ピアニストの恋ごころ
高梨來
指先の紡ぐもの
私の恋人(と言ってもいいのかまだ少し躊躇われる)は鍵盤弾きを生業としていて、日々様々な場所に赴いては音を届ける事に忙しくしている。
そして私はと言えば、そんな彼の足元にも及ばないつまらない高校生だ。
「私、ピアノ弾きってもっとお堅いイメージだったなぁ。ほら、日曜日のクラシックの番組でタキシード着てグランドピアノ弾いてる人が居るじゃない? ああいうイメージだったかも」
「最大公約数ってヤツだよね、それが」
微かなしたり顔を浮かべたまま、彼は続ける。
「俺もよく聞かれたよ、どこかの楽団に所属してらっしゃるんですか? って。その度になんかこう、裏切ったみたいな気分になっちゃって」
「なるほど……」
どこか感嘆にも似た思いに耽る私を前に、彼は続ける。
「まぁ一口に鍵盤弾きって言っても活躍の場はいろいろですから。子どもの頃さ、近所の子たちに家でピアノ教室を開いてるお母さんがよくいなかった? ああいう人たちも、大晦日に第九の演奏会で演奏してる人も、テレビに出てるアイドルの後ろで弾いてる人も、勿論俺みたいなのも、みんなひっくるめてピアノ弾きではあるわけですよ。クラシック畑の人も居れば、そうじゃない人も居て」
にやり、と得意げに見える微笑みを浮かべながら、荘平さんは言う。
「大体、ばりばりそっちの人間だったら桐緒さんに知り合うチャンスもなかったわけだしね」
「まぁ、そうですね」
今よりもほんの少し前、初めてピアノを弾く彼のその姿を目にしたその日の事を、私はぼんやりと思い返す。
子どもの頃に連れていかれた演奏会やテレビの中で時折目にするくらいだったお堅いイメージ一辺倒だったピアニストとはまるで違う、軽やかでしなやかで、それでいて自由さに満ちあふれたその演奏スタイルに出会えたのは、ライブハウスの薄暗がりの中での事だ。
「まぁ正直、運とタイミングだよね。そこは。たとえば俺がばりばりのシンセプレイヤーだったりしても、桐緒さんの目に留めてもらえる可能性はぐっと減ってたはずじゃない。カテゴリー的には同じくピアニストなわけだしね」
「荘平さんも弾いたりするの? シンセサイザー」
「そっちはあんまり詳しくないから……先輩にはそういうの専門の人も何人か居るけどね。桐緒さんは俺にもそういうの、弾いてほしいわけ? 」
冗談とも本気とも取れるような不思議な色の瞳をして、彼は尋ねる。その綺麗なアーモンド形の瞳はほんの少し色素が薄くて、晩秋の落ち葉の色みたいな焦げ茶色をしている。
「別にそんな事言ってないよ。私は荘平さんはそのままでいいと思うし」
口を尖らせてそう答える私を前に、にっこりと得意げに微笑みながら荘平さんは答える。
「へぇ。桐緒さんはそのままの俺が好き、と」
「そんな事言ってない、言ってないから」
「照れなくたっていいじゃない」
得意げに笑いながら、しなやかな指先がこちらへとのばされる。促されるようにそっと瞼を閉じれば、見知ったそのぬくもりが、覆い被さるように自らのそれと重なり合う。
いつもそうする、子どもみたいな微かに触れるだけの淡いくちづけ。荘平さんの唇はあたたかで、コーヒーと少し、ミントのタブレットの味がする。
「桐緒さん」
抱きとめたその肩を、指先でトントン、と軽く叩くようにしながら荘平さんは答える。
「瞳、もう開けていいよ? 」
ゆっくりと瞼を開ければ、くしゃくしゃに笑う彼の顔がそこにある。遠くから主人を見つけて駆け寄る時の犬みたいな、その屈託のない笑顔が私はたまらなく好きで、その表情が自分の為だけに向けられている事が途端に恥ずかしくなる。8つも年上のはずなのに、この人は時々ひどく子どもっぽい。
「桐緒さんてさ、いつも瞳を開けるタイミングが遅いよね」
「だって恥ずかしいんだもん」
「普通はキスしたら瞳、覚ますはずなのにね。それじゃ眠り姫みたいだね」
「荘平さんって時々ロマンチストだよね」
「相手が桐緒さんだからだよ」
