少女蝶々の箱

水島一輝

1.プロローグ

プロローグ

「おはよう!」


 朝、そう言ってスライド式のドアを開けて病室に入ってきたのは、看護師の四季野牡丹。まだ若い。薄ピンクのナース服で、朝食をトレーに乗せて運んできた。


 病室はベッドが四つあり、使われているベッドは窓際の一つだけ。少年が一人ベッドの上で窓から差し込む光りを浴びていた。病室のカーテンは少年の所だけ開いていた。


「薫君。今日はもう起きてたんだ。はい、朝ご飯」


「おはようございます。牡丹さん。今日はなんか目が覚めてしまって……。本当は牡丹さんに起こしてもらえるのが一番なんですけど。今日は……」


 薫は、ふっと布団に目を落とす。少し残念な表情をしているのかなと、牡丹は薫の表情を見た。照れたように口角が上がったやわらかい笑顔だった。こんな表情はいつも見せないのにと、牡丹は頭の中の記憶を思い返した。彼の担当になって一ヶ月半。初めて見た表情だった。


「あら、嬉しいこと言ってくれるわね。私、ドアの所からもう一度入り直そうか。寝直す?」


「今日は、もう大丈夫です」


「そう」


 薫の返答を聞いて、牡丹は笑顔になった。


「牡丹さん。俺なんかより、起こしてあげたい人はいないんですか?」


 薫が聞いた。


「何、その聞き方。さも彼氏はいないみたいに……」


 これも仕事よ、と大人事情は話さないことにする。


「実際は、いないんですよね」


「――えぇ、いないわよ。それじゃ、薫君が私の彼氏になってくれる?」


「遠慮しておきます」


 薫は即答した。今のは心にきたかもと牡丹は軽くショックを受けていた。表情に出ていないか、……いや苦笑いしていた。


「薫君は年上に魅力を感じたりはしないの?」


 私は朝っぱらから、たかが高校生に何をそんなにムキになっているのだろうか。


「んー、そういうのはちょっと良くわからないんです。男が女性を好きになることはわかるんですけど。それ以上のことは、よくわからないです」


「そりゃそうだね。わからないものはわからない。大いに結構よ! でもね、男と女はお互いに想いが通じちゃうと、天に舞うように二人は燃え上がっちゃうこともあるのよ」


 薫は最後の方を聞いていない様子だった。ずっと自分の手元を気にしている。まるで昆虫を捕まえたように、中の虫を潰さないよう両手で丸みを作っていた。牡丹が来る前から薫はそうしていたようで、牡丹はそれを気にしていた。しかし、病室の窓は開いてないので虫など入ってこない。窓は開けられないように固定されているのでなおさらだ。ガラスが割られている様子もない。昨日、通用口かどこからか迷い込んでしまったのだろうかと牡丹は考えていた。


「さぁ、朝食にしよう」


 その両手のことを聞くべきだっただろうか。そう思いながら、ベッドをコの字にまたぐテーブルを薫のそばまでスライドさせた。


「あの、牡丹さん」


「何?」


「変なこと聞いていいですかって、俺、変だからここにいるんですよね」


「なになに、聞きたいことって?」


 牡丹は笑顔を向けた。しかし、窓から差し込む陽の光りを浴びて陰影がはっきり現れた牡丹の表情は、薫を少し困らせた。


「こんなこと頼んだら、牡丹さん困りますよね?」


「言ってみないとわからないよ」


「いえ、やっぱりいいです。自分で何とかします」


「なんでよ。私、困らないと思うよ。こう見えても何でも器用にこなしちゃうタイプなんだ」


 牡丹は力こぶを見せるポーズをとった。


「器用さはあまり関係ないんですけど、朝食食べないといけないから頼んじゃいますね」


「良い子だ!」


「俺の手の中に蝶がいるんです」


「チョウ? 蝶々のこと?」


「はい。それで標本作りたくて、標本セットみたいなのってありますか? そんな都合よくありませんよね」


 牡丹は、片目をつむり、人差し指をピンと立てて左右に振った。


「薫君! それがあるんだよ!」


「本当ですか?」


「工作ルームにあるよ。以前、薫君と同じように標本作りたいっていう人がいて、でも途中でやめちゃったの。それ使えるよ」


「やった!」


「標本作るのって、時間かかるよ」


「大丈夫です。もう、形になってるので」


「どういうこと?」


 薫は手をどけて、蝶を見せてはくれない。


「標本セットを持ってきてくれたら、教えてあげます」


 薫は手元を見つめたまま、微笑んでいた。


 牡丹はこの時、初めて薫を不気味に感じた。今まで接していてそんなことはなかった。少し人と話をするのが苦手なのかという印象で、全く本心を話したがらないので、正直考えていることがわからなかった。今日この時、初めて彼の心を覗くことになるんだ。心を開いてくれることに嬉しさもあり、恐くもあり。


「朝食、食べたあとじゃダメなの?」


「ほら、両手ふさがってるから食べられないですよ」


 私が食べさせてあげるよと、牡丹は言えるはずもなく、


「標本セット持ってきて、蝶々を手から出したらご飯食べてくれるのね?」


「はい!」


「もう調子がいいんだから。じゃぁ、持ってくるから少し待っててね」


「はい。お願いします」


 薫は軽く頭を下げた。


 牡丹は足早に病室を出て行った。薫は病室のドアが閉まりきるのを待った。そして、


「もう安心だよ。あと少しで身体も俺が助けてあげるからね……」


 薫は、丸みを作った手の中にいる蝶に小声でやさしく話しかけた。

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