素晴らしい名前を

 桐緒さん、と彼は必ず私の名前に「さん」をつけて呼ぶ。


「なんかおかしくないかなぁ、私のほうが年下なのに」

「桐緒さんだって俺の事、さんづけで呼ぶじゃん。『荘平さん』って。だったら俺だっていいでしょ。俺はさ、桐緒さんと対等でいたいんだよね」

 お得意のいかにももっともらしい口ぶりを前に、精一杯の反論のポーズを唱えながら私は答える。

「だって荘平さんのほうが私よりも大人だし?」

「大人になるって寂しいね、恋人に呼び捨てで呼んでもらえなくなるなんて思いもしなかったや」

「そういうのじゃなくて」

 精一杯に腕を伸ばし、わざとらしくいじけてみせる荘平さんの頭をぽんぽん、と軽く撫でるようにしながら私は答える。

「荘平さんは呼び捨てで呼ばれたいわけですか?」

「や、別にそういうわけじゃないよ。桐緒さんの好きにしてくれればそれが一番いいし。所で、なんでいきなり敬語になるんですか?」

「そんな気分だったんです」

「そうでしたか。ところで桐緒さん、少しお願いをしても良いですか?」

「なんでしょうか」

 遠慮がちにそう尋ねる私の肩にそっと手を置き、きっぱりとした口ぶりで彼は答える。

「……少しだけ、目を瞑ってはいただけませんか? 」



 荘平さんの仕事仲間の人たちは大抵、彼のことを『荘平くん』と呼んでいる。仲間内の中でも彼が比較的年下の部類に入ること、それに加えて、彼自身の持つキャラクターがそうさせるのだ、と言うのは荘平さんの同期のパーカッショニストの弁だ。確かにそれは一理あるのだろうな、と私は思う。

「なんていうかまぁ、愛されキャラってヤツなんだろうね」

「そう言うと途端にうさんくさく聞こえますね」

「いいじゃない、弄られキャラよりもよっぽど。それとも何? 焼きもち?」

「なんでそうなりますか」

 憮然とそう答えながら流し込むように飲んだカプチーノがいやに熱かったことを、私は不意打ちのようにふと思い出す。

「そうへいくん」

 口の中でその一音一音をそっと転がすみたいに、微かな声でそう呟いてみる。その途端、伏せた睫毛がふるふると音もなく静かに揺れる。

「何、呼んだ?」

 寝ぼけまなこを指先でそっと擦りながら、荘平さんは尋ねる。

「いや、あの、そうじゃなくて」

 膝の上からずれてしまったブランケットを直しながら、精一杯に取り繕うように私は答える。

「みんながね、荘平くんって呼ぶじゃない? だから私もたまにはそう呼んでみたいなーって思ってちょっと思いつきで、練習をですね」

 だから起こすつもりはなかったんですごめんなさいそのまま寝ていていいんですよ。

 息継ぎをする間もなく、まくしたてるように私は答える。そうでもしないと、恥ずかしくて間が持たないのだ。

「じゃあお言葉に甘えてもうちょっとだけ休ませてもらうけど、その前にちょっといい?」

「はい」

 子どもを呼ぶ時のように荘平さんはしなやかな指を折り曲げてひょいひょいと手招きをする。その仕草につられるように、私はそっと身を屈め、ソファの上に腰を下ろした荘平さんを真正面にしたまま、ゆっくりと顔を近づける。


 耳元へそっと唇を近づけ、彼は囁く。

「桐緒」

 吐息と共に紡がれた言葉を前に、途端に胸騒ぎがあふれだしていくのを私は感じる。ほんの僅か一瞬の、些細な気まぐれ。頭では嫌というほどそれをわかっているはずなのに、心臓は無様に飛び出したかのように高鳴り、鼓動を止めてくれそうにはない。


「何なんですか、いきなり!」

 耳まで真っ赤にしてそう答える私を前に、いかにもおかしそうにくすくすと笑いながら荘平さんは答える。

「一度呼んでみたかったんだよね、『桐緒』って。でも、桐緒さんが俺の事さん付けで呼んでくれるのに俺だけ呼び捨てじゃあ、なんて言うかフェアじゃないじゃない」

 桐緒ちゃん、の方が良かった? 

 子どもみたいに無邪気に笑う顔を目にした瞬間、引き寄せられた思いは身動きが取れなくなる。こんなの、ずるい。心の中でそう呟いた頃にはもう遅い。

「桐緒さんってやっぱりいい名前だよね、なんか、特別な感じがする」

「……ありがとう」

 俯いたままポツリとそう答える私の頭を、しなやかな指先がくしゃり、とそっと掻きまぜる。


 荘平さんが呼んでくれるから、特別になれるんだよ。

 その言葉は、ひとまずは胸の内に飲み込んでおくことにした。

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