深遠を覗いて
志希人とアネモネの交戦の末、ビジネスホテルの廊下は原型を崩壊させていく。廊下と部屋を隔てていた壁は打ち砕かれて瓦礫と化し、本来の意味を成していない。天井には無数の太刀筋が残り、床は今にも崩れ落ちんばかりにヒビ割れていた。
亀裂には多量の血液が染み込んでいるが、それら全ては志希人が流したものだ。アネモネが流したものは、一切ない。
「まあ、人間が《人外》に……ましてや《
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
全身に太刀筋を浴びて多量の血を流し、息も絶え絶えな志希人。対してアネモネは呼吸一つ乱しておらず、まだまだ余力を残しているという風だ。
「だから言ったのだ、私から手を引けば無用に命を落とすことはない、と」
「……ッ」
アネモネのその言葉に反発するように、満身創意の志希人は前方へと一歩踏み出す。おぼつかない足取りでは前のめりに倒れ込んでしまいそうなものだが、その勢いすら次の一歩へと変えて突き進んで行く。
「がっ……あああああああ!!」
血の絡んだ叫びと共にアネモネに殴りかかる。疲弊した体には《杭打ち機》の重量がいつもの数倍も重たく感じられた。
腕が伸び切り、杭がアネモネに届くまで迫った。トリガーを引き、火薬を炸裂させる。オレンジ色の火花と摩擦熱を伴い、必殺の杭が放たれる。常人の目には射出されたことすら感知が難しいであろう速度だ。
けれども相対するのは人ならざる《血の王》、その動きを完全に捉えていた。
アネモネの肉体に接触するよりも早く、ハルバードの斧刃が杭の横っ腹を薙ぎ、その軌道を歪める。直進するハズだった杭は狙いが逸れ、彼女の背後にあった壁へと衝突する。
壁は焼き菓子のごとく脆く粉砕される。確かにその威力は必殺のソレであったが、しかし当たらなければその威力を発揮することはない。
軌道を逸らされ、姿勢を崩した志希人の体に一筋の刃が通り過ぎる。左肩から右脇腹にかけてひやりとする冷たい鉄が撫でたかと思うと――内側から焼けるような鮮血が溢れ出た。
「む、浅いか。反動で思っていたよりも後ろに下がっていたか? 嬲る趣味はないのだが」
追撃を加えようとするアネモネに対し、志希人は《二重蔵》の中から拳銃を取り出し、至近距離から連続で発砲する。
しかし弾丸がアネモネに命中することはない。弾丸は彼女の真紅のコートに当たると、金属に弾かれたようなギィン、と甲高い音を立てて明後日の方向へと飛んで行ってしまう。
注意が弾丸に向いているうちに後退し距離を取る。しかしあまりの激痛に足がもつれ、よろよろと壁に肩を預けて止まってしまう。
「ぐっ……あっ……」
志希人がどれだけもがき苦しもうとも、相手は待ってくれない。むしろそれを好機として襲い掛かって来る。
身を捩じらせて項垂れていると、影が近付いてくることに気が付く。まずい、と思う頃には体が反射的に動いていた。
《杭打ち機》を頭上に掲げて盾にすると、そこへ斧刃が容赦なく叩き付けられた。十全な怪力の一撃は、その斧刃を銃身へと食い込ませる。ぎしぎしと、銃身から軋む嫌な音がする。人ならざる怪力を真正面から受け止めてなお壊れないのは、さすがと言うべきか。
一撃を受けて軋むのは、何も《杭打ち機》ばかりではない。志希人の体もまた悲鳴を上げていた。受け止めた衝撃は真新しい傷口に障り、力めば力むほどに傷口から血が逃げ出していく。
このまま鍔迫り合い――志希人が押され続ければ、ジリ貧で負ける。どうする、どうすれば、と思考を巡らせていると、急に体全体を押し潰そうとする圧力がふっと消え去った。
何が起きた、と思った次の瞬間、重く鈍い打撃が脇腹を打った。アネモネがハルバードから手を離し、回し蹴りを繰り出したのだ。
十メートル近くを数回のバウンドに分けて跳ね飛ばされる。
