第4話「みんなで浸ろう拡張現実」 02
ぽとり、と冷たい雫が顔に落ちた気がして目を開ける。目の前に広がっていたのは、岩の壁、散らばる掘削道具、土の香り。トシロウが立っているのは、何者かによって掘り進められた洞窟のようだった。
「はじめまして、お兄さん」
鈴を転がすような可憐な声が響く。一つまばたきをする間にトシロウの前に現れたのは、金髪に青い目を持った一人の少女だった。
「私は■■■■■■」
激しいノイズが入って、名前が聞き取れない。その様子を見た少女は不満そうに頬を膨らませた。
「ここは……」
トシロウはぼんやりと辺りを見回す。それほど高くない天井。放棄された掘削機。壁に備え付けられた白熱電球の光。――どこかの地下だろうか。
「ここは私たちの世界。私たちの『拡張現実』。あいつらもここまでは干渉できない。……今のところは、だけれど」
年不相応な表情で吐き捨てる少女に違和感を覚え、トシロウは一歩後ずさろうとする。しかしそんなトシロウの足元に、少女はまとわりついてきた。
「上役(うわやく)様のパスが繋がっていて助かったわ。おかげで簡単にあなたの中に入り込めた」
少女はトシロウの手を引いて、いつの間にか目の前に現れていたテーブルにいざなった。
「時間はあまりないけれど、じっくりお話しましょう?」
誘われるがままに、トシロウは椅子に腰かける。深い海の底のような青くて暗い少女のまなこが、トシロウの目をぱちりと捉えた。
「あなたの全部を私に見せて?」
目を開けると、見慣れた天井が見えた。
サングラスはかけていない。窓の外では音もなく霧雨が降っている。どうやらまたアンバーが朝食に挑戦しているらしい。オウルバニーの騒がしい声が台所の方から響いてきている。
「朝、か」
トシロウはソファから体を起こすと、片手で顔を覆い、息を吐いた。嫌な夢を見た気がする。自分の奥底を暴かれるかのような――悪夢を。
首を数度横に振り、夢の残滓を振り落とそうとする。そうして顔を上げたその時、トシロウの目の前にそれは現れた。
『おはよう、お兄さん』
「なっ!?」
それはあの青い目の少女だった。睫毛が触れそうなほど近くに現れた少女は、トシロウの反応を見ると、満足げにトシロウの上から離れていった。
金色の髪、向こう側が透けて見える半透明の肌。しかしその血色は悪くなく、幽霊の類ではないように見えた。トシロウはソファの上で後ずさった。
「どうしてお前がここにいる」
『それはあなたの中に私がいるからよ、お兄さん』
――俺の中? 俺の夢の中という意味だろうか。それにこの幻覚は今、俺の言葉に反応してきた。ついに俺は幻覚と会話するほどになってしまったのか。
トシロウは険しい表情で少女の幻覚を睨みつけた。
「お前は幻覚のはずだ」
『そうね、あなたが幻覚だと思うのなら私は幻覚なのでしょうね』
その正体を追及しようとしても、少女は飄々とした態度でかわしてしまう。
『そういえばお兄さんのお名前は何というのかしら』
名案と言わんばかりに少女は手を打った。トシロウは冷や汗を流しながらも少女から目をそむけ、ソファから立ち上がった。
『教えて、お兄さん?』
嬉々として尋ねてくる少女を意図的に無視し、トシロウは足早に台所へと向かっていく。台所からフライパンを持ったアンバーが顔を覗かせ、こちらを見た。
「トシロウ」
アンバーがトシロウの名前を呼ぶ。すると、幻覚の少女は嬉しそうに目を輝かせた。
『トシロウ、トシロウっていうのね! 素敵な名前!』
きゃらきゃらと笑いながら幻覚の少女はくるくると回ってみせる。眉をひそめてそれを気味悪そうにトシロウが見ていると、アンバーがそんなトシロウの顔を覗きこんできた。
「どうしたの?」
――ああ、やっぱり他の奴には見えていないのだ。
不思議そうにこちらを見てくるアンバーに絶望を覚えながら、トシロウは「なんでもない」と早口で言った。
アンバーはたどたどしい手つきで、小さなテーブルに食器を並べていく。トシロウもそれを手伝おうとしたがアンバーにしかめっ面で拒否された。
「座って待ってて」
「あ、ああ」
気圧されたトシロウは、素直に椅子に座って待つことにした。そんなトシロウの膝に、幻覚の少女はしなだれかかってくる。
