8.飼い主 四季野牡丹

1

「おはよう!」


 朝、そう言ってスライド式のドアを開けて病室に入ってきた花咲薫。


 Yシャツに白衣をまとった姿で薫は、ベッドの上でうつむいている牡丹に歩み寄る。


 牡丹は泣いて赤くなった目でチラリと薫を見た。泣き疲れているのか、何かの感情を表情でつくろうことはしない。


 現実を知ってショックだったに違いない。薫は心をしめつけられた。しかし、いつかこの時が来ると覚悟はしていた。


「牡丹さん。朝ごはんは一口も食べれなかったみたいだね」


 牡丹は胸の前で抱いていた布団に顔をうずめた。また彼女は泣き出してしまうのだろうか。けれど、もう泣き続けても無意味だ。現実を知って現実逃避をしては、ここに来る以前と同じ場所、振り出しに戻るだけだ。


 そして、これを繰り返せば階層が一段ずつ増えていく自分の迷宮に、何度も足を踏み入れることになる。さらに抜け出すことが難しくなる。


 ベッド脇の台の上にいつも置いてあるティッシュ箱。薫はその隣にある標本ケースを手に取った。いつもならガラス板がはめ込まれているが、今日はない。


「牡丹さんが最初の子をここに入れたとき、牡丹さんはこの子に何と言っていたか覚えていますか?」


 牡丹は、薫が持っていた標本ケースを一瞬だけみてすぐに目をそらした。


「思い出したくありません。それを私に見せないで下さい。先生」


 薫は肩で一つ息を吐いた。


「俺はその言葉を聞いて、牡丹さんはなんて優しい心を持っているんだろうと感じたよ。本当さ」


 薫はゆっくりと話すと、牡丹は両手を耳に当ててしまった。


「思い出させないで下さい。今すぐにでも忘れたいんです」


「忘れてはダメだよ。今まで自分で気づくことができなかった自分なんだから」


 薫がそういうと、牡丹はしっかり聞いていたようで左右に首を振った。


「ここに揚羽黄柚子を最初に入れた時、牡丹さんは『抜け殻になった体は私のそばで見守る。私の使命なんです、きっと。誰に言われた訳ではないけど、そんな気がしている』と言ったんだ。この標本ケースの中に入れた揚羽黄柚子に」


 薫はケースの中を指差した。虫ピンで止められたティッシュペーパーを。それはただのティッシュペーパーを丸めて蝶の羽のように広げたものだった。


「今朝目が覚めて、手の中にいたのは夢の中で捕らえたはずの女の子ではなかった。蝶の羽も生えていないただのティッシュペーパー。標本ケースの中にいた女の子たちも皆、紙だった。驚かない方がおかしい」


 牡丹は起き抜けに突きつけられた現実にショックで標本ケースを壁に投げつけた。ケースは壊れなかったが、ガラス板は砕け散った。すぐに看護師が駆けつけ、取り乱した牡丹を落ち着かせる光景が薫の頭の中に浮かんだ。


「なぜ、今日になって紙に見えるようになってしまったのか。君自身、ずっと蝶の女の子たちを見ていたかったはずなのに、見えなくなってしまった」


 薫は牡丹に話しかけず、自問自答するように口にした。


「そんなことわかりません」


 牡丹はぽろっと口に出した。


「これは牡丹さんの心の中からのメッセージと捉えることもできる。そんな気がしないかな?」


「現実を知れと?」


「俺はそうは思わない。牡丹さんの世界で何か次へ進むことが起こったと思う」


「次へ進むこと?」


 牡丹は今日見た世界を頭の中で思い出す。思い当たる所がないのか牡丹は首を左右に振って、ため息をついた。


「病室で、高校生の俺と看護師の牡丹さんの会話や行動。もしくは、薫少年の夢の話にヒントがあると思う」


 薫がそういうと、牡丹は唇をきゅっとしめてもう一度頭の中で思い返そうとする。


「今、思い出さなくてもいいよ。ゆっくりでいいからね」


「あ、はい……」


 牡丹は、パッと顔の緊張を緩めた。


「今まで牡丹さんの物語を聞いていると、やっぱり人の面倒を見てあげたい人なんだなって感じたよ」


「どの辺りがですか?」


「それを顕著に表しているのが、牡丹さんが看護師として登場していることだね。患者さんと親身になって面倒をみるだろ」


「はい。確かに」


 牡丹は自分の看護師姿を思い浮かべた。薫少年の様子を伺う牡丹。


「面白いと思ったのは、薫少年だ。姿、形は俺なんだろうけど、中身は牡丹さんそのものだ。蝶の女の子をとらえてケースに入れるところは完全に今の牡丹さんと合致するするし」


