Bパート 前
「お兄さんもモノ好きだね。今、せりか島に行きたいなんていう人は誰もいないよ。本島の島民でも行く機会はほとんどないよ」
中年をとうに過ぎ、陽に焼けた真っ黒肌の漁師が小型漁船の舵を取りながら言った。
「さっき、あの島を本島から初めて見た時、呼ばれた気がしたんです。それでどうしても行ってみたいと思って……」
半袖のシャツを肩までめくった白い肌は赤くなっている。大きなリュックサック一つ背負った薫が目を輝かせながら、正面の島を見ていた。本島から船で十五分はかからない距離で、離れ島のせりか島にもうすぐ船は到着する。
「島に呼ばれたって、変わった兄さんだな。せりか島に行っても何もないぜ。いくつか民宿や民家があったが一人を除いて誰も住んじゃいない。そいつを見かけても関わらないでいた方がいい」
「一人?」
「あぁ。お兄さんと同じ高校生だよ。時代の流れで本島ないし、本土へせりか島民は移っていった。でも、あの女の子だけは離島することを拒んで、今でも一人住んどるよ。水も電気も通らなくなって、もう三ヶ月になるな」
「……」
薫はだんだん大きくなっていく島を見上げる。島の中心に行くほど山は高くなって木々に覆われている。夏の陽が、葉をより緑色に魅せている。
「今じゃ、島に取り憑かれた子だの、島民の帰りをけなげに待つ犬と呼ばれるようになっていてな。少し経てば、生活できなくなって島を出るようになると思ってたがな……」
「なおさら興味が湧いてきましたよ。きっとこの島に惹かれているんですね。島から離れられない理由が知りたくなってきた」
「ははは! 変わったお兄さんだな。だがな、あまり深入りしない方がいい。島には島の決まりみたいなもんがあるからよ」
漁師は笑って言っていたが、逆に忠告をしているように薫には聞こえた。
「はい。その辺りはわきまえておきます」
薫はしっかりと返答しておいた。
――そう。
――どこに行っても、環境が変わろうと、この国はそうだ。人々も……。
――規範からはみ出る者を嫌うのだ。
――見えない規範を作り、知られたくないことも好きなようだ。
船は、元々港だった所に接岸した。薫を下ろすと、漁師は湯が沈む前にここに迎えに来てやるからと言って、本島へ戻って行った。船のエンジンが聞こえなくなると、穏やかな波の音と心地よい風の音だけが聞こえてくる。
辺りを見ると廃屋が建ち並んでいる。人が住まなくなるだけで、建物はこんなにもさびれてしまうのかと薫は体感した。
島の円周に沿って続く船着き場の先に、少し高くなった防波堤があった。その上で両足を海に突き出して地べたに座っている女の子が一人いた。
薫はさっき漁師が言っていた人だとすぐにわかった。他に人はいない。背負ったリュックを軽く持ち上げるようにして背負い直した。その女の子の方へ歩いて行く。
すると、その女の子は、薫が近づいてくることに気づき、その場に立ち上がった。白いワンピースに襟首に青いスカーフを巻いていて、飾りのない麦わら帽子を被っている。
島に取り憑かれた一人残る女の子の服装ではないと思う薫。この暑い季節に水や電気のない島の生活には不向きな格好。Tシャツに短パンと行動しやすい格好を想像していた。
「君が、一人で島に残って――」
「私は、私の背中を押してくれる誰かを待っている」
海を眺めている女の子は、微動だにせず薫の言葉が言い終わる前に話し出した。
「……」
薫は一瞬、何も考えられなかった。何を言っているの、この子……と。
薫は彼女の細くなった足元を見て、その意味をすぐに理解した。
でも、どうしたらいいか……。
この島で一人になってから満足に栄養を摂れていないのか、スラッとした足がさらに細くなっていることが見てわかる。その両足が自由にならないように、足首をロープで縛ってあった。そのロープの先をたどっていくと、二つ重なったコンクリートブロックにロープは結ばれていた。そのブロックの先端は海に突き出ていた。
――自ら海に飛び込む勇気がないってことか。
「あなた、私の背中を押してくれない? 誰も見てる人なんていないから……」
無表情かつ無感情に女の子は言った。
てっきり何かに取り憑かれたように島を愛して残った格好いい女の子と思っていたのに、そうは思えない。そして、自ら死を願うもその心と行動は釣り合っていない。死への一歩となる一押しを他人に求めてどうなる。俺はわざわざそんなことをするために都会を離れ、島に来た訳じゃない。
しかし、薫は躊躇することなく彼女の背中を押した――。
手に取ってわかる肉付きのない細い体は、簡単に海面の上に放り出された。その子は、うわっと一言驚いていた。一息はできる間が空いて、バシャンと海に落ちた。
女の子は無駄に手足を動かすことなく海中に沈んでいく。足につながれたロープとともに……。