『ねえトシロウお兄さん。あんなの放っておいて私とお喋りしましょうよ。私、トシロウお兄さんのことたくさん知りたいの』
――幻覚だ、相手をするな、これは幻覚なんだ。
やがて朝食を並べ終わったアンバーはトシロウの向かいに座った。今日の朝食も見た目はあまり良くないが、味は悪くないようだ。
「今日はおしごと?」
「いや、マフィアからは特に何も言われていないな」
そうやって答えた後、トシロウはアンバーの様子を窺った。一昨日、病院につれていってからかなり顔色は良くなっているようだ。トシロウはふと気紛れを起こして提案した。
「買い物にでも行くか」
「うん」
アンバーは俯きながら、心なしか嬉しそうな声色で答える。幻覚の少女は顔を歪めた。
『仲が良いのね。妬けちゃうわ』
――黙れ、幻覚め。
アンバーの作った朝食を口に押し込んだ後、トシロウはタブレットケースを取り出し、じゃらじゃらと中身を取り出した。アンバーは不安そうな顔でそれを見る。
「そんなに飲むの?」
心配されているのだということはすぐに分かった。だが、これ以外にどうしようもないのだ。
「いいんだよ」
今もアンバーの後ろで、あの少女が笑っている。俺の幻覚が、俺に語りかけてくる。
「飲まないと消えないんだ。……あいつらが」
華僑街のマーケットには簡体字のネオンがあちらこちらに輝いていた。そこに行く人々にまとわりつくように霧雨が降り注いでくる。トシロウとアンバーは雨避けのフードをかぶり、マーケットを歩いていった。アンバーの腕の中にはオウルバニーも大人しく抱えられている。
「何か買うの?」
「……特に決めてないな。お前は何か欲しいものはあるか?」
『私? 私はね! リボンがほしいわ! こんなみずぼらしい髪型はうんざりなの。でもお洋服でもいいわ! 綺麗に着飾れるのならなんでも!』
「欲しいもの……」
騒ぎ立てる幻覚と考え込むアンバー。トシロウは幻覚のことはわざと視界に入れないようにして、アンバーの答えを待った。
「オウルバニーどうしよう」
「んなもん自分で決めろよアンバー」
腕の中のオウルバニーにも突っぱねられ、アンバーは再び考え込む。そうしていること数分、もうマーケットを横断しきるという頃になってアンバーは顔を上げた。
「決まったか?」
「うん」
「何が欲しい」
アンバーはすぐそばの露店に駆け寄ると、あるものをトシロウに差し出した。
「これ」
咄嗟に受け取ってみると、それはサングラスの後ろにつける固定バンドだった。以前アンバーに買ってやったものと同型だ。バンドは長く調節することもでき、サイバーサングラスを首からかけることもできるようだ。
「こんなものが欲しいのか?」
「うん」
まっすぐにこちらを見上げてくるアンバーの圧に負けて、トシロウはそれを購入し、アンバーに手渡した。するとアンバーは、そのバンドをトシロウに差し出してきた。
「トシロウにあげる」
「は」
「おそろい」
そう言って自分がしているサングラスを持ち上げてみせる。アンバーのサングラスの後ろにはバンドがついている。
トシロウはおずおずと自分のサングラスにバンドをつけると、アンバーの前でサイバーサングラスをかけてみた。アンバーは満足げに笑った。
「似合ってる」
「そうか」
「これで落ちない」
「そうだな」
むず痒いような気分になって、トシロウもかすかに微笑んだ。幻覚の少女は不満そうにアンバーの足を蹴りつけた。
『何よ、あんたばっかり……』
しかし体が透けているために、当然、その攻撃はアンバーには当たらない。そのことが余計に少女を苛立たせたのか、少女は拗ねた表情でトシロウの手を取った。
『こっちよ、トシロウお兄さん』
本当に手を引かれているかのように体が勝手に動いた。トシロウがいきなり歩き出したことに驚いたのだろう、アンバーもきょとんとした後、その後ろを追いかけてくる。しかしその姿もすぐに消えた。そればかりかトシロウの周囲にいた人々の姿は掻き消え、自分の手を引く少女の姿しか見えなくなっていた。
『一緒にお買いものしましょ。私、お兄さんのことをたくさん知りたいの』
