「もったいない」「ピアノ」「トサカ」(2017年05月19日)

矢口晃

第1話

「もったいない」「ピアノ」「トサカ」




 ピアノの音は、続いていた。

 それは人里離れた、過疎の進む海沿いの町であった。

 海に日が沈み、麦の畑に夕暮れの残照もすでに色褪せる時分であった。が、ピアノの音は、続いていた。

 数隻の漁船が帰り、貧しい町の漁港にわずかな収穫物を荷揚げした。もとより、得物はそれだけで十分であった。町に住む人の数は年々減少し、残る人々の年齢も年を追うごとに高くなっていた。食料を多く消費することは、もはやなくなった。漁港には、それに見合うだけの収穫があれば、それで十分なのであった。

 大陸から吹き降ろす北寄りの風が、四季を通じて吹き降ろす寒冷な町である。外灯は風に揺れカタカタといびつな音を立てながら、か弱い薄い光を路面に落としていた。その路上には人の往来はなく、時々猫が、塀を乗り越え反対側の民家の塀へ素早く飛び上がるくらいのものであった。空になった段ボール箱が、どこからか吹かれて来て、乾いた音を立てながら地面を擦って飛ばされて行った。

 船着場には、すでに人の影はなかった。先ほどまで四、五人の漁夫らしい男の影が、夕やみに赤い煙草の火を滲ませながら億劫そうに動いていたのだが、その姿ももはやどこかへ消えてしまった。港には、残された漁船が数隻、風に煽られて右へ左へ激しく揺曳しているばかりである。猫が数匹、荷揚げのおこぼれにあずかろうと、波止場の周りをうろうろしている。檣頭に止まった鴉が数羽、その様子を見降ろしながらがあがあとけたたましく鳴き立てている。

 そんな寂れた漁港の町に、ピアノの音は、続いていた。

 港からは、山脈を仰ぎ見ることができた。地理的に言えば、さながら山肌が海へなだれこむかのような形状を催していた。潮風に研がれたその斜面には、広々と麦の畑が広がっていた。漁師らはかつて、海から上がると畑へ入り、籠を背負い青々とした麦の穂の間を縫うように歩いていた。初夏には一面黄金色に熟した麦の波が、海の風に撫でられて翻る光景が圧巻であった。

 しかし今や、その担い手も数が少なくなっており、かつての一面の麦の畑は、今はところどころ、民家の裏手にこじんまりとその名残をわずかに留めているに過ぎなかった。

 ピアノの音は、その風に乗り、麦の畑を通り抜け、山肌を駆け上り、すでに藍色に暮れなずんだ山上の空へ消えていった。

 町の人は、誰も知らない。そのピアノを奏でているのが、一体誰であるのか。いつからその音色が町に響き始めたのか。そして、どこから聞こえてくるのか。

 それでも、ピアノの音は、続いていた。

 まるで、町の漁師の疲労を、労うかのように。麦の畑を、潤すかのように。波の音と、協奏するかのように。

 町の人々はいつしかそのピアノの音に安らぎを感じ始めていた。いつからか、突然降って湧いたように聞こえ始めたそのピアノの音が、町の人には、すでになくてはならないものに変わっていた。ピアノの音色により一日が始まり、また、一日が終わった。ピアノの音の聞こえないことなど、朝が来ても太陽が昇らないことと同じくらい、町の人々にとっては、不自然なことのように思えていた。

 今ではすっかり寂れてしまったこの漁港の町も、今から百年以上も昔のころには、外国船の玄関口として栄えている時代もあった。港には、毎日肩を並べるように多くの外国船が出入りし、舶来の大きな荷物を次々と港に下ろして行った。港の周りには蔵が立ち、旅館が立ち、商売をする家が街道に軒を連ねた。町は栄え、商業が発展し、大量の金銭が右から左へ流れて行った。

 町にはたくさんの若者が移住し、家族を作った。広大な麦の畑の一隅には、養鶏場が立ち、工場が立ち、学校が作られた。町には外国人が日常的に往来し、町の子供たちは、それを当たり前の光景のように見て育った。キャンディやチョコレートも、すでに町では珍しいものではなくなっていた。

 そんな町を、ある夜、凄まじい台風が襲った。北から南から、地上の大木を根こそぎ持っていくような大風が際限もなく吹き荒れた。雨の礫は大きく固く、皮膚に当たるとあざができるかと思われるほどであった。雷雲は町の真上で激しくうねり、いくつもの雷が鼓膜を破るほどの大音声で近隣に落ちた。海の水かさは平常より一丈ほども上がり、もやわれていた漁船の多くが、黒い波とともに波止場に打ち上げられようとしていた。

