第30話 序章5の6 裏目
安藤はまず、国内農業の現状から説明した。
ここに来る前に、由利本が打ち明けた東北の惨状を余すこと無く語った。
「かの地の疲弊の程は、僕自身も含めた帝都に住む市民が考えている状況よりも遙かに深刻であり、凄惨な事態であります。
本来であれば、直ちに国を挙げて彼らに救いの手を差し伸べるべきであるにも関わらず、今の政府はそのような政策を一切打ち出そうとしない。
そればかりか、多くの政治家が己が私腹を肥やすことに目が眩み、醜い政争に腐心する有り様です。」
安藤は
北と西田は、そんな彼の言葉を静かに聞き入っていた。
「そんな折に、突如起こったのが、満州での武力衝突でした。
いや或いは、起こるべくして起こったのかもしれません。」
※
ここ数年前から、上海、天津、蘇州、重慶などといった
この事態に日本政府が行ったことが、支那の中央政府に対して厳重な抗議をすることと、犯罪を是正するべく働きかけるよう彼らに要求を出すことだった。
要するに、”遺憾の意を示す。”
ただ、それだけであった。
この邦人の危機的な状況に対して、政府は実力で以って邦人居留地の安全を守る、といった対策を打ち出さすことは一切せず、対支不干渉を貫いた。
「関東軍が、政府の戦線不拡大の指示を無視し、あろうことか更なる独断専行を重ね、戦線を拡大する始末。
僕が
『欧州大戦以後、世界に広がりつつある”国際平和の精神”を外交の基調とすること。その上で、欧米諸国や支那との関係において、”国際信義や道義”、”相互信頼”の醸成に努めなければならない。
それこそが、世界の発展に貢献すべき責任を担う大日本帝国の大いなる使命であり、いずれの国家よりも先んじて示さねばならない姿である。』
それが時の政府、そして外務省が採った外交政策の方針だった。そして、
『支那の地において徒らに武力を用いることは、支那だけでなく、租界を有する他の欧米諸国との協調関係に、余計な緊張を生む原因となる。
結果、大局的に見るならば、その行為は大日本帝国の国益を損ねてしまうことになる。
故に、実力で以って外交を成すのではなく、対話で以って互いの信頼関係を築き、外交を成すことこそが、真の国際協調外交と言えるのだ。』
その信念に基付いて、日本は世界のどの国よりも国際法の遵守に努め、平和協調を目指していた。
なんとも素晴らしい信念だった。
正に絵に描いたような理想の、高潔なる近代先進国家の
だがしかし、日本にとって唯一にして最大の不幸が、そのような理想の姿が、通用するような相手ではなかったということだった。
日に日に、その勢いを増す排日活動。
頻発する迫害侮蔑や窃盗、暴行。
そして、頑なに不干渉を貫く本国の政府。
故に、唯一最期の頼みの綱である、租界内に駐留する駐屯兵に、居留地の住民が
だがその犯罪件数も、一月の間に五十件を軽く超える程に多発しており、とても彼らだけでは対応し切れる件数ではなかった。
その為、居留地の日本人はそんな状況に最早、泣き寝入りをするしかなかったのだ。
そして、彼らが絶望と屈辱に打ちひしがれ嘆く中、起こったのが、3カ月前のこの満州事変だった。
※
「最早、国民の心が政府から離れ、軍に依りつつあるという事態。
その結果、恐れ多くも天皇陛下の軍であるはずの関東軍が、手前勝手な行動を起こしまうという異常事態。
更に、その異常行動を国民の多くが異常と思っていないという事実。
そしてそのような事態を招いたそもそもの元凶であり、そして未だ収束できずにいる政府の
1年前のロンドンで行われた日米英の海軍軍縮会議を、安藤は今でもよく覚えていた。
英国へ渡った時の
日本国内においても、時の首相だった
そして