人の二十倍の身体能力を誇る脚は、志希人のあばら骨を容易に打ち砕いた。しかしこれでも軽傷、ただの人間であれば死んでいただろう。
「ッハァ、ハァ……」
鉄の臭いが混じる息を吐き出しながら立ち上がるや否や、投擲槍が飛来する。
二発、三発と――《杭打ち機》が志希人の代わりに槍を受けるたびに、その装甲を削り取られていく。
《杭打ち機》が壊れるよりも先に志希人がそれを支えきれなくなり、意志とは無関係に右腕が下がった。盾を失った無防備な体をアネモネの前に晒してしまう。
だが、そこへ槍が投擲されることはなかった。
「――!?」
剣を携えたアネモネがこちらへ向かって走ってくるではないか。
決着は投擲などという無粋なものではなく、直接手を下す、というワケか。
ぎしり、と砕けんばかりに歯を食いしばる。その怒りがボロボロの志希人の体を駆る原動力となった。
「馬鹿に、するんじゃねぇええ!!」
小刻みに震える右腕を無理矢理動かし、腰だめに《杭打ち機》を構え、迎撃の姿勢を整える。
腕と剣がまるで一体化したように、真っ直ぐな突きが繰り出された。それにやや遅れを取って、志希人の杭が飛び出した。
狙うは両者共に左胸――その下にある、心臓だ。
剣と杭の切っ先が一瞬の内にすれ違う。
出だしこそ志希人が遅れを取ったが、火薬を炸裂させて杭を押し出しているだけあって、剣などよりも《杭打ち機》が心臓を穿つほうが早い。
当たる――そう確信した直後、アネモネは身を捻らせて杭を避けた。
「――……ッ!?」
杭がアネモネから奪い取ったのは、左胸元のコートとシャツの布地と、掠めた肌から流れるわずかな血液ぐらいのものだ。迎撃を見透かされていた。
命を奪い取ることは、叶わなかった。
そして志希人は外した代償として、その左胸に剣を突き立てられる。
「かっ……」
口内に鉄の味が広がり、熱を帯びた血液は顎を伝って落ちていく。
「……しょう、ちく、しょう」
泣きたくもないのに、大粒の涙が目元に溜まる。アネモネは、志希人の眼前から立ち去ろうともせず、剣の柄を握りしめ、その様をじっと見守っていた。その赤い瞳には哀れむような、悲しむような、そんな憂鬱な色合いが映し出されていた。
「……だから私からは身を引けと言ったのだ。そうしていれば、死ぬことなどなかったのに」
すがるように、震える手でアネモネの右腕を握ったが、彼女は拒もうともしない。それどころかそっと反対の手で志希人の手を包みこんだ。それはまるで慈母のようですらあった。
「せめて安らかに逝け、少年。何か言い残すことはあるか?」
声にならない声を志希人が上げる。それを聞き取ろうと、アネモネが口元に顔を寄せてくる。
「――その慢心がてめぇら《人外》を殺すんだ」
「ッ!?」
危険を感じ咄嗟に飛び退ろうとするが、志希人がその腕をがっしりと掴んで離さない。
「馬鹿な、心臓を貫いたハズだ。なぜ、こんな力が」
「……生憎とこんなこともあろうかと、俺の心臓は左右逆に設計してあんだよ」
「こんなこともあろうかと……? 設計……? 貴様、何を言っているのだ」
困惑するアネモネの表情を間近で感じ取り、志希人はしたり顔で口角を釣り上げる。
「てめえが知る必要はねえよ。知ったところで生きてなきゃ意味がねえんだから――なあッ!!」
志希人とアネモネ、二人の間で火花が弾けた。今度こそ杭はアネモネの肌を裂き、肉を絶ち、骨を砕き、心臓を貫く。左胸にはぽっかりと穴が開き、その向こう側まで見通せた。風穴に空気を吹き抜けさせながら、彼女の体は吹き飛んでいく。ぱしゃり、と呆気ない音を立てて、その体は床に倒れ伏した。
「ぷ、ふぅぅ…………」
深々とため息を吐き、その場に崩れ落ちる。
アネモネの手を離れたことにより、志希人の左胸に突き刺さっていた剣が酸化して消えていく。栓の役割をしていたそれがなくなって、血が体から逃げ出していった。
