日常の非日常

 鼻から息を大きく吸い込むと、朝の清涼たる空気が肺に満ちて行くのがわかる。代わりに油と埃にまみれていた肺の中の酸素を吐き出した。


 志希人はアネモネに惨敗した後、ジョニーの武器工房へと運び込まれた。今度は右腕をくっ付けるだけではすまず、全身を換装するハメになった。それに丸一日を費やし、あの闘争から二日経った今日の火曜日、ようやく外に出ることを許可された。


 真新しい体、ということもあるが、何より一日中作業台ベッドの上にいたため、体の節々が痛んで仕方がない。

 登校路を歩く道すがら、深呼吸やストレッチをして体を慣らす。


 峠を越えた月曜の深夜――武器工房に、アリアがやって来た。志希人を気遣ってか、組合長という立場でありながら単身での訪問であった。

 作業台の上に横たわる志希人へ、とつとつと事の顛末を語ってくれた。


 ビジネスホテルでの交戦は、世間一般には爆発物事件として公表、処理するようだ。荒れ果てた現場、志希人が放置した銃火器などの物的証拠を抹消するために酷く苦労したようだ。苦労した、と言う割りにアリアはあまり気が沈んでいないようであった。どこか志希人に恩を着せるような言い草のように思われた。


 またアネモネはあの後、行方をどこかへ眩ませてしまったらしい。依然手がかりは掴めておらず、現在も捜索中とのこと。

 もし所在が掴めたのならすぐ俺に連絡を下さい、と言うと、アリアはどこかほっと安心して嘆息した。志希人があの敗北を経て、心折れたのでは、と懸念していたのだろう。


 一通りの情報を話し尽くすと、アリアはここからが重要な話なんだけどね、と言い、胸の谷間から一枚の用紙を取り出した。それが酷く志希人の癇に触る。だから何で一々言うこと成すことがそんなに古臭いんだよアンタは、と。


 その用紙に目を通すと、内容は破壊したホテルの修繕費について書かれていた。


『いや~ん、ほらほら、事後処理とか修繕費とか、それこそ志希人君への依頼金はいつもは本部から送られてくる褒賞金で賄ってるんだけど、今回は失敗しちゃったじゃなあい? だからコレは破壊した志希人君の全額負担ってことで! それでその、まあだから、今回は報酬もナシ……みたいな? あっあっ、でもでも、異名持ちを倒した時の褒賞金は今までとは比べ物にならないくらいバブリーだから、倒した暁にはこのぐらいパッと完済出来ちゃうから大丈夫、大丈夫!』


 アリアはそう言ってはいるが、額はどうみても大丈夫な値段には見えない。さらにそこへ追い討ちをかけるようにジョニーがやって来て、

『使用した武器弾薬の補充に、手術台使用料にゅういんひ、それに今回は全身換装だからお高いぞ』

 と言って領収書を切ってくる始末だった。なけなしの研究費にまで手を付けて何とか支払い切ることは出来たが――おかげで当分は極貧生活を余儀なくされることとなった。


 そんなことを思い出していると、ぎゅうう、と腹の虫がなる。


 冷蔵庫の中にはペットボトル飲料と調味料しか残っておらず、財布の中にはコンビニのレシートぐらいしか入っていなかったため、朝食は抜いてきたのだ。さすがに水道水と早朝の空気だけでは腹は膨れない。


 こんなことなら食事ではなくガソリンで動く体にすればよかったかな――と考え、頭を振る。限りなく人間と同じく。そう望んだのは志希人自身だ。人間と違う食事など論外だ。


「わっ、すごい鳴ったね、お腹の虫」


 突然背後から声をかけられて、うおっ、と声を荒げながら振り向く。そこには栗毛色の髪をした女子高校生が立っていた。にこにこと笑みを浮かべる見慣れた顔だ。志希人は驚かすなよ、と嘆息し、

