第4話「みんなで浸ろう拡張現実」

第4話「みんなで浸ろう拡張現実」 01

 ――白だ。周囲には白ばかりが広がっている。だが以前のように何も存在しない訳ではない。地面には起伏があり、なだらかな丘がいくつも連なっている。頬に当たる風にも草の匂いが混じっている気がする。どうやら丘陵地帯のようだ。


「だんだんあなたもこちらの住人になってきたわね」


 トシロウは椅子に腰かけたまま、ぼんやりと目の前の女性を見た。白衣姿のあの女性だ。あれほど警戒していた相手だというのに、今は何も感情が浮かんでこない。


「いいことだわ」


 女性は穏やかに微笑み、テーブルの上を指した。


「さ、紅茶があるわよ。どうぞお飲みなさいな」


 トシロウは言われるがままにカップを手に取り、その縁に口をつけ――







「起きろ! 起きろよ、ロリコン野郎!」


 腹の上に激痛が走り、トシロウはうめき声を上げて飛び起きた。どうやら憎たらしいあのぬいぐるみが鳩尾の上で飛び跳ねたらしい。トシロウは怒りのままにオウルバニーの頭を鷲掴むと、床へと叩きつけた。


「ギャーッ!」


「いい加減にしろよ、オウルバニー……」


「うわっやめろ! 踏もうとするな! 今日はちゃんとした理由があるんだって!」


「……ちゃんとした理由?」


 ぐりぐりと踏みつけていた力を緩め、トシロウは聞き返す。オウルバニーはその隙にぴょこんと飛び起きると、ベッドの方へと走っていった。その後を追おうとのろのろとトシロウが足を動かしたその時、聞こえないはずの声がトシロウの鼓膜を揺らした。


『ふふ、元気がいいのね』


 バッとそちらを振り向く。薄汚れた壁際で、腕を組んで凭れかかっていたのは――白衣姿のあの女性だった。今までのような視界の端でちらつく姿ではない。触れそうなほどはっきりとしている。


 トシロウは言葉を無くして硬直した。こいつがどうしてここに。いや、こいつは俺の幻覚だ。なんでこんなにはっきりと見えるんだ。今まではこんな風じゃなかったぞ。薬の禁断症状か?


 ぐるぐるとトシロウは思考を巡らせる。その時、足元からの騒々しい声が彼を現実へと呼び戻した。


「おい、ロリコン! 何やってんだ、こっちだって!」


 ハッと正気に戻ったトシロウは足元で騒ぎ立てるオウルバニーを見下ろした。


「アンバーの調子がおかしいんだって!」


 促されるままにベッドに歩み寄ると、ベッドの上ではアンバーが上半身を起こし、ぼんやりとしていた。覗き込むと、いつも血色がいいとは言えない肌が、さらに青ざめているような気がする。


「アンバーどうした。顔色悪いぞ」


「気持ち悪い、気がする……」


 片手で頭を押さえてアンバーは答えた。トシロウはそんなアンバーの前髪をかき上げ、額に手を当てる。――熱は無いようだ。


「大丈夫。多分、存在がズレてるだけ……」


「……存在?」


「なんでもない」


 意味不明な言動をするアンバーに、トシロウはいよいよ発熱を疑うが、やはり額に手を当てても熱くはない。


「……とりあえず一回外に出るぞ。酸欠かもしれないからな」


「うん」


 手早く寝間着から着替え、部屋のドアを開ける。ぎしぎしと階段を踏みつけ、二人は階下の『Jeweler』へと降りていった。


 『Jeweler』ではユェンが床掃除をしているところだった。ユェンは床の木目を睨みつけていた顔を上げ、二人を見て眉をひそめた。


「なんだなんだしけた顔してんな、二人して」


「アンバーが気分悪いって言うんだよ。だからとりあえず外の空気でも吸わせようと――」


「いやお前、医者に連れてけよそこは」


「……医者」


 そこには考えが至っていなかったらしく、トシロウはぼんやりと繰り返す。ユェンは険しい顔でトシロウの顔を指さした。


「ついでにお前も診てもらってこい。ひどい顔だぞ、特に目元」


 酒場の壁にあった小さな鏡を覗きこんでみる。そこには両目の下に大きな隈を作った自分の姿が映っていた。


「眠れてねえのか?」


「いや、眠れては、いるんだが……」


 若干心配そうな顔でこちらを見てくるユェンの傍らでは、あの女性がひらひらとこちらに手を振っている。ユェンはそれに何の反応も示さない。……やはりあの女性は、自分以外に見えてはいないようだ。


「……なんでもない」


 トシロウは女性とユェンから目を逸らした。








「はい、ありがとね。もういいよ」


 高齢の闇医者がそう言うと、アンバーはめくっていた上着を元に戻した。トシロウたちは街の中ではかなり薄汚れた部類に入る華僑街の、さらにさびれた場所にある診療所を訪れていた。