手で血を拭い、それをかざして見る。
とてつもない疲労感と激痛、そしてこれまでにない達成感があった。
「……やれる。俺は、異名持ちも殺せるんだ」
掲げた手の平を、言葉と共に握りしめた。
もうあの頃の弱いままの俺じゃないんだ。
「あ痛……つぅぅ」
痛みに耐えかね、身を縮こまらせる。気付けば体からはそこそこに血と熱が奪われ、寒いとすら感じるようになっていた。
帰ろう、帰ってアリアさんに報告をしよう。それから、またジョニーのところに行って体と、《杭打ち機》を直してもらわなければ。
気だるい体を起こそうとした、その時だった。背筋が凍りつくような悪寒に晒されたのは。
「……ッ!?」
気だるさなど忘れて、身を跳ね起こす。
そこには思わず自分の目を疑いたくなるような現実が繰り広げられていた。
「嘘、だろ……? だって心臓、完全に破壊したじゃねえかよ……」
それは間違いようのない事実であった。
ゆらりと陽炎のように揺れながら佇むアネモネ。その左胸にはただただ風穴があるばかりで、心臓の形など見る影もない。だというのに彼女は立ち上がり、動いていた。
血の気が失せ、青白くなった唇を動かし、アネモネが掠れる声で言葉を紡ぐ。
「……残念、だったな。
胸の穴がゆっくりとだが、しかし着実に塞がっていく。その空洞の中に、ちらりと生りかけの瑞々しい果実を志希人は確かに見た。嘘だと否定したくなるような現実を前に、ただそれを見つめることしか出来ない。
そういえば、と脳みそが至極冷静に記憶の引き出しを開く。極稀にではあるが、心臓を破壊しようとも《血の王》が活動を停止しないケースが存在する、ということを思い出す。アレは
なるほど、極稀なケースだ。人間が真っ当に戦って異名持ちほどの《血の王》の心臓を破壊出来ることが自体がそもそも奇跡に近しいのだから。
「……ありえねえ、怪物がっ……」
「ああ、そうだとも。私は怪物、《人外》だ。人の理解の外に存在する。ありえないがありえてしまうのが、私たちだ」
自負する風でもなく、ただ淡々と、面白くもなさそうに事実を口にする。
「私を殺したいのであれば、心臓に杭を突き立てて血が枯れるのを待つのだったな。……それこそ吸血鬼伝承のように、な」
あまり吸血鬼と呼ばれるのは好きではないのだがなあ、などと言っている間に、伽藍堂であった胸が完治してしまう。心臓が鼓動し、血を全身に巡らせ始めたのだろう、頬や唇には赤みと瑞々しさが戻っている。
そこまで見届けてようやくハッと我に返る。呆けている場合ではない。どれだけ信じられないものだとしても、現にこうして起きているのだ、それを受け入れた上で乗り越えるしかない。
「……ッ、ならお望みどおり、もう一度心臓をぶっ貫いてそうしてやるよッ!!」
咆哮と共に飲み込まれていた心を奮い立たせ、駆け出す。
アネモネはただ漠然と立ち尽くしているのみで、その手に武器を握る気配もなければ、構えを取る様子もない。
「おおおッ!!」
いつ自壊してもおかしくはないほどに破損した《杭打ち機》を酷使し、杭を射突させる。自身の放つ衝撃に耐えかね、ボルトや鉄板の破片を散らしながら杭は飛び出す。
しかし無防備なアネモネを杭が再び穿つことはなかった。
ガギンッ、と高音と火花を散らしながら、杭が弾き返される。
「…………!?」
志希人とアネモネの間を隔絶する、五枚の赤黒い鉄板。それが鉄の花弁のように折り重なり、杭を防いで見せた。杭を受け止めた中心部は、多少へこんでいる程度の損傷しかない。
「すまない、私は貴様を侮っていたようだ」
鉄板は、アネモネの足元の血溜りから伸びていた。
嫌な予感が、脳裏を駆け巡る。それはアネモネが立ち上がった時よりも、なお凍える寒気を呼び起こす。