「おっす、おはようメーコ」

 気を取り直して挨拶を投げ掛ける。


 志希人がメーコと呼んだ女子は同じ高校に通うクラスメイトだ。名を一之瀬芽依子いちのせめいこと言う。

 腰まで伸びた栗毛色の髪はクセ毛なのか、ふわふわとしていてボリュームがある。顔立ちにはまだ幼さが残り、瞳はぱっちりとして大きい。身長はあまり高くはなく、どちらかと言えば小さい部類なのだが――その身長や童顔に反して、胸は非常にふくよかに成長していた。

 そんな容姿や、さらに性格を含めて全体的にふわふわもこもことしている印象が強いため、自然とヒツジっぽさを強調し、メーコ、と呼ばれるようになった。


「おはよー、志希。今日は休まずに来たんだねー」


 隣に並んだ芽依子の歩幅に合わせて歩く。


「まあな。っていうか、晴彦は? 一緒じゃねえの?」

「少し遅れるから先に行ってろって」

「あいつ、また寝坊したな。夜遅くまで遊び呆けてるから」

「あっ、ううん、違うの。起きてはいたんだよ?」

「んん? どういうこと?」

「何だか髪のセットが決まらないらしいの」

「……馬鹿か、あいつ」


 そんな雑談を交わしつつ、学校へと向かう。校舎を目の前にすると、数日来なかっただけなのに、何だかとても懐かしく感じられた。


 二年一組と札の掲げられた教室のドアを開けると、ホームルーム前の雑談に興じていたクラスメイトたちが志希人を見つけ、口々に挨拶をしてくれる。


「よー綾女、またサボりやがって。まだ夏休みまで一ヵ月あるけど、出席大丈夫かよ」

「心配ねえって、計算してサボってんだから」

「お前が休むから現国の授業オレが当てられたんだぞー」

「そりゃ俺じゃなくて当てた田崎先生を恨めよな」

「ツッコミストッパーがいないせいで晴彦は三割増しでうるさかったし」

「待て、俺は晴彦のツッコミ役になった覚えはねえぞ」

 休んだ分の時間を埋めるように軽口混じりの会話を交わしていると、

「ヘイヘイヘーイ、今オレっちのこと呼んだかーい?」


 朝っぱらからやたらとテンションの高い声が教室に響き渡る。声のした方――教室の入り口を見ると、金髪の大男がそこにいた。件の馬鹿こと、天谷晴彦あまやはるひこだ。


 晴彦は運動部でもないのに図体がでかく、身長は百八十センチ以上もあった。ワイシャツの上からパーカーを着こんでいるのだが、ちらりと覗く手首を見るだけでも相当に引き締まっていることがわかる。彼の自称ポリシーである髪は金色に染め上げられ、ワックスでツンツンに立てられていた。しかしポリシーであるにも関わらず、所々メッキがはげたように地毛の黒色が覗いていた。

