第32話 序章5の8 泥濘

「いらっしゃい。

 ああ、安藤さんか。奥の席に座ってくれ。」


 暖簾のれんを潜った安藤を迎えたのは、もはや聞き慣れた声だった。

 中へ入り、案内された奥のカウンター席へと向かった。

 店内には、安藤以外の客は一人しかいなかった。


「相変わらずの閑古鳥かんこどりだな。

 本当に食っていけてるのか。」


 安藤は、そんな軽口を叩いた。


「余計なお世話だ、安藤さん。

 こちとら半ば趣味でこの店やってるようなもんだから、売上なんぞ二の次なんだよ。」


 店主も負けず劣らずの、そんな軽口で応じた。


「大将の口の悪さも相変わらずだな。振られたりでもしたか。」


「ああ何だ安藤さん。今夜は冷やかしに来たのかい。

 ケンカなら喜んで買うぜ。」


 売り言葉に買い言葉。

 そうして二人は無言でにらみ合う。これもまた毎度のことだった。

 そして、数秒のにらみ合いの後、


「フッ・・・。」


 どちらからともなく彼らは表情を崩して笑った。


「はあ、めだめ。

 それで安藤さん、今夜の注文は何だい?」


かんを一合と、おでんの盛り合わせ、それと今日のお勧めを頼む。」


「了解、そんじゃ気長に待っててくれ。」


 そう言って、店主は支度に取り掛かった。

 しばらくして徳利とっくり猪口ちょこ、通しが一品出された。

 安藤は一足先に、ちびりちびりと酒を堪能たんのうしながら、店主の仕事をぼんやりと眺めていた。


    ※


 安藤が初めてこの店を訪れたのは、およそ1年程前だった。

 当時・・・、だけでなく今に至るまで、安藤のいる第三聯隊だいさんれんたいの先輩や、同輩の青年将校達の多くが、週末になると赤坂の料亭街へ足繁あししげく通っていた。

 彼らはそこで毎週のように盛大に宴会やら、酒盛りを行い、湯水の如くに散財していた。

 中にはそれが原因で、破産寸前にまでおちいる将校もいるくらいだった。


 しかし安藤はそういった浪費を好まず、彼らの料亭への誘いは、そのほとんどを断っていた。

 そして、資金の大部分を己が将来、或いは所属する第六中隊の為を考えて、貯蓄に回していた。

 そうして無私無欲に努め、中隊の為を思い己を律していた安藤だったがそれでも時折、こうして聯隊を離れ、一人の人間として過ごしたいと思うこともあった。


 そんな時は、電車に乗って、ふらりと近場の見知らぬ地へおもむくのが、彼の密かな楽しみだった。


 ある時、安藤はいつものように気の向くままに市ヶ谷の駅に降り立った。

 四月も半ばで、桜が盛りを迎えた外濠そとぼり沿いの道を歩いた際に、路地裏にひっそりと隠れるようにあったのが、この小さな居酒屋だった。


 居酒屋”桜”。

 これがこの店の名前だった。

 安藤は心の内側をくすぐられるような好奇心に駆られ、中へ入って行った。

 少年の頃の、大人達の知らぬ自分達だけの秘密の隠れ家へと潜り込んでいく。そんな童心に帰ったような懐かしくも胸の躍る気持ちだった。

 扉をくぐった先に見えたのは、狭く質素な雰囲気の店内と、一人の随分と若そうな店主だった。

 安藤と同年代か、それより幾分か下と思われる青年だった。


「いらっしゃい、よくここを見つけられましたね。

 どうぞこちらの席へ。

 さぁさ兄さん、早く座ってくんないと、他のお客さんの邪魔になりますぜ。」


 初めて彼と出会った時も、


(お世辞にも口の良いとは言えないな。)


 というのが安藤の印象だった。

 そしてそんな彼の言葉に反し、店内はガラガラだった。当時から客入りは、今と大して変わらぬ有り様だった。

 だがしかし、安藤はこの店の料理のとりことなってしまったのだった。

 

 それは決して飛び抜ける様な、鮮烈な印象を与え、食べた者を魅了する味では無かった。

 しかしそれでもその味は、平凡でありながら奥深く、心へと浸み渡るような丁寧で繊細な味わいだった。

 食べる者の心を優しく包み込むような、そんな魅力があった。


 それにも関わらず、料金はかなり安かった。

 そしてこの店が、聯隊兵舎からも程よく離れた所にあったことも安藤にとって嬉しいことだった。

 ここでは一時の間、あらゆるかせから解き放たれ、己が軍人であることを忘れ、一人の人間でいることが出来たのだ。


 それ以来、安藤はしばしばこの店に通うようになってしまい、今では立派な常連の一人となっていた。


    ※


「ほら、おまちどうさま。

 おでんと、今日のお勧めのさばの味噌煮だ。」


 そう言って、品物が並べられた。

 器から上がる、温かな湯気と美味しそうな香りに、自然と頬が緩みそうになる。

 初めは、味の浸みた大根に噛り付く。

 口の中で、にじみ出た出汁と大根の甘味、苦味が交じり合う。

 次に鯖を食べるべく、大きな身に箸を入れる。

 そこで安藤は気付いた。

 鯖の身が骨ごと簡単に箸で切れたのだ。

 一体どれだけの時間煮込めばこうなるのか、安藤は想像も出来なかった。


(流石に今日の一押しだけはあるな。)


