調理実習、クッキー

 四限目の移動授業から教室へ戻ってくると、丁寧にラッピングされたクッキーを芽依子が志希人に差し出してきた。アネモネはその後ろにこそばゆそうに隠れている。彼女らからはほんのりとバターや砂糖、バニラエッセンスの甘い香りが漂っており、袖口には微かに小麦粉などが付着していた。

 

 四限目は家庭科の授業であり、男子は親子丼を、女子はクッキーを作った。

 クッキーを受け取ると、ラッピング越しにまだ温かさを感じる。


「今日は上手く出来たんだよ。ほら、食べて食べて」

「ん、おお」


 芽依子の後ろに控えるアネモネに気を取られながらも、リボンをほどき、クッキーを口の中に放り込む。生地はさくさくと噛み応えがあり、中はしっとりと滑らかで、優しい甘さが口に広がる。


 上目遣いでどうかな、と問うてくるので、志希人は率直に美味いな、と答える。すると芽依子は嬉しそうにその場で跳び上がり、アネモネとハイタッチをかます。


 だから、その後ろの吸血鬼は何なんだ。


 クッキーは美味いハズなのに、アネモネが気になって落ち着いて味わえない。


「ほら、次はアネちゃんの番だよ」

「あっ、ちょっと、まだ心の準備が」

「助けてもらったお礼渡すんでしょ~?」

「あっ、ダメですよ、それを言っちゃ!」


 芽依子がアネモネの背中を押し、志希人の前に突き出す。わたわたとする彼女の手には芽依子が持っていたものとは多少デザインの異なるラッピングの施されたクッキーが握られていた。


「渡します、渡しますからっ」

 アネモネがそう言ったところで、芽依子は彼女の背を押すのをやめる。


「えっと、あの……」


 ぱちぱちと瞬きを繰り返し、頬を赤らめたアネモネが言い淀む。その様子を芽依子が微笑ましそうに見守っている。

 志希人は至極嫌な予感に駆られていた。


「これ、手作りで申し訳ないのですけど、助けてもらった時のお礼です。受け取ってください」


 嫌な予感は的中、最悪だ。


 志希人はアネモネからのクッキーなどほしくない。ならば受け取り拒否をするなり、捨てるなりすればいいのだが――そのどちらも危険が伴う。だって彼女のクッキーがただのそれであるワケがない。

 毒を盛られている程度ならばまだ可愛いもの。もしアネモネの血が混じっていた場合、食べた人間は漏れなく《人外》へ成り下がるハメになる。

 受け取りを拒否し、代わりに誰かがほしいと名乗りを上げてもアウト、受け取った後捨てたとしても、あまり考えたくはないが、誰かが拾い食いをしてもアウト。

 

 つまり、志希人は受け取る以外の選択肢がない。アネモネはそのことをきっと見越して渡してきているのだろうが――ならば、志希人はその上を行けばいい。


「や、悪いな、ありがたくいただくよ。でも腹がいっぱいだから、


 この場をしのぎきればどうとでも対処が出来る。

 工房に持ち帰って塵も残さず焼き尽くして屠ってやる。


「えー、今食べてあげなよ。アネちゃん、一生懸命作ったんだよー?」


 ぶーぶー、と芽依子が頬を膨らませて文句を言う。


「無茶言うなよ、男子は親子丼食ったんだぞ。お前のクッキーと合わせてで、もう食えねえよ」


 クッキーをポケットにしまいこもうとしたところで、志希人の腹の虫が盛大に鳴いた。


 一瞬、世界が止まったかと思った。


 呆気に取られて目を丸くした芽依子が、志希人をじっと見つめる。気まずさや恥ずかしさで顔が引きずり、焼けた鉄のように顔が赤くなっていくのが自分でもよくわかる。


「……志希、お腹空いてるんじゃないの?」

 居辛さに耐え切れなくなり、頷く。


 実のところ、志希人は親子丼を食べていない。食べることが、出来なかった。アレは親子丼じゃなくて、消し炭と言うのだ。


 志希人の目の届かないところでアネモネが何か事を起こすのではないか、と思うと自分たちの作業に集中出来なかった。それに、彼女のことを気にするあまり、別のものの監視が甘くなってしまっていた。そのもう一人の監視対象というのが、同じ班になった晴彦だ。

