第31話 序章5の7 水面下

「国内外で起こっている問題が幾重いくえにも連なって今の日本は非常に不安定な状態だ。

 にもかかわらず、当の政府があのざまで全く話にならない。モノの役にも立たない政府など、滅んでしまえばいい。

 貴様の言う通り、昭和維新を起こすか、起こさないかの段階はもう既に過ぎ去っている。

 もはやここに至っては、何時いつ蜂起するかの段階だというのも、確かだ。」


「ならばッ!」


「だが、貴様独りが動いてどうなる?

 よもや昭和維新が貴様の力だけで成せるなどと、思ってはおるまいな。」


「・・・。」


 こと蜂起においては、軍人である安藤の与り知ることだ。

 十分な兵力と資金。

 決起を起こすタイミング。

 そのいずれかが欠けてしまっては、成功を収めることは出来ない。

 そして現状は、そのどれもが揃っていない。

 それは、安藤も重々に理解していることだった。


「仮に、貴様が今独りで事を起こしたとしよう。

 要人の2人や3人の首くらいならば、取れるだろうな。だがそれに何の意味がある?」


「それは・・・、」


「何ら意味を成さない。

 濱口の襲撃は知っているだろう。その後どうなった。

 政府が何か変わったか? 議会が崩壊したか?

 いいや、何の変化も無かった。ただ新しく代わりの人間が1人現れただけだ。」


 最早、口をつぐむしかなかった。


「同じだよ。

 貴様が奮戦して、連中の10や20を取ったところで、結局は代わりを10や20補充されるだけだ。

 何ら無意味の犬死いぬじに

 精々が当人の自己満足を満たすだけの、全く以って下らない玉砕。

 それが今、貴様がやろうとしていることだ。」


 北は、心底呆れたような表情を浮かべる。

 安藤に反論の余地は無かった。

 そして安藤の心に突き刺さったのが、


 ”犬死”。


 この言葉だった。


   ※


『士官として最も重要なことは、最期の突撃の瞬間まで、決して部下の誰一人も、そして己自身も、犬死させぬことだ。

それが、指揮官としての義務と責任だ。

この言葉をしかと胸に刻んで置け。そして立派な指揮官になるんだぞ・・・。』


 力強く、優しい激励だった。

 昔日せきじつの秩父宮から受けた薫陶は、今猶薄れることなく安藤の中に在り続けている。


「・・・では、僕は一体どうすれば、」


 力無く安藤は呟く。


「知らん。」


 北は即答する。


「俺が言えることはただ一つ、今は只ひたすらに耐え忍ぶのみ、それだけだ。」


「・・・。」


 それは、残酷な言葉だった。

 今を見殺しにし、部下や仲間に更なる辛苦を強いる。

 いつか来るその日の為に。


「だが先に言っただろう。悲観することは無いと。」


「どういうことでしょうか?」


「先日に森君らは、陸軍の永田ながた鉄山てつざん東條とうじょう英機ひでき今村いまむらひとしらと懇談を設けたようだ。

 まだその中身は、詳しく彼から聞いてはいないが、まず間違いなく満蒙まんもう問題が主題になっただろうな。

 彼はさとい男だ。そして行動力もある。

 昨今の社会情勢の危うさを、誰よりもよく掴んでいる。

 その上でこれから先、何をするべきなのか、何が必要なのかも彼は理解している。」

 

「であれば、俺達が動くのは彼が動いだ時だ。

 武力行使と、世論や正当性。

 内と外の両方から、政府に攻撃を加え、一撃で全てを刷新さっしんする。

 それらが適って初めて昭和維新が成るのだ。」


「逆に言えば、どれ程の兵力をそろえようが蜂起にが無ければ意味は無い。

 だからこそ俺は貴様に、今は時期尚早だと言ったのだ。」


 遠大な計画だった。

 実に気の遠くなるような。


「その日は、何時いつ訪れるのでしょうか・・・。」


「知らん。だがいずれ必ず来る。

 それが何時になっても良いよう、用意をしなければならんのだ。」


    ※


 言いたいことは、幾らでもあった。

 理屈の上では、北の言い分は何処どこまでも正しい。それは安藤も理解している。

 しかし感情は、そう簡単に納得できるものでは無かったのだ。

 だが、


「わかりました・・・。

 以後、軽率な発言や行動を起こさぬよう努めます。」


 それでも安藤は、抑え込んだ。


(納得はしなくとも良い。だが、一時の感情に流されることだけは、決してしない。)


 それは、指揮官としての矜持きょうじだった。

 同時に、己の部下の誰一人として絶対に無駄死になどさせまいとする、安藤自身の意思だった。

 

