まずは眼前の敵を倒す。


 芽依子の目がなくなったと思うと、微動だにしなかった体が動く。


 構えを取る、という至極静かな動作であったが、それに伴う痛みは激しい。


「何だ何だ、何なんだよお前らはぁぁあ! 俺抜きで話を進めやがってよぉぉお!?」


 蚊帳の外に追いやられていた男が、存在を再認識させるかのように怒声を上げた。


「俺を倒すだぁぁあ? さっきの万全な状態ならいざ知らず、そんなボロ雑巾みてぇな状況でよくも言えたなぁぁあ。返り打ちにしてやんよぉぉお……! そんでその血ィ吸ってさらに力付けて、そこの姉ちゃんも、その中の人質を食ってやるよォ! ヘェハハハッ」


 男の手から血液が泉のように溢れる。量は先ほどまで志希人が浴びせられていたものの比ではない。あの量を真っ当に食らえばボロ雑巾のような志希人は耐えられないだろう。

 そして避けようにも痛みが足を鈍重にさせる。


「……仕方ねえ」


 アネモネに見られるのは癪だが、奥の手を使わざるを得ない。

 いや、違う。見られるのは癪と考えるんじゃない――見せつけてやれ。あの余裕綽々の顔を、驚かせてやれ。お前を殺すに足る力だと誇示しろ。


「ユニット接続――」


 志希人の声を認識した《試作・杭打ち機》が腕に直接端子を打ちこむ。ちくりと軽い痛みを伴って、神経が繋がる。文字通り武装が体の一部と化した瞬間だった。


「――制限解除――」


 接続端子を通じて、電気信号が送信され、脊髄を走り、脳を刺激する。過剰な力の奔流に蝕まれ、体を仰け反らせて耐えるように歯を食いしばる。だがそれも臨界点まで達すると、体中から痛みが消えた。むしろ前よりも体が軽いぐらいだった。


「――バトルオペレーションシステム、起動」


 薄暗かった視界が青く照らされていく。眼球が青白い光の尾を引き、瞳孔レンズが拡大される。眼前の敵しか見据えられていなかった視界が開け、目に映るもの全てを捕捉する。この状態であれば、虫の羽ばたく瞬間までも見逃さない自負があった。それほどまでに視界は拡張、強化されていた。


『バトルオペレーションシステム、起動を確認。これよりサポートを開始します。ご武運を』


 脳裏に電子の姉の声が行き届く。


「……ほう?」

 アネモネの表情から不敵な笑みが失せ、真剣に、ただ真っ直ぐに志希人を凝視した。


 鼻からつう、と垂れる血を手の甲で拭い、敵を見据える。


「なぁぁぁあにブツブツ言ってやがるッ!!」


 男が両腕を交差させながら血雨を降らせた。バケツをひっくり返したかのような量のそれは、容易に回避しきれるものではない。


「ヘェハハハァ! 死ねや、死ねやァ!」


 しかし、降雨する場所にすでに志希人がいなければ、当たる道理もない。

 志希人は男が腕を振るった時には、もう彼の鼻先まで迫っていた。それまでとは飛躍的に速度を増した志希人に、彼の目は付いてこれなかった。彼はまだ自身の眼前で志希人が拳を握っていることをわかっていない。


 二人の人間を食らった、芽依子を危険な目に晒した男に対する怒りを、左拳に込める。

 一髪の入る余地もなく握り込まれた鋼の拳が、男の肋骨を打ち砕く。


「――……ッ?」


 殴られてようやく男は志希人の存在を認知した。それから一瞬送れて、苦しそうに咽び、血を吐き出す。


「何で……こんなに、早……痛い……」


 志希人の鋼の体は《人外》との戦闘を考慮し、常人以上の出力が発揮出来るようになっている。当然ながら、骨や筋肉、血管などの強度は比べるまでもなく頑丈だ。

 そして人間は脳が制限を設けてしまっているがため、常に一割程度の力しか発揮出来ていない。俗に言う火事場の馬鹿力、というやつはこの制限が外れた際のことを言う。なぜそのようなものを設けるかといえば、十全の力は自らの体を破壊してしまうためだ。

 もしもその人並以上の筋力、屈強さを誇る体のリミッターを外すことが出来るなら。



 それは《人外》に匹敵する暴力を体現することが可能になる。



 今の志希人は体が機械仕掛けなのをいいことに、外部からの電気信号によってリミッターを強制的に解除している状態だ。そして体に掛かる負荷は同様に脳内麻薬の過剰分泌で無視し続けている。


「お、ご、ぉぉぉおあああッ!!」


 最後の足掻きとばかりに、男は苦痛に苛まれながら血を振り撒く。至近距離からのそれを、志希人の目は正確に捉え、予測演算し、体が思い通りに動いて全て避けきった。


「……ッ!?」


 相手の攻撃を捉え、軌道を演算し、思い描いたイメージをそのまま体現可能なほどの圧倒的身体能力。

 しかしそんな莫大な力がノーリスクで引き出せるワケもない。どれだけ強靭な体であろうとも、痛みを感じなくとも常に着々と破滅へと向かって行っている。あまり長いことは使用出来ない。


 最悪体は換装してしまえばいいが――脳はそうはいかない。脳内麻薬の過剰分泌、視界拡張、予測演算。脳がダメージを負うには十分なオーバーワークだ。幾度となく使用すれば脳はショートし、志希人は廃人と化してしまうだろう。



 それはもはや人ではなく、志希人の嫌悪する《人外》だ。

 


 この暴力は、自らの人間性を捧げて一刻だけ得られる諸刃の刃だ。

 しかし時として、そのリスクを認めた上でこの力に頼らねばならないこともある。

 それが今だ。


「お、お、お、お、おッ!!」

「やめろ、やめろぉおおお! やめてくれぇええええええ!!」


 持てる力を注ぎこんで振るわれた杭はしかし一点のブレもなく男の心臓を正確に狙い、撃鉄の落ちる音と共に血と火の花を咲かせ、その命を蹴散らした。


 志希人は散り逝く男になど目もくれず、アネモネに向き直ったが――彼女の足元のドームは解除され、バスとその中に囚われた人質、そして気を失った芽依子が解放されていた。

 アネモネが微笑を浮かべ、恭しく、舞台劇じみた大げさな動作で芽依子へと続く道を明け渡した。


 戦うつもりがないのか、などという疑問はどうでもよかった。


 倒れ伏す芽依子に、志希人は駆け寄った。

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