 調理実習というイベントじみた授業ということで、晴彦はいつにも増してやりたい放題の大暴走。砂糖と塩を間違う、とき卵に殻が混じるのなんて序の口、鶏肉の臭みを消すためだと言ってフランベをし、調理実習室に火柱を立てた。


 おかげで男子側の調理実習室は大騒ぎ、連帯責任として先生からは説教されるし――主に監督不行き届きとして志希人がきつく叱られた。なぜだ――金欠の身の上では貴重な食料であった親子丼は消し炭と化して食えないしで、散々だった。


「い、いやあ、お礼なんて言われるともったいなくて食べられなくてさ」

「でも私は志希人さんに食べてもらいたいと思って作ったので、この場で味の感想などをいただけたら嬉しいです」

「っ……」

 

 これで逃げ場は失われた。

 震える手でラッピングをほどき、クッキーを取り出す。

 見た目は何の変哲もない、ただのクッキー。芽依子が作ったものよりも形が整っておりバターの香りが豊かで、市販品と言われても信じられる完成度だ。しかし問題はその成分だ。


 ――いや待て、俺はアネモネに血を吸われたが、隷属化してしまうことはなかった。ということは、これを食べても《血の王》にはならないんじゃないか? いや、でもならないという可能性はゼロじゃないし――


 ぐるぐると思考が堂々巡りをし、次第に志希人の脳が熱暴走を起こしそうなほどに温まって行く。まさかクッキーを食すか食すまいかでここまで悩む日がこようとは思いもしなかった。


 クッキーを眼前にして完全停止していると、

「おっ、美味そうなクッキーじゃん。いただき」

 横合いから現れた晴彦が、意地汚くも志希人の手の中にあったクッキーに齧り付いた。

「――ッ」

 咀嚼し、飲み下す晴彦。


 さーっ、と志希人の頭の天辺から血の気が引いていく。咄嗟に拳を構え、


「うおおおお、吐き出せ晴彦ぉぉおッ!!」

「うおおっ、危ねぇッ!?」


 晴彦の鳩尾にボディーブローをぶち込み吐かせようとするも、野生の勘なのか見事に避けられてしまう。殺し合いの末に磨き上げた志希人の拳を交わすとは、馬鹿の直感も侮れない。


