第28話 序章5の4 命令

「それでは中尉殿、自分はこれにて失礼いたします。」


 そう言って、立ち上がろうとする彼を、


「まあ、少し待ちたまえ。君に渡したいモノがある。」


 由利本を引き留めた安藤は、おもむろに自分の机の引き出しをまさぐり始めた。


「あの、安藤少尉。

 私に渡したい物とは、一体何なのでありましょうか?」


「なに、大したものでは無いよ。

 伍長殿は今日は僕の話相手をしてくれたからね。その礼だ。」


 そう言って安藤は、何かを探していた。


(いや、集めているのか?)


 由利本にはそう見えた。

 そう大きくはない机の引き出しの中にあるものなど、直ぐに見つかるはずだ。

 だが、こうして今も弄っている。

 安藤は何かをかき集めているように見えた。


「あの、安藤少尉。

 私も大したことはしておりませんので、礼には及びませんよ。

 それに寧ろ、こうして少尉殿の手を煩わせていることの方が、申し訳なく思ってしまいます。」 


「遠慮することも謝る必要もない。

 僕が勝手にやっていることだからね。

 それに、寧ろ謝らなければならないのは、僕の方だよ。」


 机の中を探りながら、安藤は言った。


「先程、俺個人として君をここに招いたといったね。

 すまないが、あれは嘘だ。」


 探し物を終えた安藤は、再び由利本に向き合う。そして、


「由利本五助伍長。この安藤輝三中尉が君に命ずる。

 只今より直ちに帰郷の支度を整え、東京を立つこと。そして伍長の家族と共に年の瀬を過ごすことを命ずる。

 そして、この命令は最重要命令である。

 如何なる事由があろうとも、この命に反することは許されぬものと心得よ。」


 安藤は、彼にそう命令するとともに、彼の手に今し方掻き集めたものを握らせた。

 握った手を開くと、その中には30枚の一円札があった。

 突然渡された大金に、由利本は困惑した顔で安藤を見た。

 今日初めて見せた彼の笑顔以外の表情だった。


「中尉殿・・・、これは一体?」


「命じた通りだ。」


 由利本は震える腕を差し出した。


「ですが中尉殿・・・、やはり自分はこのお金を受け取ることは出来ません。」


「言ったはずだ。それは最重要命令であると。

 由利本伍長がこの命に背くことは許さぬし、いなを唱えることは許さぬ。」


 キッパリと告げた。

 それでも猶、彼は腕を下げようとしなかった。

 安藤はそんな彼の手を優しく取り、そっと彼の軍服のポケットの中へと入れた。

 そして先ほどまでの命令的な口調とは打って変わって、穏やかな口調でこの青年を諭した。


「なあ、由利本伍長よ。

 先の君の話から、君がどれほど家族を大切に思っているかは俺にも痛い程に伝わって来た。

 幾多の困難にも折れること無く懸命に生き続ける家族と、そんな家族の少しでも支えようと自らの俸給の多くを仕送りに回す由利本伍長。

 そんな君だからこそ、家族と共に居られる時間の大切さを誰よりもわかっているはずだ。

 確かに自身の切符を買うくらいであれば、家族を守る為にその分も仕送りにしてしまおうとする君の考えは十分すぎるほどに理解できる。

 だがそれを、故郷に帰らないことの理由にしないでほしい。

 そんなことの為の免罪符にしないでくれ。」


「・・・。」


 由利本は俯き、床を見ていた。

 歪んでしまった自らの顔を、上官に見せまいとするせめてもの抵抗だった。


「俺達兵士が、唯一故郷の家族の元に帰ることが、出来るのは年の瀬だけだ。

 そんな大切な機会を棒に振ってしまうのは見るに堪えない。

 ”後悔していない”、とあのような寂しげな笑顔で言う姿も見るに堪えないのだ。

 君のような真面目で家族思いの優しい人間は、そうそういるものではない。

 だから・・・、そんな立派な人間である君が、家族を悲しませるような姿を見せないでくれ。」


「・・・はい。」


「家族に会えなくても良い、なんて悲しいことを言わないでくれ。」


「・・・はいッ!」


 彼のちっぽけな抵抗も虚しく崩れ去った。

 両の目から溢れた大粒の涙は、一つ、また一つと足下に零れ落ちて行った。


「分かってくれたのであれば良い。

 早速支度に取り掛かってくれ。今からでも十分に間に合うからな。

 それと上野駅まで俺も同行しよう。

 そのほうが俺にとっても色々と安心できる。」


 そう言って安藤は席を立ち、彼自身もまた外出の荷支度を始めた。


「安藤中尉殿。

 誠に・・・、誠に・・・、ありがとうございます!」


 由利本は執務室の扉の前で、深く、深く頭を下げた。

 嗚咽交じりで、舌も上手く回らなかったが、安藤にはハッキリと彼の言葉が聞こえていた。


    ※


 その後二人は急いで準備に取り掛かった。

 特にも由利本の方は元々が帰らぬと決め込んでいた為に、何の支度も出来ていなかった。

 彼は飛ぶようにして兵舎、寄宿舎を走り抜け、自室へと駆け込んだ。