直接に彼らの勇ましい姿を目にせずとも、安藤はそのような者達を同じ日本人として尊敬しており、同時に誇りに思っていた。
だが、その濱口首相も一発の凶弾のもとに打ち伏せてしまった。
その
彼らの
※
「ですが、あの統帥権干犯という
当時の野党は濱口内閣に対抗すべく、その言葉を武器として担ぎ上げ、真っ先に
そして過去に投げたブーメランが、今こうして己に突き刺さっていた。
政治家が、政治に干渉出来る手段と方法を、軍部へむざむざ教えてしまったのだ。
安藤自身は、軍人が政治家の真似事をすることには断固として反対していた。
政治や情勢に興味や関心を持ち、自ら考え、己が意見を持つことは構わない。
だが軍人は、
※
「国の内外問わずに
人心を
陛下の御心に背き、独断専行する軍。
もはや、
その為ならば、命など惜しくもありません。」
安藤がそこまで言い切ると、室内にしばしの沈黙が流れた。
「ふむ、なるほどな。」
暫くの間、考え込んでいた北がようやく顔を上げた。
「クックッ・・・、なるほど、なるほど。
殿下から聞いていた以上に真面目で愚直な青年のようだな。」
北は安藤をからかうように笑った。
「いや、すまなかった。
殿下が君の事を誇らしげに語る姿を思い出してしまってな。」
北はそう言って謝ったが、その口元はまだ笑っていた。
「しかし統帥権干犯とは、これまた随分と懐かしい言葉だ。
とは言え俺も、コレのお陰で随分と動き易くなったんだが。」
”
最初にこの言葉を生み出したのが、他でもない北一輝だった。
「アレは
俺の言い出した言葉が、
当時は
それは
憲法の詳しい理論構成が分からずとも、いかにも重大な不敬罪であるかのように聞こえる。
殺し文句としては、これ以上無く絶大な魔力を持っていた。
「まあ、
まったく、
そしてその魔力に
※
「おいおい、そんな怖い顔で見ないでくれ。」
いとも容易く人心を掌握して操る。
そしてそれを、さも愉快な話であるかのように語った北に対して、安藤は思う所があった。
だがそれ以上に彼のことが、恐ろしかった。
「そうだな・・・、俺の考えも大方は君と同じだ。
とは言え、そこまで悲観している訳でもないがな。」
「と言いますと?」
「政友会には森君が居る。
あの腐り切った帝国議会の中で、唯一俺が期待を寄せる男だ。」
「政治家ですよ。」
「そうだな、彼は政治家だ。
だがそれ以上に、彼は面白い人間だ。」
あの北一輝にここまで言わせる人物とは、一体何者なのか。
安藤は新たな興味が湧くのを感じていた。
だがそれでも、
「政府に任せていては手遅れになってしまいますッ!」
安藤は北ほどに、政府を信じることは出来なかった。
「今まさに、嘆き悲しんでいる人間がいるんです。」
浮かんだのは、今日初めて言葉を交わし、上野駅まで見送りに行った部下だった。
「今日僕は部下の一人から事情を聞きました。
彼の苦悩と、今まさに絶望に打ちひしがれ、死の淵に佇む彼の家族のことを。
そして、彼以外にも東北出身の部下は大勢います。」
だが彼らは何も言わなかった。
その様な素振りを見せることも無かった。
だがしかし、その誰も彼もが、由利本と同じような境遇を抱えているであろうことは、容易に想像できた。
「最早今更、この命など惜しくもありません。
今この瞬間、直ぐにでも維新を断行出来るのであれば本望ですッ!
だからッ・・・!」
だがその瞬間、
「あまり己惚れたことを抜かすなよ若造。」
北の声が全てを断ち切った。
「ッ・・・!?」
思わず安藤は
全身の毛穴という毛穴から、汗が噴き出す様な感覚に襲われた。
北の目が、妖しく激しく燃えている。
明々白々に、彼の
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