「何しやがる志希人! 殺す気か! 一枚ぐらいケチケチするんじゃねぇ!」

「るせぇ! その一枚が命取りなんだよ! 助けてやるからそこ動くな!」

「殴る気だろっ!? 誰が黙って殴られるもんかよっ!」


 ジリジリと志希人と晴彦が互いの距離を推し量る。その様はまるで荒野のガンマンのようだ。


 しかし、晴彦がクッキーを食してからしばらく経つが、彼の身に大した変化は訪れない。


「あれ、晴彦……お前、何ともないのか?」

「はぁん? 何言ってんだ、何ともあるワケ――うっ……!?」


 胸元を押さえ、晴彦が膝をついて倒れ込む。


「は、晴彦! おい! おい!」


 晴彦の肩を掴むと、体が小刻みに震えていた。体の中で《血の王》の血が暴れ回り、晴彦の身に変化をきたそうとしているのやもしれない。


「うっ、ぐっ……うう」

「くそっ、やっぱり盛ってやがったか……!」


 きっ、とアネモネを睨みつける。しかし今はそれよりも晴彦をどうにかしなければならない。このままでは晴彦は《人外》になってしまう。


「待ってろ晴彦、俺がどうにかして助けてやるからな!」

「うっ、うぅ……美味いッ」


 舌をぺろりと出して晴彦が立ち上がった。


「……はっ?」

「空きっ腹だからっていうのもあるけど、このクッキー美味いなぁ! この出来栄え、メイのやつじゃあねぇな? ということは、ウィンフィールドが作ったやつ?」

「はい、そうですよ。そんなに褒められると照れてしまいます」

「ちょっとハル、今のどういうことなのよー。私だって上手く焼けたんだからね。そんなこと言うと、ハルの分あげないから」

「えー、つれないこと言うなよぅ。メイのはメイので美味いって」

「むー、納得出来ない言い方だなー」

「……あ、え?」


 志希人だけが、その場の流れを汲み取れていなかった。何だ、何が起きている。


「でも天谷さんが倒れこんだ時は変なもの入れちゃったんじゃないかって焦りましたよ」

「はっはっは、悪い悪い。志希人が悪ノリしてくるから、ついオレもノッちゃって」

「もう、来たばかりのアネちゃんにはそのノリわかりにくいでしょー」

「とか言いながら、メイもキョトンとしてたじゃねーかよ。あのまま茶番続けてたらお前、救急車呼ばなきゃとか大慌てしてただろ」

「そっ、そんなことないもん!」

「まあでも、今日は志希人が迫真の演技だったからな。騙されても仕方ねぇって」

「ふふ、もう少しで私は毒殺犯にされてしまうところでしたね。でも私は自分の料理に毒を仕込むなんて真似しませんよ。せっかく丹精込めて作ったものなんですから」


 アネモネのセリフは芽依子や晴彦に言っているようでしかし、志希人一人にだけ向けたものだった。言葉と共に、赤い瞳が志希人を射抜いてくる。


「あ……えっ、何も、入って、なかった?」


 毒――血など、最初から入っていなかった。全て志希人の早とちり、勘違い、妄想。


「おいおい志希人、毒なんて入ってるワケねぇだろ? 何言ってんだか。あっ、でも惚れ薬なら入ってたかもしれねぇなー。オレ、ウィンフィールドのこと好きになっちゃうかも!」

「でもハル、惚れ薬が入ってたとしたら、そのクッキーは志希人に贈られたものだから」

「あっ、なし! 今のなし! 惚れ薬なんて入ってなかった! 志希人だけが春を迎えるなんてオレっち許さないもんね!」


 晴彦の騒ぎ声は、志希人の耳を通り抜けて行き、記憶には残らない。ただただ放心状態で、手元に残ったクッキーを見つめていた。

 クッキーに血が混入されていなかったことを喜ぶべきだ。晴彦は《人外》にならないですんだのだから。けれども、腑に落ちない。ならば何のためにアネモネは志希人へクッキーを渡したのか。


 手元から視線を上げると、悪戯な笑みを浮かべたアネモネと目が合った。

「……っ」

 瞬時に、またからかわれていたのだと理解した。


 アネモネの手の平の上で踊らされていた自分にも腹が立つし――アネモネの笑みにも苛立つ。

 

 その笑みは不思議と、《人外》特有の、悪意に満ちたものではなかった。人を見下した、傲慢な笑み。そんな要素は皆無で、もっと単純な、好奇心から来る悪戯心に突き動かされたものだ。子供の無邪気な笑み、と言ってもいいかもしれない。


 志希人は《人外》特有の笑みが嫌いだ。けれども、アネモネのその無邪気な笑みが好きかと問われれば、そちらも嫌いだ。なぜ、と問われると理由を見つけることは難しかったが、ともかく胸がざわつくのだ。


 こんな苛立ちは初めてで、何と表現したらいいか志希人にはわからない。


 そんなことを考えていると、担任の教師がクラス名簿を持って教室に入ってきた。それを見るや、雑談に興じていた生徒たちは何の疑問も抱かずに自分の席に戻っていく。時刻は四限目を終えて少しばかり経ったところで、現在は昼休みのハズだ。志希人だけがワケもわからずに眉をしかめる。


「ほら、今日って職員会議あるから半日なんだよ。朝のホームルームで言ってたじゃない」

「……あれ、そうだっけ」


 芽依子にそう教えられてもピンとはこなかったが、アネモネの監視に夢中で聞き逃したのだろう。志希人も周囲に従って自分の席に着いた。


 担任は気だるげに適当なホームルームを進行する。


「そんじゃまあホームルームはここら辺で終わるとするか。でもお前らはどうせ半日で終わったやったぜって言って遊びに行くんだろう? それに文句を言う気も止める気も先生にゃないが、気を付けて遊べよ。ホテル爆発事件だなんだと、最近物騒だからな。暗くなる前に帰るようになー」