 鞄に己の着替えと、数冊の本など必要最低限のものを詰め込む。

 幸いにも、由利本の私物はそれ程多くなく、旅支度にもあまり時間を要さなかった。

 そして、彼のよれよれの制服の内ポケットには、安藤から渡された軍資金が大切にしまい込んであった。


 安藤もまた、由利本の旅の支度に取り掛かっていた。

 由利本が部屋を飛び出していったそのすぐ後に、彼は駅へ電話を掛けた。

 夜行列車の席を確保するためだった。


 東京から彼の故郷までは、凡そ13時間。

 そこに季節や雪などを考慮すれば、更にもっと時間が掛かるか。


 いずれにせよ、本数の少ない夜行便の席を手に入れることが、絶対の急務だった。

 安藤は何度も何度も駅員に頭を下げ、お願いした。

 そして、


「おいッ!やったぞ由利本。何とか夜行を確保することが出来た。」


 安藤は、由利本の部屋へと駆け込んだ。


「ありがとうございますッ、安藤さん。」


 また咽び泣きそうな顔になりながら、由利本は言った。


「ああ。だが、そう喜んでもいられないぞ。

 取れたのは良いが、その列車の発車時間を考えるとあまり余裕がない。何しろかなり無理を通して捻じ込んでもらったからな。時間までは融通が利かなかった。

 とにかく急ごう。支度の方はどうだ?」


「はいッ。今し方完了した所です。」


 由利本は持ち上げた鞄を、パンッ、と叩いた。

 

「うむ、流石は由利本伍長だ。支度が早い。それとちゃんと金は持ったな?」


「はいッ。私の胸元に仕舞い込んであります。」


「よし、それでは行くぞッ!」


 そして二人は走り出す。

 目指すは上野駅。

 聯隊兵舎を飛び出し、霞町の都電へと駆け込んだ。


    ※


 ボォーッ、と低く唸るような汽笛が上野駅の歩廊ほろうに響き渡る。

 北を目指す乗客達が、次々に汽車に乗り込んでいった。

 そんな忙しなく人々が動く歩廊の一角に安藤と由利本の姿があった。


「そろそろ、出立の時刻だな。由利本伍長、達者でな。」


「今日は何から何まで、本当にありがとうございました。」


 由利本は、再び深く頭を下げて礼を言った。

 そして頭を上げ、安藤に向き直ると、


「ですが中尉殿、なぜ自分の為にここまでして下さったのでしょうか。」


 率直な疑問を投げ掛けた。

 二人がまともに向かい合って話をしたのは、実は今日が初めてだった。

 それにも拘らず、ほぼ初対面と言ってもいい己に、ここまで骨を折ってくれた理由が、由利本にはどうしても思い至らなかった。


「ああ、そのことか。」


 それに対して安藤は、大して気にも止めていない様子だった。


「俺は秩父宮殿下の隊にいたことがあってな。

 その時に殿下から教えを賜ったんだ。

 隊の同胞とは一心同体であると・・・、皆で共に過ごし、楽しさや喜びを皆で分かち合い、困難には皆で立ち向かい解決する。それこそが真の軍人であり、軍隊であると。

 そして、先ほどまで伍長が惑い、苦悩していた。

 故に殿下の教えと、俺自身の正義に従って伍長の悩みに共に立ち向かおうとしたまでだ。」


 まるでそれが当たり前であるかのように、事も無さげに安藤は言った。


「まあ、俺の力不足で君の悩みの根本的な解決までには至らなかったわけだが。」


 と、冗談めかして付け加えた。

 そんな彼の言葉に、由利本は思わず目頭が熱くなるのを感じた。

 グッと天を仰ぎ堪える。

 しんしんと降る雪が、そんな彼を冷ましてくれているような気がした。

 多少落ち着いた彼は、目の前の恩人に向き直り、


「自分は、第三聯隊に配属されたことが・・・。

 安藤中尉殿と同じ部隊に居られることが、これほどまでに光栄に思えたことはありません。」


 それは彼の偽らざる本音だった。


「そんなに大袈裟に言うもんじゃない。

 ほら、もう列車が出てしまうぞ。さっさと乗れ。

 土産には、君の実家での思い出話を持ってこい。」


「はい。是非喜んで、お聞かせいたします。

 それでは中尉殿、良いお年を。」


「ああ、伍長も良い年越しを過ごせよ。」


 二人は、暫しの別れを告げた。

 由利本が列車に乗り込むと同時に扉が閉まった。

 先頭の蒸気機関車がより一層力強く煙を滾らせると、列車はゆっくりと動き出した。

 そして、徐々にその速度を増していく。

 由利本は、車両の窓を開き、身を乗り出して精一杯に手を振っていた。

 安藤もそれに負けぬよう大きく手を振った。

 互いの姿は瞬く間に小さくなっていき、終には見えなくなった。

 列車の吐き出した蒸気だけが、未だに漂っていた。


「さて、俺もそろそろ行かなければな。」


 そう言うと安藤は、歩き出した。

 跨線橋こせんきょうを渡り、目的の歩廊へ降り立つ。

 そこは山ノ手線内回りの歩廊だった。

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