しかし、殺した相手が再び立ち上がること以上の嫌な予感とは、一体何だろう。
「まさか本領を発揮していなかったとはいえ、心臓を一度破壊されるとはな」
はらりと鉄板が花の形を崩すと、まるで蛇のように独立してうねり始めた。よくよく見れば、先端こそ鉄化していたが、それ以外の部分は不可視の膜に覆われたままの血液であった。
これはアネモネが新たに見せた能力だろうか――否、これも彼女の《血因能力》の一部だ。
「血を武器に変える能力じゃなくて……血を操り、鉄と化す、能力…………?」
「隠していたことは悪いと思う。しかし、切り札とはそういうものであろう? 貴様の反撃には驚かされた。ならば今度はこちらが驚天動地をお見せしよう」
「……ッ」
血を武装に変える能力と、血を操り鉄と化す能力では雲泥の差がある。
鉄板は防御から攻撃の姿勢へと移行する。帯のように四角い鉄板のその先端は、剃刀の刃のように鋭利に研ぎ澄まされていた。
その刃が天も地もなく、縦横無尽に襲い来る。
一枚目をかわそうとも二枚目が迎え撃ち、さらにそれをかわした先には三枚目、四枚目、五枚目が控えている。例え全てを紙一重で回避したところで、ひらりと刀身を翻してまた追撃してくる。こんな挙動、ただ血を武装とする能力では成し得ない。
少しずつ、少しずつ、志希人の体から肉がこそぎ落とされていく。
「嬲り殺しにする趣味はない、潔く逝け」
ぎょるり、と刃が捻れ、先端が螺旋を描く槍と化す。そして五本同時に前後左右、そして頭上から、一斉に志希人へと放たれた。
「……ッ、一番格納庫、ソードオフ・ウィンチェスター!!」
銃身の切り詰められた散弾銃が左手から飛び出し、それを空中でキャッチすると、次々と襲い来る螺旋槍へと発砲していった。弾雨が槍に命中し、軌道を歪めて行く。
狙いを逸らされた槍は、どれもこれもが志希人へ致命傷を負わせることはなかった。しかし、全てを完璧に逸らしきることは叶わない。前方の槍は首筋を、頭上のそれは額を掠める。後方は脇腹を、右方は胸板を抉り、そして右方は《杭打ち機》を貫き――粉砕した。
槍は幸いにも装填された火薬に触れることはなかった。その代わりに志希人の二の腕を穿つ。
がごぉぉおん、と重厚な音を立てて破壊された《杭打ち機》が床に投げ打たれる。志希人もまた、それと同じように身を投げ出しそうになった。
荒く不規則な息を吐き出しながらダメージを推し量る。貫かれた右腕がぴくりとも動かない。
「……神経ケーブルが……クソッ」
左腕はまだ動いた。しかしあまりに血を流しすぎたせいか視界は霞み、足元はおぼつかない。頼みの綱である《杭打ち機》はその機能を果たせないほどに粉砕されてしまっている。
満身創意の志希人を、もはや敵意も失せたアネモネの目が見下ろす。
「もう、いいだろう? 能力を縛っていたとはいえ、貴様は《
貫く螺旋の槍が酸化し、霧散する。アネモネは足元の血溜りを集束させ、巨大な三日月の刃を形成した。彼女の背後で空に浮かぶ月のようにゆらゆらと大鎌が揺れていた。
「手は、尽くした……?」
ぼうっとする頭の中に、アネモネの言葉が響き渡る。静かな水面に、波紋を立てられたような気分だった。
前屈みになるとそのまま倒れてしまいそうだったが、何とか踏み止まる。震える左手で床に散らばる《杭打ち機》の残骸の中から、杭を広い上げ、握りしめた。今の志希人には、それですら重たく感じられる。
体はボロボロになり、必殺の武器が破壊されようとも、しかし寸分も鈍らぬ殺意を宿した目でアネモネを睨みつけ、言い放つ。
「馬鹿言ってんじゃねえよ……俺の心臓はまだ動いてる。まだ、手は尽くしちゃいねえ」
体が傷付こうとも、志希人の心臓は全身に向け脈を打ち、血を巡らせ、《人外》を殺せと叫び続けている。
おぼつかない足取りだが、しかし確かに一歩を踏みしめ、前へと進む。