「うん、風邪ですね。これは」


 耳から聴診器を外して医者は言う。


「それか下町の空気にやられてしまったんでしょう。見たところ、お金持ちのお嬢さんですよね?」


「…………」


「ああいえ詮索するつもりはありませんよ、ただ症状としてですね。あまり慣れていない汚い空気を吸いすぎてこうなっている可能性があるんじゃないかと」


「そうか」


 言葉少なに返すと、トシロウはお代を財布から出そうとし――ふと考え込んでから、医者に切り出した。


「ついでに聞いておきたいんだが」


「ハイ、ハイ、何でしょう?」


 躊躇いがちにトシロウは医者に尋ねる。


「今朝からその、女性の幻覚が、ずっと見えているんだが……」


 ちらりと医者の後ろに視線をやる。女性の幻覚はトシロウを見て微笑んだ。


「アー、ソレは禁断症状ですねー」


 何もいないはずの場所を見ているトシロウに、医者は間延びした声を出した。


「たまにいるんです、アナタみたいな人」


 ふーやれやれと医者は椅子に座りなおした。アンバーはそんな医者の禿げた頭をじっと見つめている。


「アナタ、小さい頃からジェムを飲んでいらしたでしょう?」


 トシロウはムッと眉根を寄せた。図星というやつだ。


「そうすると脳みそがどんどん変質してしまってですね、見えるはずもないものまで見えるようになってくるんですハイ」


 医者は壁に貼ってある脳の画像をペンでとんとんと指してみせた。


「詳しく聞きますか?」


「いや、いい。それより対処方法を教えてくれ」


「ジェムを飲むしかないでしょうねえ。どんどん飲まなきゃいけない量は増えていくでしょうが」


 闇医者の頭部の乏しい毛がひょこひょこと揺れる。それに触れようとするアンバーの手をトシロウは掴んで止めた。


「飲みすぎると昏睡状態から帰ってこられなくなることもありますから、諦めて幻覚と同居していくのも手ですよ」


「本当にそれしかないのか」


「ええ、ソレしかないんです。お気の毒様です」







 いつも通りの曇り空、降り出しそうな雨の匂いが辺りに満ちている。二人の行く道にはゴミ箱をひっくり返したかのような悪臭が漂い、道端に座り込む人々もトシロウたちが住んでいる地域よりもさらにみずぼらしく見えた。


 診療所から出てからしばらくの間、トシロウとアンバーは隣り合って歩いていた。


 すっかりアンバーに合わせてゆっくり歩くことに慣れたトシロウと、それに小走りでついていくアンバー。しかし、今日に限ってはアンバーの歩調はおぼつかないものだった。


「アンバー」


「何、トシロウ?」


「……運んでやろうか?」


 どう見ても体調が悪いのだろう。アンバーの顔はやはり青ざめている。アンバーはトシロウを見上げ、遠慮がちに頷いた。


「……うん」


 アンバーを抱き上げて、トシロウは歩いていく。アンバーは素直にそれに身を任せ、トシロウの肩にこてんと頭をつけていた。


「トシロウ」


「何だ」


「……この前の猿」


 少し考えて、あの製薬会社の一件だとトシロウは思い至る。だがあの猿がどうかしただろうか。アンバーは目を伏せて続けた。


「研究所にはきっと他の実験動物もいたよね」


 それはそうだろう。まさか実験動物が一匹なわけがない。


「あの子は他の子を置いて逃げてきたのかな」


 トシロウはようやくアンバーの言わんとするところを理解した。つまりアンバーは、あの猿に同情しているのだ。


「……トシロウ」


「何だ」


「例えばひどい目に遭っている仲間たちを置いて一人だけ逃げ出せるとして――トシロウはどうする?」


 猿のことだろうか。だがまるで自分のことのような言い種だ。だがトシロウは考えた末、自分の思っているままを答えることにした。


「逃げるだろうな。誰だっていつだって、大事なのは自分の身だ」


「……そう」


 小さく答えたきり、アンバーは口を閉ざした。トシロウもそれ以上何も聞かず、死んだような街を歩いていった。


 しばらくはそのまま湿った土を踏んで歩いていったトシロウだったが、とあるビルの前に辿りつくと、その中へと入っていった。ビルの中には地下へと繋がる階段がある。今はもう使われなくなって放棄された地下鉄の跡地だ。ここを通ると自宅への近道なのだ。


 通路に設けられた白熱電球がジジ、と音を立てる。トシロウはコンクリートの階段を慎重に降りていき、改札を乗り越えて、昔は駅のホームだった場所へと辿りついた。


 と、その時、トシロウの視界がぐらりと揺れた。頭にも鈍い痛みが走る。耐え切れずたたらを踏むも、咄嗟に抱えなおしたためアンバーの体は取り落さずに済んだ。


「ギャッ」


 同時にオウルバニーの方から小さく悲鳴が上がる。アンバーは背中に負ったオウルバニーを振り返った。


「どうしたの、オウルバニー」


「……何でもねえよ、ちょっとびっくりしただけさ」


 いつも通りの甲高い声が聞こえて、アンバーはほっと胸を撫で下ろし、トシロウに向き直る。


「トシロウも大丈夫?」


「あ、ああ。ちょっと眩暈を起こしただけだ」


 トシロウは体勢を立て直し、アンバーを抱えなおす。しかしその時、トシロウの背中に悍ましく冷たいものが走った。



『みつけた』



 勢いよく振り返ったトシロウの目には――青い目の少女の姿が一瞬映り、すぐに掻き消えていった。

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