お姉ちゃん

 皆、真っ黒な影法師に殺された。


 首から上だけが人の形を留めた父や母、姉を見、ワケもわからずパニックを起こした。けれども頭の芯はどこか冷静に家族の死を理解していた。その表情のどれもが苦痛に歪んでいた。


 そう理解した途端、呼吸の仕方がわからなくなった。どうやって立っていたか忘れ、足がもつれて倒れこみ、体中の穴という穴から液体が漏れた。目からは涙、鼻からは鼻水、毛穴からは汗、そして失禁した。


 影法師は、そんなみっともなく慄く姿を愉しんでいた。それがほしかったんだと言わんばかりに、歯のない口をにんまりと釣り上げて。


 大人か子供か、男か女か、人かそれ以外か、とても存在が曖昧な影法師は、こちらへと向かって歩いてくる。ゆったりとした足取りで、焦らすように、恐怖を煽るようにして歩を進める。

 

 影法師が一歩詰めるごとに、心臓の鼓動が早くなった。

 心臓がもう限界だ、と悲鳴を上げる頃には、影法師は眼前へと迫っていた。


 あの時はただ、泣いて、喚いて、神様にお祈りをするしかなかった。けれども、神様は助けてなどくれなくて。


 だからあの日、強くなることを誓った。




「――……ッ」


 志希人は布団から飛び起きるなりトイレへ駆け込み、熱い胃液を吐き出す。胃の中を全て嘔吐し、ようやく吐き気は引いていく。それに比例して、今見たものが自身の夢であり、ここは現実なのだという実感が湧き上がってきた。

 便座に寄りかかって荒い呼吸を繰り返し、手の振るえが収まるのを待ち、じっとりとした脂汗が引いて行くのをひたすら耐えた。


 ジョニーの武器屋で左腕の治療を終え、輸血をすませる頃にはすでに日付をまたいでいた。それからアパートへ帰ってくるなり疲労困憊で風呂にも入らず、食事も摂らず眠りについてしまった。

 部屋に戻り時計を見ると、針はまだ午前三時を指している。六月の今だと、日が昇るのはまだ先のことだ。


 窓から差し込んだ月明かりが照らす、静かな志希人の部屋。六畳一間の、掃除も行き届いていない部屋だ。布団の周りには脱ぎ散らかした衣類が散乱しており、テーブルの上には今朝食べたコンビニ弁当の容器やペットボトルやらが置きっぱなしになっている。台所のシンクも酷いもので、いつ使ったかわからない食器が水に浸されており、出し忘れたゴミが玄関に放り出されていた。

 

 こんな自堕落な生活をしていようとも、叱ってくれる家族はもういない。


「……ダメだな、こりゃ」


 思考がどんどんとネガティブな方向へと進んでいくのを自覚する。

 このまま時計の針が進む音だけを聞き続けていたら気が狂ってしまいそうだ。


 《人外》を殺した日は、いつもだった。


 血が乾いて固まった衣類を脱ぎ捨て、衣装タンスの中から真新しいシャツとズボンを取り出して着る。


 足の踏み場もない部屋を慣れた足取りで歩き、部屋を出た。鍵は閉めない。盗まれて困るようなものはないし、泥棒も態々こんな金欠の人間しか住んでいなそうなボロアパートを狙わないだろう。


 夜道を歩くこと十分ばかりして、目的地に到着する。

 そこはジョニーの武器工房と同じように倉庫を改造して作られた志希人の魔術工房だった。

 元々は資材倉庫であるため、かなり巨大だ。そのスペースの半分以上は志希人の武器庫として使用されており、ジョニーから購入した各種武装が整然と並べられている。つまるところ、志希人の《二重蔵》の連結された空間とはこの倉庫自体のことを指していた。


 目的はこの武器庫――ではなく、残り半分の魔術工房のほうに用があった。


 志希人のそれは、一般的な魔術師の工房から若干ズレていた。他の魔術師たちが魔女の大鍋であるとか、山羊の頭蓋であるとか、ドクロ水晶などの魔術師的イメージの強いものを用いている中、志希人はそれらのものを一切使わない。というか、使えないので不用だ。

 代わりに置かれているものは科学実験施設で使用されているような専門器具ばかり。工房のいたるところにパイプが張り巡らされており、テーブルの上にはビーカーやフラスコが並び、改良のためバラバラに分解された志希人の義肢が転がっていた。魔術師の工房というより、科学者の研究工房ラボというほうが適切だろう。


 魔術師らしい箇所を無理矢理にでも見つけ出すとするのならば、機械工学や遺伝子工学などの専門書が納められた本棚の中に魔導書の類がある、ということだろうか。

 しかし気を紛らわすためにはそれらの書を読みふけりに来たワケではない。研究に明け暮れて時間を忘れるためでもない。


 工房の一番奥、厳重に鍵がかけられた部屋を目指す。


 ドアを開けると電気も点けていないのに、青白い光が部屋全体を薄っすらと照らしていた。

 部屋に流れた風が埃を舞い上げた。それは光を受けてキラキラと光りながら落ちていく。


「……ただいま、姉ちゃん」



 部屋の中央、円柱形の培養機の中に志希人の姉が浮かんでいた。


 黒く艶やかな髪は腰まで伸びており、閉じられたままの目を縁取るまつ毛は長く、唇と肌は恐ろしいほど血の気がない。それは生気のない、細部まで精巧に作られた人形のようであった。


 事実、もの言わぬ人形だ。


 死んだ姉を蘇らせようと、志希人が魔術、科学問わずに手を尽くして肉体を生前と変わらぬまでに再現したはいいが自我、あるいは魂というものが宿っていなかった。


 それでも、幼子がぬいぐるみを母や友の代わりとするように、志希人もまたこのもの言わぬ器を大切にしていた。


 《人外》を殺した日は、いつもこうだ。


 嫌な夢を見たと、目に涙を浮かべて姉にすがりに来る。十年前と変わらない。歳の離れた姉に、男の子なのに恥ずかしいね、と笑われて、でも優しく受け入れてくれて。

 培養機の中で揺れる姉に身を預けると、自然と心が休まった。すう、とまぶたが閉じていき、やがて志希人は寝息を立て始める。

 こぽこぽと培養機の中であふれる気泡が姉の鼓動のように感じられた。

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