いまだに戦意を――殺気を失わぬ志希人を見て、アネモネの目は驚愕の色を示す。
「……何と言う執念だ。私の心臓を貫いた人間は、片手で数えるほどにいた。だが、再び立ち上がる私を見てなお心折れなかった人間は貴様が初めてだぞ、少年」
同時に、そこには畏敬が同居していた。アネモネの声は震えていたが、口元には深い笑みが刻まれていた。
「……初めてだ、私がこんなにも血を吸いたいと思ったのは」
ばぎん、と三日月の刃が音を立てて崩壊した。アネモネがかつかつと早足でこちらへ向かって歩いてくる。
「……が、あぁぁぁああ!」
血反吐混じりの絶叫と共に、アネモネに飛び掛かる。しかし彼女の歩みに付き従う血溜りがそれを許しはしない。血溜りから槍が伸び、手首を貫く。杭を握るだけの握力も奪われ、杭がするりと抜け落ちる。
無闇に近付けばまた何をされるかわからないと学習したのだろう、布のように薄く平たい鉄が志希人の四肢に巻き付き、動きを封じる。
「ぐっ……離しやがれ……!」
「殺すのが惜しくなった。その執念に敬意を払い、貴様の命、生かしておいてやろうと思う」
アネモネの細指が志希人の頬に触れ、優しく包みこむ。
「――私の中で、な?」
首筋に熱い唇が口付けをし、ぬめる舌が這う。そして鋭利な牙が突き立てられた。アネモネは傷穴から流れ出る血をこくりこくりと、咽喉を鳴らして飲み下していく。
「あっ、がっ、あああああああ」
アネモネは最初のうちこそ恍惚の表情を浮かべていたが、しばらくして異常に気が付き、牙を離す。
そしてまるで有り得ないものを見るかのような目で志希人を凝視した。
「……!? 何だ、これは。人間の血ではない。生き物の血でない。生きていない。命が、ない。死血にすら生は宿るというのに、この血にはそれが微塵も感じられない。何だ、何が、何がどうなっている……!?」
戸惑いを隠せず、捲くし立てるようにアネモネが言う。
「……かははっ、異名持ちが、三下の成りそこないと同じ反応してらあ」
精一杯の皮肉を込めて言葉を吐き捨て、笑みを作る。
だが、アネモネは志希人の正体を暴くことに必死なようで、その言葉は届いていないらしい。
「……先ほどの心臓のことといい、何だ、貴様、人間ではないのか? 私と同じ、何かしらの《人外》だと言うのか?」
「……あ?」
ぎしりと音を立てて志希人の表情が強張る。その熾烈なる眼光を受けて思わずアネモネはたじろいだ。
殺し合いに興じている相手に、態々自らの正体を明かしてやる必要など微塵もない。そのまま未知に対して怯えていてくれれば、万々歳だ。けれども――志希人は語らなければ気がすまなかった。
だって、そうだろう。《人外》が憎くて憎くて仕方がない志希人が同じものであると思われたまま、いられるワケがないではないか。
「……確かに俺の体はフランケンシュタインの怪物をモデルにして作られた機械仕掛けの、偽物の体だ。自前のものなんて、もう脳みそぐらいなもんだよ」
だから心臓の位置を左右反転させたり、《二重蔵》に手の平を媒介として認識させるような芸当が出来る。肉体の頑強さや膂力は通常の人とは比べ物にならないほどに強く、そして何より腕を捥がれたとしても換装してやれば翌日には何事もなかったかのように戦線へ復帰が可能だ。
志希人はそんなズルをして《鋼人》と称されるまでになった。頂戴した折は、何てぴったりで皮肉のこもった称号だろうと思ったものだ。
こんな体をした志希人はもう人間の常識の埒外にいるのかもしれない。それでも志希人は自身を人間であると信じていた。
「……なあ、吸血鬼。俺は《人外》が大嫌いだ」
志希人の言葉にアネモネは口を挟まず、黙ったまま聞き入っている。
「人間を食い物にしねえと生きていけないてめえら《人外》が嫌いだ、大嫌いだ!! でも俺は違う、
