第29話 序章5の5 魔王

 しんしんと降る雪の中、待つことおよそ5分ほど。

 ようやくお目当ての電車が到着した。

 安藤は身を震わせながら、いそいそと乗り込む。

 車内の暖かい空気が、かじかんだ手を優しく解していく。

 安藤は車内を見回し、空いた席を探した。

 午後という時間帯もあってか車内は思いの外空いており、難無く空席を見つけるとそこに座った。

 電車に揺られながら、窓の外の風景をぼんやりと眺める。


 そして彼はここ数カ月に起こった出来事を思い出していた。


 9月に満州で起こった関東軍と支那軍との間の武力衝突。

 そして今こうしている瞬間にも、海の向こう側では、両軍の戦闘が行われているのだ。


(果たしてこのままいけば、いずれ近いうちに我々も満州へ派兵されるのではないか。)


 これを切欠きっかけに、聯隊内の空気がにわかにひりつくような緊迫感を帯び始めた。


 同時に問題は、大陸側の事だけでは無い。

 国内でも様々な問題が山積みとなっていた。

 そして最も帝都を震撼させたのが、日本橋区の繁華街の路地裏で男性数名が何者かによってバラバラに惨殺される事件だった。


 11月の末の真夜中に起こったこの事件は、通報を受け駆け付けた警官も現場の余りの凄惨な光景に目を覆いたくなるほどだったらしい。

 しかしそれだけ凄惨で大きな事件だったが、その証拠も目撃情報も一向に上がる気配は無く、早々に捜査は暗礁に乗り上げてしまっていた。

 だがそれを嘲笑うかのように、同様の手口の事件が再び浅草の吉原で起こってしまった。

 そうして遅々として捜査は進まず、手を拱いている警察に、人々は物の怪やあやかしの類の所業だと皮肉交じりに噂し合った。或いは、その足取りも証拠も全く掴ませない不気味なほどに徹底したやり口に、半ば本気で人ならざるモノの仕業ではないか、と考える者もいた。


 これまでのことを思い出すと、安藤は思わずため息を吐いた。

 高々3カ月の間に、こうも日本を揺るがす様な大事件が立て続けに起こったのだ。

 そしてそのどれもが、今猶その尾を引いている。

 それを考えると安藤の気が重くなるのも無理はなかった。

 するとそこで、


『次は新大久保ー、新大久保ー。』


 と、車掌の車内放送が流れた。


 それを聞いた安藤は、慌てて下車の支度をした。

 電車が停まり、安藤は駅に降り立つ。

 気付けば、日は既に傾きつつあった。


 少し足早に駅を出ると、彼は百人町を目指した。

 そこにある一つの邸宅が、安藤の目的地だった。

 いくつかの狭い路地を抜けると、その奥に目当ての邸宅があった。

 そこに備え付けられた呼び鈴を安藤は鳴らす。

 すると、数秒した後に、


『玄関は空いている。入って来い。』


 突如何処からともなく、声が聞こえた。

 驚いた安藤は周囲を見回すが、当然誰もいない。

 するとまた、


『どうした。早く入って来い。』


 という声が聞こえた。

 二度目は流石に驚きはしなかったが、それでも違和感をぬぐうことはできない。

 そして、何となく事情を察した安藤は、


「お邪魔致します。」


 覚悟を決め、玄関を開けて中へと入る。


 その仲はかなり暗かった。

 線路の近くという立地もあり、硝子ガラス戸からは十分な光が入り込んでいなかった。

 そして安藤は立往生する。

 中に入ったは良いが、初めてここを訪れた安藤は次に何処へ行けば良いか分からなかったのだ。

 どうしたものかと思案していると、廊下の奥の暗がりから淡く発光する何かが現れた。

 それが玄関の方へとゆっくりと浮遊し、安藤の近くで止まった。


 それは蝶だった。

 掌ほどの大きさで、絶えず鮮やかに色を変化させながら、ぼんやりと光を放っていた。

 その蝶が、ふわりと翻って背を見せる。


(どうやら着いて来い、ということなのだろう。)


 再びゆっくりと動き出した蝶の後ろを、安藤は付いて行く。

 そして、暗い廊下を七色に淡く照らしながら進んでいた蝶は、あるふすまのに着くとそこで止まった。


(この部屋か。)