 切り取った身を骨ごと頬張ると味噌と、生臭く無く、それでいてしっかりとした鯖の風味が口の中に広がった。

 そして猪口ちょこに酌んだ酒を、クイッとあおいだ。


「ふう・・・。」


 安藤が一息を付くと、店主がニヤニヤと悪戯いたずらっぽい顔を浮かべてこっちを見ていた。


「どうだ、美味いだろ。」


「そうだな。

 そのニヤけ面がなければ、もっと美味かっただろうな。」


「おおっと、そりゃ失礼。」


 と言いながらも猶、店主の得意げな顔は崩れない。

 対称的に渋面じゅうめんを浮かべる安藤だったが、憎らしいことにその箸は止まらなかった。

 そこに、


「大将、勘定。」


 と、唯一居たもう一人の客から声が上がった。


「おうッ。しばしお待ちを。」


 と言って、店主はその人の下へ向かった。

 そしてその客は支払いを済ませ、


「ご馳走様でした、大将。」


 と言うと、去って行った。


 後には安藤と店主だけが残される。


    ※


「安藤さん。今日はまた随分と大変だったみたいだな。」


 再び安藤の前に戻って来た店主は、唐突にそんなことを言った。


「藪から棒に。どうしてそう思う?」


「何となく、かな。」


「・・・、大した慧眼けいがんだな。」


「だろッ!よくお客さんから言われんだ。

 まあ、俺も伊達に客相手の商売やってる訳じゃねえからな。」


「・・・そうかい。」


(どうやらこの店主には、皮肉も通じないらしい。)


 安藤は一段と疲れた表情を貼り付け、胡乱な目つきで彼を見た。


「そうだな・・・、敢えて理由を付けるなら顔かな。」


 店主はそんな安藤の視線に気付いたのか、ほんの少しだけ真面目そうな顔を作った。


「安藤さんとは、それなりの付き合いになるな。

 だから顔を見れば、それこそ”何となく”、ある程度は分かる。

 そして酒が入れば、なお分かりやすい。」


「・・・。」


(そんなに分かり易いものなのか?)


 安藤は頬に手を当てて、なぞってみたが、やはり自分ではよく分からない。


「それとあとは、そこに並んでる徳利とっくりの数で分かる。」


 気付くと、そこに数本の空いた徳利が並んでいた。

 いつの間にか、結構飲んでいたらしい。


「どうかな?

 かなり良い線行ってると思うんだが。」


 店主の方へ顔を向けると、また元の嫌らしい笑い顔に戻っていた。

 思わず何か言い返してやろうかと思ったが、すぐにその気も失せてしまった。


「やれやれ・・・。」


 安藤は大きく溜息ためいきき、


「降参だ、降参。

 大将のお察しの通り、今日はいろいろなことが有り過ぎたよ。」


 観念したように首をすくめた。

 それから、今日のことを掻い摘んで店主に語って聞かせた。


 部下から打ち明けられた、彼の苦悩。

 そのすぐ後に、彼と共に上野駅まで大急ぎで直行した事。

 北一輝の邸宅へ行ったことと、そこでのやり取り。

 そして、帝都にうごめきつつある何か。

 流石に北との会合や維新について詳しく説明するわけにもいかず、そこについては上手くにぼかしたが・・・。


 その間、珍しく店主は茶化すことなく聞いていた。


「とまあ、今日は色んなことがあり過ぎて気が滅入りっぱなしだ。」


 安藤は猪口を大きく傾ける。


「だから、こうやって一人で酒を飲んでると時々思うんだ。

 昔のように只の一兵卒として、ひたすら無心で駆け回ることが出来たらどれだけ楽だったろうな、てよ。」


「おいおい、湿っぽい話は止してくれよ安藤さん。

 そんだけ思いつめるぐらいだったら、いっそのこと何もかもほっぽり出しちまえばいいじゃねえか。」


 店主は、呆れたように肩を竦めた。 


「ソレが出来るなら、今こうして大将の前でウダウダとくだを巻いてないな。

 そんなことが許される状況でも立場でもない。それに・・・、」


 と言って安藤が酒を酌み直し、大きく煽った。


「それに、部下達のこともある。

 あいつらを見捨てて、一人だけ逃げ出そうなんて許されるはずがない。」


「何でそう思う。別に血の繋がった家族って訳でもあるまいに。」


「だが身内であることに変わりは無い。

 今まで俺のエゴであいつ等を引きずり回してきたし、そしてこれから先も俺は、あいつ等を引きずり回さなければならない。それが俺の部下に対する義務であり、義理でもある。」


「その結果、そいつらのせいで共倒れになるとしても、か。」


「それでも、だ。

 それが俺に待ち受ける報いだというのならば、それは俺が招いた因果なのだろう。

 だったら、甘んじて受け入れるまでだ。」


 安藤は、一切目を逸らすことなく店主を見据えていた。

 大分深く酒が入ってはいたが、安藤の眼に宿る熱は、全く揺らがない。


 店主は、煙管キセルを取り出すと煙草を詰めて火を付けた。

 煙管をくわえると静かに深く吸い込み、そしてゆっくりと大きく煙を吐き出した。


 紫煙しえんが漂い揺らめく中、店主は次第に顔を伏せてうつむき、肩を震わせていた。

 その次の瞬間、


「クックック・・・、アーッハッハッハッハッ・・・!!」


 彼は弾かれたように顔を上げて、声高らかに哄笑こうしょうした。

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