6.五匹目 褄黒白絵

Aパート

「おはよう!」


 朝、そう言ってスライド式のドアを開けて薫の病室に入って来た牡丹。


 病室のカーテンは開いていた。薫は窓の外、今日も雨の降るどんよりとした空を見上げている。牡丹の挨拶に薫の返事はない。


 私の声は聞こえているはずだけど、たぶん返事をする気分ではないのだろうと、牡丹は薫の後ろ姿を見て思った。


「朝ごはんだよ、薫君」


 牡丹は朝食を乗せたトレーをテーブルに置いた。やはり、薫の反応はない。牡丹は薫の隣に立って表情をうかがった。


「何、見てるの? 面白いものあった?」


 薫は無表情だった。視線は雨を降らす雲に向いているようだが、視点が合っていないような気もする。当然のことながら、薫が何を考えているのかわからない。


 日に日に薫君の感情がわかり始めたのに、こうも静かになると逆に怖いなと、薫との距離感を感じていた。


 牡丹は少しの間、薫の隣で一緒に窓の外を見ることにした。


 灰色の雲が広がる下には、林が広がっているだけだ。晴れていれば、鳥が飛んでいる姿もちらほら見ることもできるが、今日は全く見れないだろう。


 薫の心は灰色に染まってしまったのか。自分もその色には染まりたくないと牡丹は、少しでも明るくしていようとした。いつの間にか鼻歌を歌っていた。


「牡丹さんは、月を見てロマンを感じたりしますか?」


 唐突に薫が質問を投げかけて来た。


「んー、正直、ロマンは感じないかな。きれいだなって思ったり、やっぱりウサギに見えるって思うことはあるよ」


「他には?」


 薫がさらに聞く。


 あまりそこまで月を意識したことはなかったし、薫君は私にどんな答えを求めているのだろうか。持ち合わせている知識は小中学校で習う程度のこと。それもずいぶん抜けているような気もする。


「そうだな。私だけかもしれないけど、月の満ち欠けを見て自分の体調を考えたりする時はあるよ。って、薫君にはまだわからないかな」


「……」


 薫の反応はない。私の言葉の意味がわからないんじゃない。期待していた答えではなかったからだ。


「昔も今も、人は月や宇宙に未来を求めていたんですよね? でも俺はそう思えない。単に政府が戦争の矛先を未来という言葉を使ってすり替えたようにしか見えません」


 牡丹は薫の言っていることがあまり理解できなかった。


 ここへやってくる前に授業か何かで学んだことなのだろうか。


「つまり月や宇宙へ行くことも戦争なんだってこと?」


 牡丹は戦争という言葉にピンと来ない。


「はい。見方の問題と言われればそれまでですが、地球を離れる距離に比例してその技術は高まり、その進歩はあらゆる物を生むんです」


「まぁ、確かに。でもそれで私たちの生活は豊かになる訳でしょ」


「おそらく大半の人の生活はそうなると思います。現に自分がこういう所にいられるのも多かれ少なかれ、その豊かさの中にいるからだと思います。しかし……」


「しかし?」


「見えないモノまで見ようとして、そればかり気にしてると俺みたいになってしまう……かもしれません。だから、ここにいるんだと思います」


「……そうだね」


 牡丹は笑顔で頷いた。


「時間が進めば進むほど、見えるモノは増えていく。遠く離れた星や宇宙。ましてや人の心もです。そこに何があるって言うんでしょうか。希望なんて言葉にすがりたくない。欲望だけで満たされた未来なんて見えない方がいい。でも考えたくもないのに、それを考えてしまうんです。この子たちをどうしたらいいのか。俺はどうしたらいいのだろうか」


 薫は手を広げると、蝶の羽を生やした女の子がいた。その子は、幾何学模様の描かれた白いワンピースを着ていた。まるでアイドルのようにも見える。


 アゲハチョウと同じ形をした背の羽は、白色。下の左右の羽だけ複雑な模様―木々を下から見上げて葉と葉が重なり合ってはいるが、所々の隙間から空が見える―だった。表側も同じ模様なのだろうかと牡丹は気になったが、女の子は仰向けの状態で羽を広げていたのでわかない。


「この子たちは、心に張られた蜘蛛の巣に捕まってしまった。俺は心に蜘蛛の巣なんて仕掛けたつもりもないのに。断ち切ってあげた方がいいんですかね? そのからまった糸を」


「もし、薫君が彼女たちの状態だったらどう思う?」


「俺もすでにこの子らと同じ状態なんです。糸が絡みついて、もがいているんです。とはいっても蜘蛛の巣から離れたいのか、そのままでいる方がいいのか、わかりません。俺にとって、ここも蜘蛛の巣ですから……」


 薫は病室を見回した。今は使われていないベッドが三つあるだけ。

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