 そして彼は決意する。


「昭和維新を断行するには、今現在において時期尚早であります。

 未だその準備が不完全であり、決行の追い風も無い。

 もし仮に今ここで事を起こしたとしても、徒労や犬死で終わる事は火を見るよりも明らかです。」


 それは己に言い聞かせる宣誓せんせいでもあった。


「であれば、君はどう考える?」


「僕は一人の指揮官として、そのような無駄死にや犬死から自らの仲間や部下達を、そして己自信を守り抜く責任と義務があります。

 そして同時に、昭和維新を決起するのであれば、絶対にその維新を成功させなければなりません。」


 昔日むかしの誓いと、現在いまの仲間達。

 その全てを守り抜くという、安藤の誓い。


「同感だな。たった一度の機会を確実にものにせねばならん。

 ならば・・・、」


「僕は、隊の将校や青年兵達が、流言りゅうげん飛語ひご惑乱わくらんされて、短気を起こさないように皆を守ること。

 そして来たる日に備え、皆で日々、修練に励むことが肝要かんようであります。」


 北の言葉を、安藤は先んじて宣言した。

 虚を突かれ、一瞬目を白黒させた後、


「フッ・・・、これは一本取られてしまったな。」


 北は、その口元を僅かに綻ばせた。


「君が真面目で、そして賢い青年で良かった。

 先は済まなかったな。年甲斐も無く、熱くなってしまった。」


「僕もつい感情的な物言いになってしまったことを、申し訳なく思っております。

 ですが北先生のお叱りのお陰で、今己が成すべきことがハッキリと見えるようになりました。

 そのことにつきましては、北先生には感謝の言葉もありません。」


 安藤と北は互いに、頭を下げ合った。

 この時初めて安藤は、北一輝と言う人物と、正面から向き合ったような気がした。


 その後、彼らは互いの体験談や他愛も無い世間話に、花を咲かせた。

 そこには、初めの頃の重圧的で張り詰めた雰囲気は、幾分いくぶんか薄らいでいた。


    ※


「今日は久方振りに有意義で、楽しい時間だった。」


「僕の方こそ、大変勉強になりました。」


 安藤が懐中時計を見ると、もうすぐ6時になろうという頃だった。

 そろそろお暇しようと、安藤が考えた時、


「ああ、そうだ。君にもこのことは話しておこう。」


 と、北は言って呼び止めた。

 その顔からは笑みが消えていた。


「近頃・・・、と言っても気が付いたのは1年くらい前か。

 帝都で妙なことが起きているのは知っているか?」


 北が切り出したのは、そんな言葉だった。


「妙なこと、ですか・・・?」


 真っ先に思い浮かんだのが、11月末から起こっている惨殺事件だった。


「最近起こったあの惨殺事件のことでしょうか。」


「それもある。

 が、その事件もこれまでのことの一端ではないかと俺は考えている。」


 安藤は、話が見えなくなった。


「と言いますと、」


「思えば、統帥権干犯とうすいけんかんぱんが騒がれ始めた頃からなのかもしれないな。

 あれ以降、躍起やっきを起こしたり、強硬な手段に訴えようとする軍人や民間団体が現れ始めたのだが・・・、」


 その言葉に安藤も思い当たる節があった。

 前々から聯隊の青年兵の間でも、過激な論調がなされることを時折耳にすることがあった。

 そんな彼らが、勢いに流されるのを危惧したからこそ、安藤は彼らを守ると言ったのだ。


「その数が、やけに多いことが気になってな。

 そこで、これまで西田にその調査を任せていた・・・のだが、大した成果は得られなかった。」


 終始、安藤と北の語らいを見守っていた西田だったが、その時彼は少しバツの悪そうな表情を浮かべた。


「恥ずかしい限りなのだが、方々に当たってみても、たいした情報が得られずに終わってしまったんだ。

 どうにも曖昧な言葉しか返って来ず、北先生と直接にあった者であっても、反応に変わりは無かった。」


 そして今度は神妙な面持ちになって、西田は言う。


「これが私や北先生の思い過ごしであれば、それに越したことは無い。

 だがどうも看過できない情報が有った。それは・・・、」


宮内省くないしょう神祇局じんぎきょく皇宮こうぐう警察けいざつ

 それも、ひいらぎえのきといった連中が、動き出したらしい。」


 北は、その言葉の後を引き継いだ。


 宮内省。

 その言葉に安藤はハッとする。


「それはつまり、それらはただの事件では無いということでしょうか。」


「だろうな。

 俺達が懸念けねんしていることと、神祇省が動いた理由が同一のものであるか否かは、まだ分からん。

 だが神祇局が動いたということは、それだけの何かが帝都にあるということだ。」


 そこで再び、沈黙が訪れた。

 得体の知れない何かの存在に、3人はそれぞれに思うところがあった。


 ふと、北が時計に目をると、


「ああ、すまなかった。結局随分と長く引き留めてしまったな。

 玄関まで見送ろう。」


 そう言って立ち上がった。

 それに続いて安藤と西田も立ち上がり、一同は玄関へと向かった。


    ※


「北先生、西田さん、本日はお邪魔を致しました。

 それではお二方、良いお年を。」


 安藤は、二人に礼と別れを告げた。

 そして、戸に手を掛けた。


「安藤君。

 君か、或いは君の周りか・・・。

 いずれにせよ用心を欠かさぬようにな。」


「ありがとうございます、北先生。

 ご忠言、深く胸に刻み込んでおきます。」

 

 北の忠告に改めて安藤は礼を告げ、去って行った。

 空は既に暗い。


 雪も未だ止まず、しんしんと降り続いていた。

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