 そしてギリギリまで粘ってセッティングしてきたハズの髪は汗と風で乱れているではないか。顔面にも玉のような汗を浮かべており、肩で息を吸っていた。


「何で息も絶え絶えなんだよ」


 咽喉がカラカラになっているのを我慢していたのか、げほげほっ、と咽て涙を浮かべ、


「こっ、校門で生活指導の岡村に捕まりそうになって、走って逃げてきた」

 と弁明をする。頭髪に服装、普段の生活態度バカさかげんにと、晴彦は捕まる条件が目白押しだ。


「馬鹿以外はすぐに直せるんだから、もう少しマシな格好したらどうだ?」

「うるせぇ! 野球部でもねーのに万年アンダーアーマー着込んでるお前に言われたくねぇ! 何でお前は何も言われねぇんだよっ!」

「ボクは君みたいに赤点取ってないからね、目を付けられてないのだよ」

「って言ってもギリギリだろうがよ!」

「ギリギリでも赤点じゃねえもーん」


 その応酬には五十歩百歩という言葉がピッタリなような気がした。あるいは目くそ鼻くそを笑う、だろうか。


「くぅぅ、このサボり魔に負けてることが悔しい。何だよ、昨日は何でサボったんだよ」

「風邪だっつっただろ、風邪」


 学校にはそのように報告してある。体を換装しているので休みます、とは言えるワケがない。


「嘘を吐くんじゃねぇ、嘘を! 馬鹿は風邪ひかないだろ!」

「つまりボクは馬鹿じゃないってことですぅ。君と違ってね、繊細なんだよボカァ」


 実際は風邪などひいていないが、体が精密機器という意味合いでは繊細だ。


「はぁ~? オレだって風邪ぐらいひくし。デリカシーさで言ったら負けねぇし」

「そういえばハル、夏になるとよく風邪ひくもんね」


 芽依子のフォローを得て晴彦はどんなもんよ、と得意げな顔をする。

 しかしそれは援護射撃などではなく、どちらかと言えば誤射だ。


「いや、夏風邪は馬鹿がひくもんだぞ。それとデリカシーさって何だよ」


 どこがおかしいんだよ、と何の疑いもなく晴彦が言い放つ。デリケートと言いたかったのだろうか。あまりの馬鹿さ加減に涙が出そうになった。


 三人のその掛け合いを見ていたクラスメイトたちがくすくすと笑っていた。

 言い合いをすればするほど馬鹿さ加減を晒しているような気がして、志希人と晴彦はアイコンタクトで休戦協定を結ぶ。ただ一人、鈍い芽依子だけは察せなかったようで、急に黙りこくる二人を戸惑いの目で交互に見ていた。


 ――しかしこうしてくだらない会話に興じていると、一昨日まで《人外》と殺し合っていたとは信じられない。

 この一時ばかりは己の内側で燻る黒々とした感情を忘れることが出来た。この日常は尊く、掛け替えのない、愛おしい時間だ。


「ところで話は変わるけどよ、メイ、お前あの話したか?」


 思い出したように晴彦が突然そう切り出す。


「あの話?」

「その様子じゃ話してないんだな。よーし、ならオレの口から伝えてやろう、重大ニュースだ」

「晴彦が重大ニュースなんて言うと、ろくなことじゃなさそうだな」

「そう言っていられるのも今のうちよ。聞いて驚くなよ――」


 晴彦がもったいぶって口にするよりも早く、彼の背後からおずおずとした声が聞こえる。


「すいません、通してもらってもよろしいでしょうか」


 そういえば晴彦は教室のドアを遮るようにして立っていたのだった。もう始業間近で、誰も通りかからなかったから忘れていた。

 おお悪いな、と謝罪をしてから晴彦が通路を開ける。


 それにしても、クラスメイト相手にあれほど丁寧な言葉遣いをする必要があるだろうか。馴染んでいないというか、他人行儀と言うか。


「……ん?」


 おだやかに笑みを浮かべて歩くその女子生徒に、志希人は見覚えがなかった。


 クラスメイトとして見覚えはない。しかし、敵としての見覚えなら嫌というほどあった。


 三つ編みにされた銀糸の髪に、その毛先で結われる大きなリボン。長いまつげに縁取られた瞳は赤く宝石のようで、見るものを奥へ奥へと惹き込む。そこへ以前はしていなかった赤い縁のメガネを掛けていた。


「んっ、んん!?」


 ぎょっとして志希人がその女子生徒を指差すと、晴彦はちぇっ、と一つ舌打ちをした。


「あーあ、オレが教える前に来ちゃったよ。まっいいか、志希人が驚く顔は見れたことだし」

「だっ、誰だ? 今の、誰なんだよオイ!」


 晴彦のパーカーの胸元を掴み、激しく前後に揺さぶる。


「わっ、ハルが死んじゃうよ」


 芽依子に止められ、ハッとし手を離す。晴彦は今にも吐き出しそうな弱った声で答えた。


「きっ、昨日お前が休んでる間に転入してきた、アネモネ・ウィンフィールドだよ。交換留学生だとか。珍しいよなあ、この六月の中途半端な時期に」


 教室の窓際、一番奥の席に座るそのアネモネ・ウィンフィールドなる人物を志希人は疑惑の目で凝視する。目と目が会った瞬間、にこりと上品に微笑みを返された。


「……!」


 間違いない、見間違うハズがない。

 言動こそらしからぬが、あの《血の王》アネモネだ。


「……な、何がどうなってるんだよ」



 かくして志希人の愛おしい日常に、忌むべき異質が紛れ込んだ。

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