 その時安藤は、サッと素早く手を伸ばした。

 その珍しい色の蝶を捕まえてみたい衝動に駆られた。

 しかしまるで読んでいたかのように、ヒラリとその手を躱した蝶は、スッと襖をすり抜けて中へ入ってしまった。

 そして中からは、『クックッ・・・』、と押し殺した様な笑い声が漏れてきた。

 安藤は今更ながら、改めて佇まいを正し、


「失礼します。」


 と言って目の前の襖を開いた。

 その中にいたのは二人の男だった。


    ※


「ようこそ、君が安藤輝三君だな。」


 正面の奥に座る男が、そう言って安藤を見た。

 薄暗い書斎の中で、その男の右目が異様なほどに妖しく光っていた。


「秩父宮殿下から噂は聞いていたよ。

 真面目で、人情味に溢れ、部下、同僚、上官いずれの多くの者からも慕われている素晴らしい青年であると。」


「恐縮です。」


「それに・・・、」


 と言ってその男は手を前にかざした。

 すると、その掌の上に、先ほど安藤をここまで導いた光る蝶を出現させた。


「どうして中々にユーモアのある青年でもあるらしい。」


 そう言うと、その蝶を捕まえるような仕草をした。

 それをみてもう一人の男もクスリと笑った。


「これは何ともお恥ずかしい限りです。

 このような美しい色をした蝶を見るのは初めてでありまして、思わず手が伸びてしまいました。」


 安藤は、ばつが悪そうに頭を掻いた。


「ですが只の蝶では無いようですね。

 その蝶はもしや・・・、」


「ああ、君の考えている通り、これは俺が創造したものだ。要は式神みたいなものだな。

 こういったモノを覚えておくと何かと便利だからな。」


 そう言って彼は、フッとそれを放つと、蝶はヒラヒラと部屋の中を舞っていた。

 そして彼は、ふと気付いたように安藤を見た。


「そう言えば互いの紹介がまだだったな。

 既にある程度、互いを知っているとは言え、こうしてじかに会って話すのは今回が初めてなのだ。

 であるならば、互いに名乗り合うのが筋であろうよ。」


 安藤もその提案に異存は無い。

 彼の言葉に従い、最も年の若い安藤は軽く自己紹介を始めた。


「安藤輝三と申します。

 階級は陸軍中尉で、歩兵第三聯隊第六中隊に所属しております。

 かつては秩父宮殿下の下で、武士の道の何たるかをご教授戴いておりました。」


「私は西田にしだみつぎ

 かつては騎兵第二十七聯隊第二中隊所属。

 そこで少尉の位に就いていたが病により退役し、今は予備役だ。

 同期であった秩父宮殿下とは共に競い、学び合ったよ。」


 そして、最後の一人。


「俺の名は、きた一輝いっき

 お前達二人のように軍人ではないが、若かった頃は支那の革命軍に加わり色々とやっていた。

 税を通じて秩父宮と何度か話したこともある。

 ちまたや知人などからは、革命の妖術師だの、隻眼の魔王だのと胡乱な二つ名で呼ばれているが、所詮しょせん一介いっかいの学者に過ぎん。

 まあ、好きなように呼ぶと良い。」


    ※


 安藤はかつて秩父宮から北一輝という人物について聞かされていた。

 彼曰く、


『生まれてこの方、彼ほど強烈で凄まじい傑物と出会ったことは無い。』


 とのことだった。


 そしてその経歴も、一線を画していた。


 20代半ばの頃に書いた彼の一冊の著書が、その内容から時の政府と警察を戦慄させ、瞬く間に発禁処分とされた。

 そして自身も危険思想分子として監視対象に指定されることとなってしまった。

 監視の目を逃れる為に大陸へ渡った彼は、当時盛んだった清王朝を打倒せんとする革命運動に参加。

 そこでも彼は革命運動の幹部となり、支那各地で暗躍。

 反乱の火種をばら撒き、多くの人間を革命運動へと駆り立てて行った。

 その後、彼の思惑通りに清朝が倒壊すると、再び日本へと帰還。

 日本の国家改造運動を進めるべく、今猶、帝都でも様々な策を巡らせていた。


 そして北一輝は強烈な革命家、思想家であると同時に、強力な魔術師でもあると秩父宮は語っていた。


 尋常中学じんじょうちゅうがくの卒業後に上京した北は、皇典研究所こうてんけんきゅうじょへと入学した。

 そこで彼は凄まじいまでの魔術の才覚を発揮すると、やがてはもう一人の生徒と共に、開校以来の天才児と称されるまでになっていた。

 神祇省、或いは宮内省へ入省する将来を嘱望された彼だったが、実家の商家の経営の悪化が原因で、途中退学せざるを得なかった。


 それから数年後。

 実家の立て直しに成功し、再び上京するも、魔導の道へと戻ることは無かった。

 彼は早稲田大学へと入学し、そこで社会思想へとのめり込んでいった。

 そして在学中に執筆したのが、その禁書だった。


    ※


 安藤は、北一輝と対面し、初めてあの言葉の意味が分かった。

 かつて出会った秩父宮も、安藤に計り知れない影響を与え、彼にとっては強烈な人物であった。

 しかし目の前に座す北一輝という者は、秩父宮とは違った意味で、その上彼よりもはるかに激烈な印象を安藤に与えた。


 彼の放つ雰囲気、気配、存在感・・・。

 そう形容されるモノが明らかに常人とは違っていた。

 安藤はまるで丸腰の状態で、巨大な虎や獅子の前に立たされているかのような心地だった。

 ただ面と向かって座しているだけにも関わらず、その背筋を冷や汗が滑っていく。


「そう身構えられると、こっちもやりにくいな。

 奇しくもこの場にいる者は、皇太子殿下と何らかの関わりを持っている者の集まりだ。

 共通の知人を持つ者同士、もう少し砕けてくれると有り難いな。」


 安藤の緊張を、思考を、まるで全て見透かしているかのような言葉だった。

 

(いや、事実そうなのかもしれない。)


 安藤は彼の右目を見る。

 北の右目が、その中に安藤を収めて以降、全くブレること無く補足して見据え続けているのだ。


「これは失礼致しました。

 しかし殿下の仰った通り、北先生の前では隠し事は出来ませんね。」


 そう言って破顔して、安藤は平静を保とうと努める。


「まあ良いさ。」


 北は苦笑する。

 彼としても、畏怖や警戒心を向けられるのは見慣れた反応となっていた。


「それで、安藤君。

 君の端的な意見を聞かせてもらいたい。

 国内の状況、満州で現に行われている軍事活動、欧州やアメリカを含めた世界の状況。

 君がこれまで見聞きしてきたことを踏まえて、述べてほしい。

 それが今日、俺が君をここへ呼んだ理由の一つでもあるからな。」


 北はそう言って、本題に入った。

 北の言葉を受けて安藤は、姿勢を正す。

 そして一つ大きく深呼吸を入れ、静かに語り出した。

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