食いかからん勢いで志希人が吠える。だが拘束から逃れられる気配はない。
「《人外》が嫌いだというのに、フランケンシュタインの怪物を模した体をしているのか……?」
わからない、理解に苦しむ、というようにアネモネが瞠目して問うた。
口の中に溜まった血を吐き捨てながら、志希人は答える。
「ただのクソガキが《人外》と殺り合おうって言うんだ、そのぐらいの覚悟は必要だろうが」
《人外》を嫌ってはいても、侮ってはいない。その恐ろしさを志希人は身に染みて知っているから。死に損ないの体では、どれだけの年月を費やしたところで勝ち目はゼロに近い。例え憎悪する《人外》と同じような、人の理解の外にある体に身をやつしたのだとしても、それでも彼らをこの手で屠れるのなら。そんな思いが志希人をこの鋼の体に――《鋼人》にした。
「だから俺に殺されろ、《人外》」
「……っ」
淀みなく言い放たれた言葉に焦りを感じたのか、アネモネの額からつぅ、と一筋の汗が流れ落ちた。それからほどなくして、硬く渋面を作り出していた口角がにまり、と釣り上がり、
「くっくっく……あっはっはっはっはっはっは!!」
手の平で目を多い隠すと、身を捩じらせて大笑いをし始めた。
「《人外》を嫌いながら《人外》を殺すために自らも《人外》と同じ埒外の体になって、それでも俺はお前らとは違う、人間だと? あまつさえ危機的状況であるのに、俺に殺されろとは! くっ、あっははは! 私を笑い殺すつもりか!?」
終いには笑いすぎて呼吸がままならなくなる始末だった。
まだ肩をくつくつと揺らし、口元に笑みを残したまま志希人を見る。
「組合の手合いのものと聞いて、どんなくだらない刺各かと思っていたが……どうやら貴様は他の連中とは違う、ただの走狗ではないらしいな。実に面白く、実に興味深い。貴様、名は?」
見下しも、敵意もなく、親しげとさえ思える口調でアネモネが問うが、
「綾女志希人。てめえを殺す名前だ。死ぬまで覚えてやがれ」
依然として志希人の殺意は鈍らない。
「アヤメ、シキヒトか。覚えておこう」
アネモネが頷くと、志希人の拘束がするするとほどけていく。
「……おい、何のつもりだ。俺は《人外》の情けなんて受けねえぞ」
「勘違いをするな、情けなどではない。私は私の言葉に責任を持って行動をしているだけだ。先ほど、貴様を生かしておいてやると言ってしまったからな」
「そりゃあてめえの腹の中で、って話だろう」
「生憎、貴様は私の中では飼えそうにないのでな」
よしんば飼えたとしても内側から食い破られそうだ、とけらけらと笑う。
「しかし、だ。このまま離してしまうと貴様はそのボロボロな体で私を殺そうと追ってくるだろう?」
「当たり前だ」
「それは困る。私は追われるのが大嫌いなのでな。だから、一つ手を打たせてもらおう」
脚部の拘束が解かれたと思った途端、志希人の視界が揺らぐ。それまでアネモネを睨み付けていたのに、いつのまにか床を凝視していた。
「……あ?」
首を巡らせて足元を確認すると、腱が切断されてしまっていた。
「四肢が使い物にならなければ、魔力を持たない貴様ではもう追ってはこれまい」
倒れ伏す志希人の横を悠々と歩き、アネモネは立ち去っていく。
「待て……待ちやがれ!!」
志希人を煽るように、アネモネは手の平をひらひらと振って別れの挨拶を告げる。
「なぁに、近いうちに再会出来るだろうさ。その時を楽しみにしていたまえよ、綾女志希人」
堂々とした足取りでアネモネは退場していく。小さくなっていく足音が、彼女が去ったのだと告げていた。そして、志希人の敗北も。
「くそっ……くそっ……」
身じろぐこともままならず、独り取り残された志希人は血の海に映る己の情けない面を見ることしか出来ない。
出血は激しく、体温が失われていき、やがて寒いとすら感じられなくなってきた。
