眠れないあの子のために
誰にだって等しく、眠れない夜はあるのだから。
「眠れない夜ってさ、なんであんなに不安な事ばっかり考えちゃうんだろうね。もっと楽しい事とかくだらない事でも考えようって思うのに、なんでか普段なら考えないような事ばっかり浮かんできちゃって」
「普段はそれだけ無理してるってことでしょ。で、上手く誤魔化したつもりになってる物がどっと溢れ出してくるっていうか」
「なるほどね……」
溜息ごとそっと飲み込むように湯気を立てるカップにそっと口をつける私を横目に、譜面をめくっていた手をはたと止め、荘平さんは答える。
「そういう時はね、ピンクムーンの事を考えてみるといいよ」
「ピンクムーン?」
聞きなれないその言葉を前にそっと首をかしげる私を見つめたまま、いとおしげに瞳を細めながら、彼は答える。
「うんと昔、オヤジが教えてくれたことなんだけどね」
ひとりぼっちで寂しい夜を過ごしているその時、夜空に浮かぶ月もまた、永劫の孤独の中にいる。
孤独に耐えられないそんな夜には、静けさに身を任せて耳を澄ませてみればいい。もしかしたら、同じようにうんと寂しがりな柔らかなピンクの月が窓辺へと降りてきて、君を呼ぶ声が聞こえるかもしれないから。
君は孤独なんかじゃないよ。夜はいつでもこうして見つめているからね。だから少しだけあたたかなその部屋に入れてくれないかい? 話したいことがたくさんあるんだ。
「子ども相手にそんな話するんだよ、おかしな父親でしょ?」
「そんなこと無いと思うなぁ」
そっと首を横に振りながらそう答える私を目にしながら、荘平さんはまんざらでもない、といった様子で穏やかに微笑む。この人が些かロマンチストなのはどうやら父親譲りらしい。
私はどこか感嘆にも似たそんな思いを噛み締めるが、ひとまず口には出さないでおくことを心に決める。
「どうしたの? 桐緒さん」
怪訝そうにそう尋ねる姿を前に、にこり、と愛想笑いを浮かべながら私は答える。
「素敵なお話だなぁって、そう思って」
「……ありがとう」
照れくさそうに答える笑顔を見ながら、私は会ったこともない荘平さんのお父さんの若き日のその姿をぼんやりと思い描いてみる。
「でもさ、なんでピンクムーンだったんだろうね? 」
「オヤジがニック・ドレイクが好きだったからじゃないかな? 生前、最後に残したアルバムのタイトル曲がPINK MOONだったから」
「へぇー」
感心した様子でそう答える私を前に、彼は続ける。
「でもさ、俺はガキだからそんなの全然知らなくて。しばらくはバーバパパの姿で思い浮かべてばっかりで」
「バーバパパ?」
「あれ、桐緒さん知らない?」
問いかけを前に、私は黙ったままそうっと首を横に振る。
「懐かしいね、図書館の絵本でよく見たよ」
「俺も」
答えながら、荘平さんは穏やかにそっと瞳を細めてみせる。
どんな形にも変幻自在に姿を変え、時には窮地に陥った人達をそっと助けてくれる、家族を誰よりも愛する優しい一家のお父さん。確かに彼なら、孤独な夜を過ごす誰かの窓辺へと降りてくる事も容易いのかもしれない。
「俺さ、バーバパパの家族がみんなで楽器に姿を変えて演奏会に出るエピソードが一番好きだったな」
「荘平さんはその頃からもう、今の道が見えてたんだね」
「どうだろう? よくわからないや」
それでも、穏やかに微笑みながらそう答えるその姿はどこか誇らしげだ。
やわらかな光に包まれた横顔をそっと見上げるようにしながら、私は尋ねる。
「ねえ荘平さん、その曲、いま聞かせてもらう事って出来る?」
「ああ、いいよ」
細くしなやかな指先がそっと、CDラックの中からお目当ての一枚を探しあて、導かれるかのような滑らかな動きで再生ボタンを押す。途端に部屋の中いっぱいにあふれ出すのは、どこか哀愁を帯びたアコースティックギターの音色と、しわがれた、それでいてとびっきりのあたたかさを秘めた歌声だ。
この歌を送り出したその人の、そしてこの曲に乗せた孤独な夜への思いを聞かせてくれた荘平さんのお父さんの、そして今、傍らに居てくれるこの人の。
形も行き着く先もきっとそれぞれにばらばらな孤独の正体を、私は知ることは出来ない。
それでもこんな風に、あたたかなこの音色に身を任せるようにしながら、それぞれの孤独に思いを寄せる事なら出来るのだから。
「……寂しいって気持ちって、ほんとはそう悪く無いものなのかもしれないね」
「俺も、今ならそう思うよ」
微かに滲んだ光のむこう側で、荘平さんはそう言って笑った。
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