パリへ行ったことがあるかい?

 仕事の報告をする時、荘平さんは決まっていやにかしこまった口調になる。


「再来月、ツアーが決まりました」

「今度はどこに行くの?  また北陸? 」

 静かに首を横に振り、荘平さんは答える。

「ううん、パリ」

「パリ!」

 私は思わずあんぐり口を開けて、おうむみたいにそう繰り返す。

とっさに頭の中で世界史の教科書と地図帳をめくってみるが、目の前に居る人と遠い異国の地のその姿を相互に上手く結びつける事は出来ず、もやもやとした霞のような絵しか思い浮かべることが出来ない。

 フランスの首都パリ。花の都パリ。マリー・アントワネットとヴェルサイユ宮殿とフランス革命の国パリ。

 そういえばエッフェル塔って誰が作ったんだっけ?  世界史の教科書には確か書かれていた気がするけれど、生憎今は確かめる術はない。まだ見ぬ異国の地に降り立つ恋人の姿を懸命に思い浮かべようとするこちらの思惑などまるで気づかないような様子で、いつも通りのあののんびりとした口調で荘平さんは尋ねる。

「お土産、エッフェル塔でいい? 」

「荘平さんって見かけによらず力持ちだね、あんな大きなもの持ってこれるんだ」

「じゃあエッフェル塔まんじゅうにしよっか? 」

「パリにもあるんだ、まんじゅう」

「ペナントでもいいけど? 」

「あるかなぁ、ペナント」

 ゆるいパーマのかかった髪を揺らして、恋人は心底おかしそうにくすくすと笑う。くしゃりとゆがんだその笑顔がやっぱり大好きなのに、見つめているとなぜだか同時に、僅かに胸が少しだけ軋む音を立てるのは変わらない。

 いとしい、というのはたとえばこんな感情の事を言うのかもしれない。鈍く痛む胸の先をかすめながら、私はぼんやりとそんな事を思う。

 そっと手を伸ばして、その先のやわらかい髪に触れる。指先をすり抜けるその感触は、くすぐったくて少しあたたかい。ふんわりと香りたつのは日の光とシャンプーと整髪料の匂い。この人だけの持つ、特別な香りだ。

「何するの、桐緒さん」

 面食らったようにそう尋ねる彼を前に、にっこりと得意げに笑いかけながら私は答える。

「せっかくですから、荘平さんをおフランスに似合うような伊達男にしてあげようと思いまして」

「じゃあ桐緒さんもパリジェンヌスタイルにしてあげよっか? 」

「いいの、私は大和撫子を目指すから」

「そんな事言わなくたっていいじゃない、俺はパリジェンヌな桐緒さんだってきっと素敵だと思うんだけどな」

「いーやーでーすー」

 差し延ばされた腕を掴み、精一杯に抵抗しながらそう答える私をまっすぐに見つめながら、荘平さんは心底おかしそうにくすくすと笑う。日の光に縁どられたその眩しさにあてられるようにしながら、私は思わずそっと瞳を細める。


 瞳の前に居るこの人は、私が教科書の片隅でしか見た事のない異国の地へと旅立つらしい。

 彼を羽ばたかせるそれが、彼自身の持つ才能という名の翼である事に、私は微かな嫉妬にも似た感情をそっと抱く。


「桐緒さんも一緒に来れたらいいのにね、パリ」

「パスポート持ってないよ」

「じゃあ取ればいいじゃない、俺みたいに」

「そもそも学校がありますから」

「ああ、そっかぁ」

 まるで今思い出したとでも言いたげに、わざとらしく無邪気にくすくすと笑いながら荘平さんは答える。

「何なら俺のトランクに入れてあげようかと思ったのに」

「遠慮しておきます、閉所恐怖症なので」

「へえ、そりゃあ残念だ」

 冗談とも本気ともつかないような軽妙なその受け答えを前に、自然と頬が緩むのを私は感じる。どんな嘘みたいな事だって叶えてしまいそうなこの語り口は、この人の持っている沢山の魔法のうちのひとつだ。


 その夜私は、荘平さんと共にパリへと旅立つ夢を見た。

(勿論、トランクでの密入国では無く)


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