アネモネが消えうせてからどれだけの時間が経っただろう。それすらもわからないほど、志希人の感覚は麻痺していた。
「……かえ、らなきゃ」
立ち上がろうとするも、飾りだけの四肢では立つことなど出来るハズもない。闇雲に体力だけが奪われていく。
死が現実味を帯びてきた、その時だった。
誰かが階段を駆け昇ってくる足早な音がする。やはり気が変わって志希人を殺しにきたのだろうか。しかしそれにしては足音が慌しい。
「――いっ、いたァ! 綾女くん、いたァ!」
その声には聞き覚えがあった。つい最近、聞いたばかりのような気がした。目だけを微かに動かし、声の主の顔を拝もうとする。霞がかかる視界で、近寄ってきた顔をようやく捉えることが出来た。
「……何で、あなたが」
瀕死の志希人の元に駆けつけたのは、青年組合員だった。汗と涙、それと鼻水とでぐしゃぐしゃに顔を歪ませており、血と硝煙に汚れた志希人よりも酷い有り様だった。
「きっ、君が帰ってくるのを待ってたら、ホテルから出てきたのは《血の王》じゃないか! まさか君がやられたんじゃないかって心配して駆けつけてきたんだよっ!」
恐怖でどこかヤケクソなせいか、口調がいつもとはかけ離れていた。
「……俺はてっきり、ビビッて逃げたものだと思ってました」
精一杯余力を振り絞り、口元に笑みを浮かべて見せる。
「ぼぼっ、僕だって逃げ帰りたかったさ! でも君一人残して帰るワケにはいかないだろう!」
「……でも、俺が怖いんでしょう?」
意識がぼーっとしているせいか、体の疲弊に反して口がよく動く。
「こ、怖いさ! 怖かったけど、放ってはおけないだろう! 放っておいたら君はふらっと死にそうだし! っていうか、実際に今死にかけてるしさ!」
青年が志希人の腕を肩に回し、引きずるように運ぶ。通常の人間の肉体とは異なり、志希人は機械で構成されている。人の血肉よりも、なお重い。だというのに彼は、文句一つ口にせずに志希人を運び出そうとしていた。
「でもぶっちゃけ、《血染花》と比べると君は全然怖くないっ! 何あれ、遠くから見えただけなのに存在感だけで足は震えるわ、鳥肌が止まらないわ、顔から液体っていう液体が溢れるわ! それと比べると、君なんて大したことないさっ!」
ずびずびと鼻水を啜りながら青年が言う。
「……そりゃ、どーも」
「怯えて損したとも思えてきたね! だって君、馬鹿でしょ!」
「……馬鹿って」
「昨日も腕千切られて倒れるギリギリの状態だったのに、怖がる僕に気を遣ってへらへらして。それで倒れて僕に担ぎこまれたんだから、そりゃ馬鹿っても言いたくなるさ!」
「……そんで、また担がれてるし」
「そうだよ、本当に! っていうか、君一人に戦いを任せてる僕らが言えた義理じゃないんだろうけど、君は周りを頼らなすぎだ! もっと大人を、僕らをもっと頼ってくれよ! 僕は気遣いよりそうしてほしいね! でないと……でないと自分が惨めになる。子供にこんなことを強いて……そんな中、逃げられるワケがないだろ。今日も待って炉ぐらい言ってほしかった。頼ってほしかったさ!」
「周りを頼らなすぎ、ですか……たはは、耳に痛い」
「ぼ、僕なんか、頼りないかもしれないけれどもさっ」
「……へへ、そんなに泣いてちゃ確かにね」
「そっ、そこは配慮を聞かせてそんなことないですよって言うところだろ!?」
命を救われている状況にも関わらず、志希人は今もこの機械の体のことが青年に知られてしまうのではないかと気が気ではなかった。
そんな志希人が誰かを心から信じ、頼れる日が来るのだろうか。
この体のことを受け入れてくれるものが、現れるのだろうか。
そんなことをぼんやりとした頭で考える。
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