 漁師たちは一様に家の中にこもり、何とかこの風雨をやり過ごそうとしていた。窓ガラスが激しく打ち付けられ、破れてそれが散乱しないよう、窓の内側から厚い木の板で全ての窓がふさがれた。

 こんな雷雨の中、まさか漁港に入ってくる船もあるまい。町の人々が、一人たがわずそう信じていた折も折である。漁港の方が、にわかに騒然とし出した。

 多くの人々は、最初は何かの間違いかと思っていた。それよりも、自身の家屋、自身の家族の心配をするのが先であった。しかし騒ぎは、一向に収まる気配を見せない。

 何人かの勇気ある町の若人が、手に手に心もとない照明を持って漁港の様子を見に行った。そしてその光景を見て、思わず絶句した。何の明かりもない真っ暗な海の中を、壁のようにそそり立つ黒い波に打ち上げられながら、何人もの人間が、もがきながら波止場を目指して泳ぎ近づいてくるのである。

「大変だ」

 漁港は一転、大騒動となった。先ほどまで雷雨を恐れて自宅に引きこもっていた老若男女総出での、救出作戦が始まった。と言っても、荒れ狂う波に近づくことは出来ない。人々は、波に押されて何とか漁港に打ち上げられた人々の救助に躍起になった。

 そこには、先ほどまで雨を恐れ、雷におびえていた人々の様子は、微塵も垣間見えなかった。人々の目には、一人でも多くの命を救いたいという使命感が、強い光となって宿っていた。

 打ち上げられた人々は、一様に外国の人であった。日本の言葉は、通じなかった。それによって、町の人々には、黒い海の向こうで一体何が起こっているのか、知る由もなかった。荒れる海の中からは、途方もない数の絶叫が鳴り響いていた。が、町の人々には、それをどうすることもできなかった。漁師にとっても初めてみる荒波に近づく術はなく、ただ一人でも多くの人が岸に打ち上げられるのを待つしかなかった。打ち上げられた人々はすに民家の軒下に運ばれ、惜しげもなく油がたかれ、各戸から布団が提供された。養鶏場の鶏は生きたまま羽根を抜かれ、内臓を掻き出され、燃え盛る油の火によって丸焼きにされた。もったいない、などという感覚は、その時の町の人々には微塵もなかった。鶏の赤いトサカが、赤い火の中に、溶けるように燃えて消えた。

 雷雨が去るまでに、丸々一晩の時間を要した。町の人々は夜が白々と明けるまで、皆一睡もせずに救出の任に当たった。そしてようやく日が昇って見えた光景は、町の人々の想像をはるかに絶するものであった。漁港からわずか二丁ほど先に、大きな外国船が、横倒しに海に浮かんでいるのだった。恐らく漁港がこのような嵐に見舞われているとは知らずに入ってきた船が、漁港まであとわずかな距離で風に吹き倒され、粉みじんにされたのであろう。

 一晩立って、打ち上げられた人の数はわずかに十二人であった。大きな船に乗っていたであろうその他大勢の人の姿は、すでに波にのまれて見る影もなかった。助かった人々は、皆海に向かって叫び続けていた。泣いても、泣いても、それは到底泣き足りるものではないようだった。

 軒下には、丸焦げになったまま誰も手を付けない鶏が、無残な姿でいくつも転がっていた。

 後にわかったことであるが、それは遠くポーランドから日本を訪れた貨物船であった。そしてその船は、ポーランド産の美しいピアノを日本へ送り届けるためのものであったらしい。

 そのピアノは、あとわずかのところで、全て海底に沈んでしまうこととなった。

 町の繁栄は、それから長くは続かなかった。近隣の県にさらに大きな港が作られ、外国からの船は、出入りのしやすいそちらの港に就航するようになった。それから飛行機が飛ぶようになり、この町はますます日本から忘れ去られていった。

 それでも、ピアノの音は、この町に鳴り続いていた。もはやあの事件のことも、数少ない人々の間で語り継がれるだけになった今でも、ピアノの音は、どこからか、風に乗り、波の音に揺られ、絶え間なく町に響き渡っていた。

 優しく、麗しく、透明な、澄んだ音色で――。

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「もったいない」「ピアノ」「トサカ」(2017年05月19日) 矢口晃 @yaguti

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