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「どうして蝶の羽が生えていたんですか? それにも何か意味がありますか?」


 牡丹が聞くと、薫は少し困った顔をした。


「人は心の中にもう一人の自分がいる。それはとてもデリケートなものだ。そう、さなぎのようにずっと静かにしている。成長しないんだ。アクシデントがなければ一生蛹のまま。


 でも蛹にはスイッチが仕掛けてある。そのスイッチというのが、蛹を羽化させるスイッチなんだ。それを押すと、牡丹さんの物語に出てきた蝶の羽の女の子が生まれるんだ」


「スイッチを押してしまうと、私みたいになるんですね」


 と、牡丹は落胆してしまった。


「一概には言い切れないけれどね。心に火薬が積もりたまっていて、ある時スイッチが入って火薬に点火。そして、心が爆発する。そういったアクシデントがなければ、蝶にはならないし、心が爆発することもない。


 でも、人である以上はアクシデントと背中合わせでいる。上手く回避できる人もいれば、そうでない人も、もちろんいる。耐えきれず自らスイッチを押してしまう人。他人に押されてしまう人。はたまた時限式の人。逃れられないこともある」


「それ、なんとなくわかります。経験しているからかもしれません」


 牡丹は、薫の持つ標本ケースに自ら手を伸ばし、薫から受け取る。ガラス板はなく、直に自分の作ったティッシュコレクションを見つめた。


「私、子供の頃は何かできずに困っている子がいたら助けていました。一緒に手伝ってあげる感じで。先頭にたってどこかを目指すというより、皆と一緒に完成や成功を目指すことが好きでした。でも成長して行くに連れて、自分という壁にぶつかってしまうんです。


 進路や将来やりたいこと、仕事、人生をどうやって歩んで行くのか。何も思いつくことはなく、私はつくづく自分がないなって思ってました。高校まで周囲に上手く溶け込めていたんですが、大学生になるとそうもいきません。集団行動はしても、行きつくところは個人。自分でした。私には何もないのに、誰かと居ようものなら、個人を演じるようになってました。


 他人を気にしながら、何者かの個人をアピールする。最後は強迫観念にかられて動いてました。それもすぐに体は限界を超えてしまいました。個人を演じなくてもいい世界がどこかにないか、ずっと考えを巡らせていた時、私は先生の言っていたスイッチを押したんだと思います」


 牡丹は少し間を空けた。


「……」


 薫は何も言わず、相槌を打つだけだった。


「誰しも誰にも言えない、理解されないものがある。でも皆、上手くそれと付き合えたり、解き放つことができたり、何かの流れに乗れたりしている。それを私はできなかった。自分という箱の中で私が腐っちゃった。わかっていたつもりだったのに……」


 牡丹は肩の力を抜いた。全てを言い切ったように。


「牡丹さん。自分を責めない。牡丹さんの箱には、こんなに素敵な自分がいるじゃない」


 薫は牡丹が抱えている標本ケースを指差した。


「素敵な自分?」


「そう。スイッチを押して爆発して、蝶の羽が生えても、物語のように薫少年という導きの光が必ずある。牡丹さんはどの羽を生やしても大丈夫だってこと。スイッチを押した牡丹さんだからこそ、彼女を生み出し、そして解き放つことができる。解き放ち方はひとそれぞれ違っていていい。むしろ、違っていないとおかしい。牡丹さんは牡丹さんでしかないんだから」


 薫は少し興奮気味だった。


「よくわかりません。夜中にティッシュを丸めて蝶のように形作って、さらに夢まで作り上げてるなんて……」


 左右に首を振り、牡丹はケースの中を見つめるだけだった。


「牡丹さんの新しい一面だよ。素敵な世界じゃないか。今まで色んな人と関わってできた世界を無下にする必要はない。大事しておきなさい」


「……」


「そこで一つ。私から課題だ」


「課題?」


「うん。この素敵な分身たちを牡丹さん自身の力でもう少し広い場所に移してみなさい」


「……」


 もう一度牡丹はケースを見つめた。


「これには模範回答はない。牡丹さんが自分で作り出す。それが答え。とりあえず、このケースよりは大きくないとダメだよ」


「……」


 牡丹は嫌がる素振りは見せず、しかし頷くこともせず、ただケースの中のティッシュペーパーを見つめていた。具体的に頭の中でイメージを膨らませているのか、それとも課題をやるかやらないかを考えているのだろうか。


 薫には今、牡丹が何を考えているのかわからなかった。


 蝶の女の子たちを通して少しでも自分という壁と向き合って欲しい。結果がどうなるかなんてまだわからない。ただ逃避世界に戻ってはダメだ。牡丹さんの世界は決して逃避世界ではない。これから作り出して行く現実世界……となればいい。


 と、薫は思っていた。

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