まるで白昼夢を見ているかのようだった。人のいないマーケットを、存在していない少女とともに巡っていく。自分の体の自由はきかず、ただ少女の思うがままに連れ回され、少女が露店の商品を珍しそうに眺めまわるのに相槌を打たされていた。
なんとかそれから逃れようと、トシロウはぎゅっと目を閉じ、次に目を開いたときにはとある店の壁の前に立っていた。雑踏のざわめきが戻り、体の自由もきくようになっている。傍らではアンバーが心配そうにトシロウを見上げていた。
「トシロウ、大丈夫?」
「お前、壁に向かって10分ぐらいぼんやりしてたんだぜ?」
「10分……」
まだぼんやりとした意識のまま、辺りを見回す。黒い空。行き交うサングラスをかけた人々。いつもどおりの光景だ。トシロウはぶんぶんと頭を振り、今さっきまで見ていた白昼夢を振り払おうとした。――しかし、アンバーの方に視線を戻したトシロウが見たものは、幾人にも分裂した、あの少女の姿だった。
『楽しかったわ、お兄さん』
『でもまだまだ足りないの』
『お兄さんの全部が欲しいの』
『お兄さんの奥底、全部を見せて』
『そうして一緒になりましょう』
何人もの少女に詰め寄られ、トシロウは後ずさる。冷や汗が噴き出る。呼吸が浅くなる。なんだ、こいつは何なんだ。どうして俺にこんなことを言ってくる。
『さあ教えて』『私に見せて』『一緒になろう?』『あなたが欲しいの』『私を見て』『ねえお兄さん』
荒くなっていく呼吸。少女たちに固定された視線。耳元でガンガンと響く声。何が言いたいんだ。俺に何をしろっていうんだ。どうしてこんなものが見える。どうして。
『ね、トシロウお兄さん』
「トシロウ、」
「――黙れ!」
取り囲んでいた幻覚の少女の姿が掻き消え、そこには目を丸くして驚くアンバーの姿があった。
「ごめんなさい……」
小さく震えながら謝るアンバーに、トシロウは一気に頭が冷え、俯いた。
「……悪い、お前に言ったんじゃないんだ」
やってしまった。幻覚に怒鳴って、アンバーには怯えられて……俺はここまで駄目になってしまったのか。
「……ごめん」
「ううん、どうしたの?」
アンバーは怯えを既に飲みこんだようで、トシロウを見上げて尋ねてきた。その様子に少し救われた思いがして、トシロウは本当のことをアンバーに話していた。
「幻覚が見えるんだ。あいつの声が聞こえるんだ」
声が震える。膝に力を入れていないと立っていられそうにない。そんなトシロウの手に、アンバーはそっと両手を重ねてきた。
「もう帰ろう?」
「……ああ」
心配そうにこちらを覗きこんでくるアンバーに、トシロウは目を伏せて頷いた。
「ただいま」
「おう、おかえり……どうしたんだその顔、どこか具合でも悪いのか?」
『Jeweler』の戸を開くと、ちょうど開店準備をしていたユェンと鉢合った。アンバーに手を引かれて店に入ってきたトシロウに、ユェンは心配そうな声をかける。アンバーは事情を話すか話さないか迷っていたが、その前にトシロウはアンバーの手から手を放した。
「すまない、アンバー」
「トシロウ?」
「ちょっと一人にさせてくれ」
無理矢理に笑顔を作って、アンバーに向ける。そうして心配そうなアンバーの視線を背中に受けながら、トシロウはふらふらと店奥のドアへと歩いていった。
体重をかけるたびに、木製の階段がぎしぎしと鳴る。トシロウはのろのろと階段を上りながら、タブレットケースを取り出し、ありったけのジェムを口の中に放り込んで噛み砕いた。
なんとかして幻覚を消さなければ。それにはこれしかないんだ。
あの時の、怯えたようなアンバーの顔を思い出して、トシロウは奥歯を噛み締めた。
とにかく眠って薬が効くのを待とうと、倦怠感をこらえて階段を上りきったトシロウは自室のドアを開ける。――目の前にはあの幻覚の少女が浮遊していた。
少女はトシロウの首に抱き着き、艶やかに微笑んだ。
『眠りましょう、トシロウお兄さん?』
タブレットケースが手から滑り落ちる。全身から力が抜ける。派手な音を立てて床に倒れ込む。少女の笑い声を彼方に聞きながら、トシロウの意識は闇へと落ちていった。
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