Bパート 後

 薫は稲穂の背中を見届けた。しかし、森の中にわずかな空気の異変を感じた。多くの人の気配が森の奥から迫ってくる。暗い森の中に立つ木々が今にも襲ってきそうだった。


 すぐに薫は胸のホルスターから銃を抜いて、古民家に走り出した。二人分のスクールバッグをかつぎ、低姿勢で古民家の中へ入った。


 幸い、稲穂のおかげで家の中には巨大蛾はいなかった。壁からそうっと顔を出し、森の様子を見る薫。


「やっぱり……」


 森の中で、銃の先に取り付けられた赤いレーザーポインターが蠢いていた。ポインターの数は二つや三つではない。五十、いや百個が闇の中を飛び交っていた。まるで闇夜に現れた悪魔の目のようだ。


 すると、いっきにポインターが古民家に向けられた。すぐに顔を引っ込める薫。


 ――撃たれるのか?


 ……。


 ……。


「双銃の花咲薫。お前がそこにいるのはわかっている。大人しく投降しろ。これはセリカ本部からの命令だ」


 本部からの命令だと?


 薫はもう一度森を見た。拡声器を持った大柄の男が一人立っていた。その男を中心に銃を持った兵士がざっと百人横に並んでいる。


「この蝶獣化施設内で、事故があった。あってはならぬ事故だ。なんとしてでもこの中で事態を収拾したい。しかし残念ながら、セリカはこの施設を破棄するとともに爆破し、蝶獣化の種を破壊することが決まった。そして、もうお前の任務は既に完遂している」


 ……。


 ……。


 この兵士の数では俺をもってしてでも勝ち目はない。


 薫は古民家から出て素直に男のもとに向かって歩き出した。男の前までくると、


「確保しろ」


 男がそう言うと、二人の兵が薫を捕まえた。


「一体、何を……」


「ヨシ。引くぞ!」


 男は兵士全員に合図を出した。そして、無線機に向けて話し出した。


「アミからハチへ。花咲薫を確保した。これからアミは速やかに森を出る。赤星稲穂はシミュレーション通り施設内に侵入。また三分後に合図を送る。それまでハチは上空にて発射待機。どうぞ」


 ラジャと、すぐに返事が来ると、いっせいに走り出した。薫は兵士に抱え込まれてしまった。


「おい、どういうことだよ。まだ稲穂が中に……。俺のパートナーが……説明しろ」


 薫は手足をバタバタとさせた。


「セリカの蝶獣化プロジェクトは終わりだ。ほとんど成果は得られず、赤星だけが成功したに過ぎなかった。最終的には種が暴走を起こした。人には蝶獣化は向いていない。そして、人間には蝶獣化をコントロールできない。もうこれ以上被害を出す訳にはいかない。それに赤星も完全蝶獣化してしまう可能性もゼロではない」


「だからって、稲穂ごと施設を爆破するのはひどすぎる。もう少し対応できるだろ」


「何も知らず、一瞬で終わるんだ。苦しんで死ぬよりは……楽だ」


「そんなわけ、あるかぁ―――」


 薫は腰に手を回して銃を抜き、大柄の男に向ける。兵に抱えられながらも狙いを定める。この短距離で俺は外さない。


 引き金を引いた。


 乾いた音が森の中へ響き渡った。


 ――。


 男は平然と走っている。


「バカな……。はずした……」


「違う。お前が外したんじゃない。俺がお前の弾を避けたんだ」


「……」


「俺もお前と同じ能力だ。超速移動している物を見極める。だから、これだけの数の兵士を集めた。お前でも全部は避けきれない」


「……」


「これはセリカの決定事項だ。あきらめろ」


「稲穂……」


 薫はうなだれた。


 その時、後方から爆発する音が聞こえてきた。予定の爆破とは違うようで、男が無線機に何事だと聞いていた。


 辺り一面に赤い閃光が走った。まるで雷の稲妻のように。


「こ、これは、赤い稲妻! まさか……」


 男は赤い光が止まった方向を見ると、学ランを着たスカート姿の稲穂――頭から触覚が伸び、背中に蝶の羽を広げて立っていた。不気味に、しかし鮮やかに赤い斑点が光っていた。そして、稲穂の隣には兵に抱えられていたはずの薫が立っていた。


「ちっ。赤い稲妻と双銃コンビ。そろってしまったか。構えろ!」


 男が言うと、赤いレーザーポインターが稲穂と薫に集中する。


「稲穂。無事で良かった。危ないところだったんだぜ。セリカが稲穂を施設ごと爆破するところだった。出てこれてホントによかったよ」


 薫が安堵すると珍しく稲穂から握手を求めてきた。稲穂は笑っていた。今までにこんな表情を見たことはなかった。


「ありがとう、薫。最後まで私のことを想っていてくれて」


「当たり前だろ。任務中はパートナーなんだし、それに俺の少ない友達だしな」


 それを聞いた稲穂は目頭に涙をため、体が震え始めた。


「どうしたんだよ、稲穂」


「もう施設内は手遅れ。皆、完全蝶獣化していた。種の暴走は思っていた以上に深刻だった。薫、あなたは入らなくて正解だった。入っていれば、瞬時に蝶獣化してしまっていた」


 差し出された稲穂の手を薫はまだ握らずにいる。


「珍しいな。稲穂からそんなに話をしてくれるなんて……」


「もう蝶獣化制御も限界に来てる」


「……」


「施設内に蔓延していた種を浴び過ぎた。私の意識も体も徐々に蝕まれていく。だから……」


 稲穂が一度瞬きをした。


 涙がこぼれた。


「だから、最後に唯一のパートナーの薫に」


 パチンと稲穂の手を薫ははたいた。


「黙れ! それ以上、俺は聞きたくない」


「……」


「……」


 稲穂は一歩、薫に歩み寄った。そして、稲穂の赤い蝶の羽が二人を包み込んだ。


「これは薫にあげるわ。私にはもう必要ないし、私だと思ってくれてもいいわ。……本当にありがとう」


 稲穂は薫に刀を手渡し、薫を抱きしめた。稲穂が何かに苦しんでいるのが肌を通してわかった。その何かは薫もわかっている。


「お願い。薫の前では私を、この蝶のままでいさせて。心の中で私を住まわせて……」


 稲穂が薫の耳元でつぶやくと、羽を広げた。


「わかった。好きなだけ居ろよ……」


 二人はしばしの間、無言で見つめ合った。


 そして、稲穂の表情が歪んだ。肌が変色し始めている。


「そろそろ、薫の中に入らなくちゃ」


 稲穂は最後にそう言って、稲妻のごとく施設に向かって飛んで行った。


「稲穂――」


 薫は息が切れるまで叫んだ。


 薫はすぐに兵に抱えられて、森の中を出た。


 薫はものすごい爆発の音を聞いた。


 薫は森の中から立ち上る炎と爆煙を見た。


 薫は心に赤星稲穂という蝶々を飼い始めた。その時から。

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