静かに瞳を細めて笑うその笑顔に、なぜだか微かに胸がちくりと突き刺されるのを私は感じる。どうしようもなく好きで、そのはずなのに、何故か上手く言葉には出来ない僅かな痛みを感じずにはいられない。相反するこのぐらついた感情に相応しい言葉を、私はまだ見つけられそうにないままでいる。
迷いに揺れながら肩越しをそっと覗けば、その先では時計の針がぐるりと音も立てずに回る。
「あ」
私の声に引き寄せられるように、荘平さんはゆっくりと振り返って時計を確認する。
「そっか、もうこんな時間か。そろそろ送るね」
「……うん」
時が止まればいいのに、なんて、うんと月並みでロマンチックな事を、この人と居るようになってからの私は少しだけ考えるようになっていた。誰も知らない、私の変化。当の本人である荘平さんにだって、こんな事は知られたくない。
さりげなく私のカバンを持ちながら、荘平さんは尋ねる。
「そういえば桐緒さんさ、うちに来る時いつも私服だよね。今日だって短縮授業って言ってなかったっけ? 」
「……いいの、私がそうしたいんだから」
「荷物、重くない? それにロッカー代だってバカになんないでしょ? 」
「……」
答えたくなくて、私は無様に口を噤む。
まるで子どもみたいなそんな態度を前に、追及する事を止めて静かに靴ひもを結ぶその姿に、ちくりと胸が痛む。
子どもなのに子ども扱いを嫌がる私。大人だから、子どもの私を許してくれるこの人。悪いのもふさわしくないのも、全部私だから。
「あ、もしかしてさ」
きゅっときつく靴ひもを結び、パンパンと服についたホコリを払うようにしながら、荘平さんは答える。
「明らかにカタギの仕事じゃなさそうな怪しい男が部屋に女子高生連れ込んでるって噂にならないようにって、気遣ってくれてるわけ? 」
「……そんなわけ」
本当は気にしていないわけじゃない。でも、それを言ってしまうのはまるで、目の前に居てくれる人を貶めているみたいですごく嫌だ。それでも傍らのこの人は、まるで全部をわかっているみたいな顔をして笑うから、私の気持ちはぎゅっと掴まれたみたいにくしゃくしゃになる。
「あのね、荘平さん」
少し大きめの上着のポケットからちらりと覗いた手をぎゅっと握り、スニーカーを履いた自分の足元を見ながら私は答える。
「そういうのもその……無いわけじゃ、ないけど。ほら、制服だとやっぱり、高校生に見えちゃうじゃない。荘平さんは大人だし……並ぶとやっぱりそういうの、目立つのかなって思って。変な意味とかそういうのじゃないの。ただね、私がこう……気にするって、いうか」
「桐緒さん」
ぽんぽん、と頭を撫でながら、荘平さんは答える。
「桐緒さんのそういう所、俺は好きだよ」
「せめてもうちょっと背が高くてもっと大人っぽかったらよかったのにね。ごめんね、荘平さん」
うなだれた姿勢のまま、力なくそう呟く私を前に彼は答える。
「そんなの別にいいよ、桐緒さんはこれからもっと背が伸びてうんと大人っぽくなって、俺がびっくりするくらいの美人になるんでしょ? 」
「……」
この人のこういうところにどうしようもなく惹きつけられているのだという事を、当の本人は果たして気づいているのだろうか。
いや、知らないままの方がいいのだけれど。
「外、寒いよ」
「うん、知ってる」
遠慮がちに差し出される手を、躊躇う事なく彼はそっと握り返す。大きくてしなやかな掌にふわりと包まれるおだやかな感触も、そのぬくもりを感じながら見上げる顔も、全てが愛おしさに溢れているのを私は知っている。
私の恋人は私よりも八つ年上で、鍵盤弾きを生業としている。
まだそれほど有名ではないけれど、毎日楽器のある場所へと赴いては音を届ける事に忙しくしているらしい。
これはそんな彼と、まだ何にもなれない私のありふれたひとつの恋のお話だ。
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