三章『System of a Down』
綾女志希人の過去
エレベーターを降りると一瞬にして現れた幻想的風景にアネモネは目を奪われた。
「これは……すごいな」
思わずほう、と感嘆のため息が漏れる。
長い廊下一面に敷き詰められた植物たちは夜闇の中で色とりどりの花を咲かせ、開いた花弁から微かに花粉を舞い散らしていた。天井から差し込まれる月光を受け、花粉はキラキラと輝きながら漂う。その輝きの先に妖精が飛んでいる、と言われても信じてしまえそうなほど幻想的で、現実味を欠いていた。花々の甘い香りが、余計にそうさせる。
暇を持て余していたのなら、夜が明けるまでの移ろいを見守っていたかもしれない。しかしアネモネにはやるべきことがあってここに――魔術師組合に足を踏み入れているのだ。そんな悠長にはしていられない。
他のフロアの探索はすでに終えている。残すは最上階、社長室と銘打たれた一室のみだ。
扉を開こうとすると、当然のように鍵が掛かっていた。
それこそ吸血鬼のように壁抜けの能力があればよかったのだが、残念ながら原典である《血の王》はそんな便利な能力を有していない。フィクションとは得てしてオリジナルを置き去りにしていく。
アネモネが念じてやると人差し指の先がぱっくりと裂け血が溢れ、短刀の刃と化す。その薄い刃をドアの隙間に刺し込み、切り下すと、扉は無防備にも開いてしまった。
壁抜けと違って侵入跡は残ってしまうが、知ったことではない。神代市に潜伏していたと組合にバレてしまった時点から水面下で動く必要はなくなった。
「さて、それでは失礼させてもらおうか」
主のいない部屋、誰に言うワケでもなくそう呟くと、アネモネは物色を始める。
社長室の家捜しは、比較的速やかに終わった。というのも、あまり探すべき場所がない。資料室などは棚の中からそれこそ資料の中まで漁らねばならなかったが――ここを探しても出てくるのは美容グッズばかり。もしかしたら書類などよりもそれらのほうが多いかもしれない。
「む、ここだけ鍵がかかっているのか」
プレジデントデスクの一番下の引き出しだけが開かない。こんなあからさまなところにアネモネの求めている手掛かりがあるとは思えないが、秘密を暴きたくなるのが人情というもの。
もし志希人がそれを聞いていたのなら、てめえは人間じゃねえだろが、と目を釣り上げて上げ脚を取られてしまいそうだ。
思わず苦笑を浮かべる。思い出されるのは昨日のこと、ショッピングモールでの一件だ。
反芻するたびに苦々しさが込み上げる。だがそれも一瞬のこと、意識を思考から現実へと引き戻す。
鍵穴に指を押し当てると血がするりとその中へと走り、弾け、鉄化、鍵を破壊した。
引き出しの中には、やはりアネモネの求めるものはなかった。しかし、興味をそそられるものではある。
「何だ、これは。どれもこれも志希人に関するものじゃないか」
彼が担当した《人外》討伐、魔術の経歴、そしてかつて巻き込まれた《人外》事件に関する資料のスクラップなど、多岐に渡る。
そういえば資料室にアネモネが侵入した際、志希人に関する書類などが異様に少なかったのを覚えている。不自然に切り取られているものもあった。どうにも組合長のアリア・ベルが隠していたらしい。
気が付けばアネモネは、熱心にそれを読み耽っていた。
「なるほど。俺たち姉弟、ね」
――てめえらがいなけりゃ、俺は、俺たち姉弟はこんなザマにならずにすんだんだ。
なぜアネモネが志希人に興味を惹かれるのか。彼に敬意を抱いている、というのもあるだろうが――より明確な理由が資料の中にはあった。
今でこそ《鋼人》と畏れられる綾女志希人であるが、その昔は魔術の魔の字も知らない、どこにでもいる普通の子供だった。
志希人が最初に魔と遭遇したのは十年前、当時六歳のことであった。彼を除く父、母、姉の家族三人が《人外》によって惨殺された。唯一生還した彼も酷い怪我を負い、生きているのが不思議なぐらいであった。手足の肉や骨、神経はズタズタに破壊され、もう満足に筆を握ることも、歩くこともままならないほどの重傷だ。
一家を襲った《人外》は未だに何者か特定出来ておらず、組合は志希人の証言から便宜的に影法師と呼ぶことにした。
なぜ影法師が志希人だけを殺さなかったのかは定かではないが、種類として人の血肉を食らうのではなく、その絶望や悲しみなどの感情を食らうタイプのものであったと思われる。彼を生かしたのは語り部を残し、負の感情をより強くするためという説が組合内では有力だった。
そして志希人は影法師の思惑通り、復讐という暗い感情に囚われてしまう。
世界の裏側など知らなかった少年は、家族の敵を討つために魔道へと進むことを決意する。
志希人は事件を担当し、自身の心身のケア、保護してくれた神代市支部組合長アリア・ベルに強く願い、英国の魔術学校に入学することになった。言語も、ましてや手足も不自由な状態での単身の渡英である。
体の不自由がありながらもその執念とすら言える学習態度は他の学生たちの追随を許さず、魔術師の家の出でないにも関わらず、十歳で基礎を修め学校を卒業した。それから数年の間、《人外》を殺す術を探し続けた。
探求の末、自身には魔術を行使する才能がないという事実に気が付き――修めた魔術と、そして己の体を捨てることを決意する。
強靭な肉体、暴力を圧倒する暴力を求め、フランケンシュタインの怪物と、そのフィクションを現実に引き上げることの出来る人物――ジョニー・ウェストンに志希人は出会った。
生身を捨てたのは、当時十二歳のことであった。
そこからさらに数年、リハビリと改良を加え、十四歳の頃には魔術を行使せず、現代武装のみで《人外》を圧倒するまでに成長を果たした。ようやく復讐のためのスタートラインに立っったというワケだ。
今まで文字通り手も足も出なかったフラストレーションを晴らすように、志希人は《人外》を屠った。その結果、与えられた称号が《
中学を卒業する年になると、アリアから日本に、神代市に来ないかという誘いを受けた。憎しみの対象である《人外》が引き寄せられやすく、家族の敵である影法師がいるかもしれない日本への誘いを志希人が断るワケもなかった。
同時にアリアは高校への進学を強く勧めた。
最初はアリアが言うなら、と気紛れに通い始めた高校であったが――志希人はそこで一之瀬芽依子や天谷晴彦、そして多くの友人に出会うことになる。
あの日失った日常の欠片を、志希人が再び手に入れた瞬間だった。
こんなことを言えば絶対に違う、と断言されてしまうだろうが、アネモネと志希人は似ているのだ。
それも全く同じではなく、差異があるからこそ余計に。だからこそアネモネは志希人に惹かれるのだろう。
「ふむ、目当てのものはなかったが、まあ、無駄足ではなかったかな」
ぱたりと資料を閉じ、引き出しの中へ元通り戻すと、アネモネは社長室を後にした。
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