2.一匹目 揚羽黄柚子

Aパート

 まもなくして、牡丹が病室のドアをやっとのこと開けた。牡丹の両手は、木の箱や標本にするための道具でふさがっていた。そして、それらを薫のベッドに置いた。


 ガラス版がはめ込まれ、標本として飾っておけるしっかりとした木の箱が一つ。


 展翅板てんしばんという蝶や蛾の羽を広げて形を整える木箱が三つ。それは数センチの高さがある直方体で、表には左右を二分するように中央がほんの少し隙間が空いている。その隙間に蝶の身体を入れ、羽を広げて固定する。


 その他に虫ピンやマチ針の入ったケース、三角形に折りたたまれたパラフィン紙もたくさんあった。


「はい、薫君。お待たせ」


「虫ピンと標本用のこの箱だけでよかったのに。他のやつは使わないよ、俺」


「えー、セットでって言ったじゃん。でも、これとか使わなくていいの?」


 牡丹は中央に隙間の空いた展翅板を取り上げた。以前、夏に標本作りをして、これに針で蝶の羽や触覚を固定して乾燥させた覚えがある。乾燥させている間、待っていられなくなってやめちゃった患者さんを牡丹は思い出した。自分一人で、最後までやろうと展翅板から標本ケースに移す時、誤って触覚に触れて根元から折ってしまった。その辺りを察するに、私は器用ではないのかもしれない。


「はい、使いません」


 薫は即答した。


「そう。それで、薫君はどんな蝶々を捕まえたの?」


 牡丹は少し顔を近づけた。薫は子供のようにニヤニヤしている。


「それはですね……」


 薫は上になっている手をゆっくりどけた。羽を羽ばたかせることなく静止している一匹の蝶々――。


「……」


 牡丹には、薫の手の中にいるそれが完全なる蝶々には見えなかった。


 頭の中で想像してしたそれとは違っていた。


 想像力の問題かもしれないが、牡丹は脳に訴えかける。それが薫の言う蝶々なのだと。


 牡丹がマジマジとそれを見ていると、


揚羽あげは黄柚子きゆずって言います。かわいいでしょ」


 と、薫はまるで自分の彼女を誰かに紹介する時のように照れていた。まさか名前までつけているのかと牡丹は驚いた。そう言われてみれば、そんなようなイメージに近いかもしれない。


 顔立ちからして高校生のように見える。それにどこかの学校で来ていそうな制服姿。髪はショートカット。スカートから伸びる足はすらっとしたものだが、スポーツで鍛えられたのかしっかりと引き締まっている。


 これだけ見たら、女子高校生が小人になってしまったのだろうと思えるが、薫が蝶々だと言っている。アゲハチョウのような野原を優雅に飛んでいそうな羽が彼女の背中にあった。黄色を基調としたその羽は、中心から外に向かって黒い線が模様を描くようにして伸びている。


 彼女より大きい片方の羽で上半身を隠すようにしていた。その格好は誰かに見られたくないのか、恥ずかしがっているように見える。


「薫君。いつ、どこで捕まえたの?」


「今日見た夢の中で、です」


「夢の中……」


 牡丹は呆気にとられた。薫の考えていることがわからなかった。薫が目を覚ました後も夢の中の話を続けていることは十分理解できる。しかし、現に薫は揚羽黄柚子という蝶の羽を生やした子を捕まえている。


「牡丹さん。虫ピンを取ってくれますか。あとその箱のガラスを外してもらえますか?」


 牡丹は薫に言われた通りに、虫ピンを渡した。それからガラスを外した木の箱を薫の近くに置いた。薫は、虫ピンを揚羽黄柚子の胸と腹部の間に差し込もうとしているところだった。


「ちょっと、薫君。刺しちゃっていいの? 生きているんじゃないの?」


 私は彼女が生きているように見えていた訳ではない。彼女は全く動いていない。人形のよう。標本にしようとしている時点で聞くだけ無意味ではあるが、後になって、虫ピンが刺さって穴が空いていることに不満を覚えてもらっても困る。また子供のようにコレクションを傷つけられたと言って癇癪を起こされも困るから聞いたのだ。


「大丈夫だよ。もうこの子の心は俺に取り込まれているから平気なんだ。あとは俺が彼女のそばでずっと見守ってあげるんだ。そうしてあげないと悲しむから……」


 薫は丁寧にかつ手際よく虫ピンを刺し、標本用の木箱に揚羽黄柚子を固定した。


「小さい部屋かもしれないけど我慢してね」


 牡丹は何も言わず薫の行動を見守り、最後にガラス板を渡した。薫はそれを受け取って、木箱にはめ込んだ。


「もう大丈夫だよ!」


 薫は宝物に声をかけるようにガラスの向こうにいる揚羽黄柚子に言った。


「良かったね、薫君」


 薫の一連の行動における真意が現時点では分からなかったが、薫が納得したことに牡丹は一安心した。


「さぁ、朝ご飯たべようか」


「はい」


 目的を成し遂げた子供のように薫は素直に答えた。


 朝食を食べている間も薫は箱を放さなかった。牡丹が食事の間だけは別の所に置くように伝えたが叶わなかった。


「ねぇ、牡丹さん」


「何?」


「どうやって、揚羽黄柚子を捕まえたのか知りたい?」


「教えてくれるの? 知りたい」


 薫の主治医が診療した際、薫がまた同じように話してくれるか分からないので、牡丹は聞ける時に聞いておきたかった。個人的な興味がなかったといえば嘘になる。薫君の心を見たい好奇心がいつの間にか芽生えていた。あの蝶々を見たのが決定打だった。

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