 それじゃあ解散、と担任が言うと委員長が号令をしホームルームは終了、クラスメイトたちは担任の忠告もなんのその、放課後の予定を立て合っていた。


「それじゃあ私たちも中心街へ繰り出そー」

 おー、と一人で芽依子が腕を高々と掲げる。


 志希人と晴彦が互いに目を見合い、それから張り切る芽依子に視線を戻す。アネモネだけが趣旨を理解しているのか、その横で小さく拍手を打っていた。


「あれっ、今日は半日で終わるからアネちゃんに神代市案内してあげようって話してなかったっけー」

「初耳だよッ!」

 志希人はそもそも半日ということすら知らなかったのだ。


「というかメーコ、こっち来い!」

 

 晴彦とアネモネから離れた場所に移動すると、志希人は芽依子の頭を両手で抱え込む。


「お前、わかったんじゃないのかよ、俺が今朝言ってたことをよ」

「うん? わかってるってばー」

「ほう? それじゃあ言ってごらん?」

「私とハルがアネちゃんとばっかり遊んでるから、志希が寂しいって話でしょ? なら志希も一緒に遊べば万事解決じゃない」


 ああ、眉間の辺りがずきずき痛い。


「その前に俺、アネモネに近寄るなっつったよな? どうしてそこがすっぽ抜けた」

「だって、志希らしくないんだもん。寂しいなら志希が混ざればいいじゃない。それなのに、アネちゃんから離れろなんて。だから私が間を取り持ってあげようかなって」


 その言葉に、一瞬声が出なくなる。胸を鷲掴みにされたかのような圧迫感に襲われた。


「……だもんって、お前」


 やっと吐き出した言葉は、言いたい言葉とはかけ離れていた。

 なら、芽依子の言うようにしていたのだろう。

 けれどもアネモネがいる限り、それは無理だ。日常の中に紛れ込んだ非日常。それを認めることなど出来はしない。


「おい、行くなら早く行こうぜ。遅くなったらそれこそ物騒で遊んでらんねぇしよ」

「あっ、うーん! ほら、志希も行こうよ」


 スクールバッグを背負った晴彦に急かされ、話の流れは断ち切られる。


「……わかった、わかったよ、行くから先に教室出ててくれ。用意するから」


 どの道、芽依子がアネモネと一緒に行動をするのであれば、志希人はそれに同伴しないワケにはいかなかった。


 席に戻って帰り支度をしていると、先ほどアネモネにもらったクッキーがポケットから出てきた。


「……」


 志希人はそれを無造作に掴むと、教室のゴミ箱へと捨てた。ただのクッキーであるというのなら、ここで捨てたところで無害だろう。


 芽依子たちの後を追って教室を出ようとしたところで、まだ残っていた数名のクラスメイトに呼び止められる。


「おい綾女、今ウィンフィールドからもらったクッキー、捨てなかったか?」

「ん? クッキー? 捨てたけど?」


 淀みなく答える志希人にクラスメイトたちは驚きを隠せない。しばらくの間、彼らは口を開けないでいたが、そのうちの一人が周囲からせっつかれるようにして、言葉を発した。


「その、虫でも、入ってたのか?」


 しどろもどろの、戸惑いの見え隠れする言葉。志希人はなぜそのようにオロオロしているのだろうと、不思議でならなかった。


「いや、変なモンが入ってたってワケでもないけど」


 何だよ、どうしたんだよ、と志希人が問い返すが、彼らは答えない。互いの目を見合うばかりだ。


「おぉい、早く行くぞっ志希人」

「ん、ああ、今行くよ」


 クラスメイトたちの言葉を待っていたところで答えが返ってくる様子もなかったので、志希人は急かされるままに教室を後にした。


 クラスメイトたちの心に、懐疑の念を芽吹かせていることなど露知らず。



 ……綾女って、あんなやつだったっけ。

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