彼女の沈む所から白い気泡が上がって、海面に出てくるとパチパチ割れていく。海中からさら白いものが見えた。それは沈んでいくはずの女の子が浮かび上がってきたのだ。
女の子は呆気にとられた表情で薫を見ていた。
薫は笑った。
「ごめんね! 自殺の手助けなんて勘弁してくれよっと!」
そう言って薫は、ロープでつながれていたはずのコンクリートブロックの一つを持ち上げてみせた。
「結び目、緩かったから海に引っ張られる前にほどいちゃった」
薫は海面に近い所まで降りて行き、女の子に手を差し伸べる。
「この島に一人で残ってるって聞いたよ。少し話を聞かせてよ。できれば、俺も今と違った形で君の背中を押したいからさ」
女の子の家は、船着場から坂を登った途中にあった。一軒家だった。女の子は着替えて出て来た。
「やっぱりね! 絶対そうだと思ってたんだ。ワンピース姿も良かったけど、島スタイルはその格好がいいよ!」
薫はTシャツ、短パン姿に麦わら帽子を被った女の子を見て言った。
「あ、ありがとう……」
「麦わら帽子好きなの?」
「子供の頃からずっと被ってるから。被ってないと落ち着かないの」
「へー。あ、俺、花咲薫。十七才。高校二年」
「私は、屋久島るみ。同じ十七才。でも高校には行ってない。って、見ればわかるよね」
るみは苦笑いをした。
「この島を案内してよ」
「観光になるものなんて何もないわよ」
「この島、せりか島って言うんだっけ。それでも屋久島さんはこの島に一人残ってるのは、それなりの理由があるからでしょ。それも教えて欲しいな」
「るみでいいわよ、薫君!」
軽い口調で言うと、るみは坂を下り始めた。薫は彼女の後を追う。
「では、改めて。るみはどうしてこの島に一人で残ったの?」
「簡単な話よ。私はここが好きだからよ。生まれも育ちもここ」
「それは、離れていった島民皆そうじゃないの? 家族だって出て行く方がつらかったでしょう」
薫は問うた。
「それはどうかな。一斉離島が決まった時、皆喜んでいたから。つらいも何もなかったと思う。私は離島するの嫌だって言ったけど、両親は私を何度も説得したわ」
「みんな、この島が嫌いだったから? 単純に住みにくいからとか?」
「後者の理由もゼロではないけど、本当にこの島が嫌いなのよ。こっち」
二人は先の船着場まで戻って来た。
るみは、島を周回する道を案内した。
薫は坂道を下っただけで汗だくになっていた。高い気温とアスファルトの照り返しが薫を襲っていた。るみは慣れているのか、さほど汗はかいていなかった。
時々、潮の香りを運んでくる風が体を冷やしてくれる。
「島民全員がこの島を嫌いなる理由って?」
「島民だけじゃない。本島の人たちもこの島を嫌ってる。その訳は、島の名前の由来。島の反対側に行けばわかる」
「今、そっち向かってる訳だ」
「えぇ。でも、そっちは後でね。先に私がこの島で大半を過ごす場所へ案内するわ」
るみは、脇道から林道へと入っていった。林道は、木々によって太陽が遮られていて涼しく感じる。しかし、上り坂が続き、薫の息はすぐに上がった。
「ここ」
るみは立ち止まって、息を切らして後からやってくる薫に言った。薫はハァハァ言いながら顔を上げると、林の一部が開け、畑があった。
「何か育ててるの?」
ほとんどの土は乾ききっていて、風が吹けば土埃が舞うほどだ。
「ミニトマトときゅうりだけ。他は全然育たなかった」
るみは、実の様子を見る。まだ小さく青いものもある。
「自分で耕したの?」
「まさか。もともと畑として使われていた場所。だいぶ使われていなかったみたいだけど。試しに種を蒔いてみたの。実際、成長しているところを毎日見てると楽しいのね。私はこういう生活の方が向いているのかもしれないと、勝手に思い込んでる」
「トマトときゅうりだけじゃ、満足した食事にはならないんじゃ」
細身のるみを見て薫は言った。
「そうよ。毎日、数が取れる訳でもないし。水まきもほとんど天候まかせ。こんな島でも、今までいかに贅沢な生活をしていたのか痛感した。結局、週一回本土にいる家族から水や食料の仕送りに頼ってる。この島に残っても何も成せていない。私は無力。それでもこのトマトやきゅうりは育っていて羨ましいって思う。植物にこんな気持ちを向けるのって変でしょ」
るみは冗談ぽく言って笑ってみせた。
「いいと思うよ。むしろ、俺はそういう方がいい」
「……」
るみは薫の返答に呆気にとられた。
「意外。そんな人には見えないけど。こんな島に一人で来たくらいだから、中身は変わり者なのかしら」
薫はるみに返す言葉はなく、苦笑いをした。
「寄り道しちゃったわね。戻りましょう」
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