第3話台所
「ただいま戻りました」
師匠はまだ寝ているのか返事はない。茶色の薄い紙袋をテーブルの上に置いて中身を取り出して並べた。
昨日の私の予測の通り、昼前には雲がかかって風が強くなったから朝市はいつもよりも早く店をしめる人が多かった。私の予測を頼りにしている人達が食材を安くしてくれたのは有難い。
トウモロコシにクリーム、四角いパンと卵。
サービスしてもらったキャベツと鶏挽肉で今晩はロールキャベツだ。
夕飯の材料を冷蔵庫に仕舞って、一旦自室に戻る。ノートに今日の朝と昼の天候の変化を書き留めて、部屋の隅に置かれた姿見を見ると髪が風に吹かれて崩れていた。
くしで梳かして一つ結びに束ね、白衣を脱いで寝台に放り、エプロンをかける。
キッチンで手を洗ってからパンを包丁で六枚切りに切って、使い古されたトースターへ放り込む。トーストは三分……そう思ってツマミを回したが上手く回らない。
「魔力が切れてる?」
トントン、とトースターを叩いて見るが魔力の粒は飛び出さない。魔力切れだ。
どうしよう。師匠は寝ているし、私は……
「今日はいい天気だし……さっきお肉も食べられたし……」
ペンダントを取り出して紫色の結晶の状態を確認する。揺すってみると結晶の中の液体が揺れて、結晶からフワリと紫色の光が舞う。
まだ余裕がある。
トースターに手をかざして、口ごもるように呪文を唱えた。次第に指先が痺れて冷たくなっていくのが分かる。総量4分の1程度なら、私だって……。意識を集中させて、魔力の流れを制御する。一本の線を魔力が流れていくように……繋がって……。
もう一度トントン、とトースターを叩いてみるとフワリ。紫色の光が舞う。魔力の補充が終わったのだ。
ツマミを回してパンを焼きながら、静かに深く息をした。上手くやれた方だとは思うが、思ったよりも集中の方に力を使い過ぎたかもしれない。クラクラする。
「勝手に魔術を使ったのか?」
「その……トースターの魔力が切れてて、だから……補充くらいなら、私だって」
背後を振り返るといつの間にか師匠が立っていた。自然と身が強ばる。師匠が、不機嫌な顔をしていたからだ。
「メープル=プリーストリー。お前が魔力を使うえばその分お前の体力が削られるのを忘れたか?」
「忘れてません、でも……出来ると思ったから」
魔力のあり方や使い方は人によって千差万別だ。師匠のように殆ど体力を削られること無くほぼ無限の魔力を操れる人も、私のように魔力と体力が繋がっている人もいる。
「こっちへ来なさい」
「……はい」
ふらつく足で、師匠の元へ向かう。胸元へと倒れ込むと彼は私を抱き締めた。彼の魔力が私の中に流れ込んでくるのがわかる。
「無理をすれば、体は壊れる。一度壊れた体は中々治らない……使い潰していい命なんて、この世には無い。教えただろう?」
魔力は濃度差で動く。だから、眠ってしまえば回復する。そしてこうやって魔術師同士が身を近付けることで魔力を相手に譲渡できるのだ。
「ごめんなさい、お師匠」
「……いいよ、もう」
私の命は、魔力は、蝋燭に灯された炎だ。
燃やせば熱を得られるし、便利なものだけれど、その分酸素を薄くするんだ。
また失望、させてしまった。
「ごめんなさい」
「言い方がキツかったな。元はと言えばこれは俺のミスだ……だから、お前は気にしなくていい」
どうして、師匠は私を選んだのだろう。
それは優しくされるたびに頭の中に浮かぶ疑問。魔力が扱いにくくて、ミスも多い。そんな弟子をとって、この人は何を考えているのか。
「見た所、トーストに目玉焼き、コーンスープって感じか?」
師匠が指先をトースターに向けた。勝手に開いてこんがり焼けたトーストが皿の上に乗る。
「はい……あの、街でハイドさんに依頼を受けて」
フライパンの乗ったコンロに火がついて油を注いで卵を割り落としながら話を聞いてくれた。
「対価は」
「献立の相談に乗って貰って、屋台でお肉を奢ってもらいました」
フライパンが器用に動かされて卵の焼ける匂いと油の匂いが広がる。一体どんなイメージをしたらこんな器用に魔術で物を動かせるのだろうか。
「まあ、妥当だな。奥さんのことか?」
「はい」
師匠は暫く何も話さずに目玉焼きを浮かせて皿に乗せた。あ、そのやり方いいなあ。いつも私がやると皿にのせる時にグチャってなっちゃうんだよね。なんて考え事をする。
「……あれは、治らない質のものだ」
師匠が静かな声でそう言った。その目はどこかを見ているようで見ていないような、そういう目をしている。それからガチャン、と音が響いた。魔力で浮かせていたお皿が床に落ちたのだ。潰れた黄身が流れ出る。
「師匠?」
「ああ……すまない……」
師匠が小さく呟いて床に落ちた皿と卵を片付ける。魔力切れ?と一瞬思ったが、そんな筈はないと頭の中でその可能性を消す。師匠は魔力切れを起こさない。なら、どうして魔術が消えたの?そう思って何かを尋ねようとすると、師匠が私を抱き締めた。
「……ごめん、少しだけこのままでいて」
それっきり何も言わず、師匠は私を抱き締めていた。……どうしてだろう、師匠が幼い子供のように見える。彼の頭をそっと撫でてみると、手のひらに柔らかくて艶やかな感触が伝わる。
「先生……」
うわ言のように、師匠がそう呟く。初めて聞くその単語には触れない方が良いだろうと、そう思った。
去夢の観測者 礫瀬杏珠 @rekiseannzu
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