「ですね。私もなんとなく自分なのかなって思ってました。今思うと笑っちゃいますよね」


「面倒見のいい牡丹さんは、自分で自分の面倒を見てしまおうと考えたのかもしれない。病院にくる前までは、一人で全てを抱え込んでいたでしょ。体力、精神ともに限界を超えてしまい、倒れてしまったわけだけど」


「それが私の見た世界に投影されていたんですね」


「牡丹さんの心を見てくると、そう。自分で自分の面倒も見てしまえという一方で、牡丹さんは助け、救いを求めてもいるんだ」


「えっ、私が助けを求めている?」


 牡丹は驚いて復唱した。夢の中で自分が助けを求めることなどしただろうかと、一瞬頭の中を巡らせた。


「たぶん、自分では気づくことはできない深い心の中にそれはあると思う」


 薫がそう言うと、牡丹はふと下を向く。


 自分の心の海に飛び込んでみた。海面は透き通っていて見渡すことはできるが、すぐ下は真っ暗でどこが底で、どのくらい深いのかもわからない。思い切って潜っても思うように体は沈まない。牡丹は息苦しくなって海中から顔を出した。


「具体的に夢の中のことでいえば、蝶の女の子たちの面倒を見切れなくなってしまたんだ。結果的には、牡丹さんを目覚めさせたんだと思う。臨海を突破したことで、ようやく牡丹さんは助け・救いを求めるようになった」


「私はそういう風に思ったことないと思います」


 牡丹が言うと、薫は笑顔で頷いた。


「うん。俺もそうだと思う。では、牡丹さんの物語に話を移してみよう。深い心の中というのは、薫少年のいわゆる夢の中のこと。いつも蝶の女の子が出てくる世界だ」


「でも、そこには私は登場していませんよ」


「うん。さっき言ったけど、薫少年は今の牡丹さんの写し鏡。薫少年の見る夢も牡丹さんの世界なんだ。簡単に言うと、建物の一階が今の牡丹さんで、地下二階が看護師の牡丹さんと薫少年がいる病室。地下三階が薫少年の見る夢の世界。たとえ、牡丹さん自身が登場人物として登場していなくても、すべては牡丹さんの心を内包している」


「具体的にどういうことですか?」


 牡丹は首をかしげる。薫はピン止めされていない一枚のティッシュペーパーを標本ケースから取り出した。それは今日、牡丹が起きた時に手に握っていたもの。


「これだよ」


 薫はティッシュを牡丹に見せた。牡丹は一瞬目をそむけたが、あらためてそれに視線を向ける。


「ティッシュ……。それとも蝶の羽が生えた女の子?」


 牡丹は半信半疑で答えた。


「そう、蝶の羽が生えた女の子。もう一人の牡丹さんだ」


「もう一人の私……」


 牡丹はまじまじと薫の持つティッシュを見る。そのティッシュは寝間着姿の自分へと変化し、白い蝶の羽が花を咲かせるように開いた。薫の持つティッシュが牡丹の目にそう映った。


「物語の中で、蝶の女の子たちは薫少年と接触することで大きくも小さくも助けられたと思うんだ。どのお話も薫少年が出てくる。これって、蝶の女の子である牡丹さんが薫少年という助けを求めていたという風にとれる」


「先生を?」


「んー、俺ではないと思うな。夢の中だから薫少年は、やはり牡丹さんだ」


「そうですか? どのお話も薫少年は女の子を導くような流れでした。昔の自分みたいでしたけど、薫少年と私は全然性格も違います」


「夢の中の薫少年は、今の牡丹さんの憧れ、理想像ではないだろうか。確証できないけどね」


「んー、そう言われるとそう思えるような気もします。薫少年のような人。でも違う気もします。誰もいない暗闇を照らす光だったかも……」


 牡丹は真っ白の天井をボーッと見ていた。


 白い蝶の羽を生やした寝間着姿の牡丹に、揚羽黄柚子、赤星稲穂、志染紅子、屋久島るみ、褄黒白絵、楯葉蒼が重なり、一点に向かって手を伸ばしている。その先には薫少年が「さぁ、皆おいで」というように、彼女らに手を差し伸べている。薫少年の手を握るとぐっと引き寄せられ、その瞬間、蝶の羽は風に流される光の粒子となって消えていった。

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