第3話「アニマルパニック」 05
荒れ果てた部屋の中に沈黙が満ちる。トシロウもアンバーも動きを止めている。
いまだに驚きから脱し切れていない様子のトシロウを見て、407号はひょいと肩をすくめた。
「なんだなんだ、そう驚くことでもねえだろう。そこのぬいぐるみだって同じ原理で喋ってんじゃねえか」
トシロウは視線だけを動かして、アンバーの背負ったオウルバニーを見た。
「……今、その話する時か?」
オウルバニーは少しの沈黙の後に答え、それ以上何も語らなかった。語りたくないのか、語るべきではないと思っているのか。
「キキッ」
嘲笑うかのような猿の鳴き声が聞こえ、トシロウは前方に目を戻した。見ると、407号はカウンターを蹴って、店の外へと跳躍したところだった。
「待て!」
慌ててトシロウはその後を追おうとする。――が、踏みだした足首に何かが引っかかったような気がして、咄嗟に体をのけぞらせた。
ヒュン、と音を立てて何かが飛来し、トシロウの鼻先をかすめていく。勢いよく壁に刺さる矢。足元には細いワイヤー。それを辿った先には一丁のボウガンが。
「ブービートラップか……!?」
まさかあの猿が? ――有り得ない話ではない。相手は喋る猿だ。それぐらいの知能はあってもおかしくはない。
トシロウは首をめぐらせ、店内を見回した。よくよく目を凝らしてみなければ分からない位置に、何本ものワイヤーがしかけられている。きっとその全てが罠だ。俺たちは罠に囲まれている。
「アンバー」
名前を呼ぶと、心なしか緊張した様子のアンバーがこちらを見上げてくる、トシロウはそんなアンバーに厳しい目を向けた。
「ここで待ってろ。一歩も動くなよ」
「うん」
素直に頷いたのを確認すると、トシロウは銃を両手で構えながら、店の外へとゆっくり進んでいった。
ショッピングモールは、一階から三階まで吹き抜けになっていた。
止まったままのエスカレーターを上りながら振り返れば、中華料理屋の中からこちらを見上げてくるアンバーの姿が見える。言われた通り一歩も動いていないようだ。トシロウは前に視線を戻し、二階の様子を窺った。
あの猿、407号とかいったか。実験動物ということは様々な薬の実験に使われ、それに嫌気がさして逃げ出したのだろう。境遇を考えれば不憫と思えなくもないが――。
「チッ」
浮かびかけた感情を抑えこみ、トシロウは舌打ちをした。同情したところで仕事は変わらない。あの猿を見逃しでもすれば、報酬が貰えない上に、信用を失う可能性だってあるのだ。トシロウはぶんぶんと頭を振り、苛立たしげに声を張り上げた。
「猿、どこにいる!」
誰もいない空間に声が反響する。そう言われて答えるはずもないか、とトシロウが俯いたその時、軽い足音が背後から猛烈な勢いで近づいてきた。
「なっ……」
トシロウは慌てて振り返る。407号の笑顔が見えた。
渡り廊下の手すりから跳躍した407号は、トシロウの頭に着地すると、彼のかけていたサングラスを毟り取った。
「キキキッ」
「さ、猿テメェ返せっ!」
頭に血がのぼったトシロウは手をがむしゃらに動かして407号を捕まえようとする。しかし、そのことごとくをすりぬけ、407号は廊下の奥へと消えていった。
「逃がすかっ!」
冷静さを失ったトシロウは、慌ててそちらに足を踏み出そうとし――
『止まって』
――耳元で聞こえた女性の声に咄嗟に動きを止めた。
『上よ』
言われるがままに視線を動かし、前方を見上げる。そこには細いワイヤーがぴんと張られていた。あそこに勢いよく踏みこめば首が落ちていたかもしれない。トシロウは背中に寒いものが走るのを感じた。
そろそろと足を戻し、トシロウは辺りを見回した。やはりどこにも女性の姿はない。
「また幻聴が……」
トシロウは懐から取り出したジェムを噛み砕き、大きく深呼吸を数度した後、407号が消えていった方向に歩き出した。
『次は右』
――幻聴だ。
曲がり角に仕掛けられたワイヤーをまたいで通る。
『三歩先』
――幻聴だ幻聴だ!
歩みを止め、目を凝らす。足元にはワイヤー、その先には手榴弾が仕掛けられている。
『左手がひっかかりそうよ』
――違う、こんなものは幻聴だ!
柱にさりげなく巻き付けられた針金に、触れそうだった左手を引っ込めた。
『ほらもう追いつめた』
女性の声は幼子をあやすかのような響きで耳元に囁きかけてくる。407号はトシロウの目の前の突き当たり――三階の渡り廊下に座り込んでいた。
『ごめんなさいね、407号。代わりにあなたを逃がす手助けはしてあげるから』
――黙れ、幻覚め。
視界の端にちらつく白衣を睨みつけると、幻覚の女性は小さな笑い声とともに宙に消えていった。トシロウは改めて前方を見る。407号はこちらに背を向けて何かをしているようだった。
「追いかけっこはここまでだ。……一緒に来てもらうぞ」
トシロウは407号に銃口を向ける。407号はゆっくりと振り返る。その目元にはトシロウのサングラスがかけられていた。407号はサングラスを外しながら、にやりと笑った。
「そう、追いかけっこはここまでだ。だがお兄さん、アンタ一つ下手を打ったな」
「……何?」
「アンタはあのお嬢さんと離れるべきじゃなかった。――こういうことになるからな」
407号は手に持っていた金属製のクラッカーのようなものを掲げてみせた。トシロウの顔が強張る。
「こいつは起爆装置だ。本体の爆弾は――あそこさ」
顎で示された先には、吹き抜けを挟んだ向こう側の壁――アンバーが立っている場所の真上の壁があった。
「……アンバー!」
トシロウが叫ぶ。アンバーはこちらを見上げてきた。
「おっと、動くんじゃねえ。動いたらあのお嬢さんは『ぺしゃんこ』だぞ」
スイッチを掲げられ、トシロウは動きを止める。407号はもう片方の手でボウガンを持ち上げると、トシロウに向けた。
「じゃあな、お兄さん。恨むんなら、宝晶に関わった自分を恨みな」
「トシロウ!」
階下からアンバーが悲鳴を上げる。ボウガンの引き金が引かれる。――目の前で赤色がひらめいた。
「……人間ってどうしてそんなにどんくさいのかしら」
咄嗟につぶった目を開けると、トシロウめがけて放たれたボウガンの矢を、素手で受け止めたガーネットがそこにいた。
ガーネットは小さくため息を吐きながら流れるような動作で拳銃を持ち上げ、407号の肩を撃ち抜いた。
「ぎゃあああ!」
銃弾が命中し、肩が弾け、407号は起爆スイッチを取り落とす。ガーネットはふと階下に目をやると、緊張した面持ちでこちらを見上げてくるアンバーを見やった。
「ガーネット」
「……アンバー」
名を呼ばれたガーネットはひどく不愉快そうに顔を歪めて吐き捨てた。
「ただの採掘用のくせに人間みたいな顔しちゃって、バッカバカしい」
その呟きが聞こえたのか聞こえなかったのか、アンバーはガーネットを強い眼差しで見上げた。対するガーネットは興味を失ったかのようにフイと目を逸らし、407号へと歩み寄った。
「ここまでよ、407号。あなたの自由もこれでおしまい」
「……いいや、まだおしまいじゃないさ。俺は『俺』を逃がした。ジャンキーじゃなきゃあ届かない世界。広大で自由な『拡張現実』の地平にな」
痛みに呻きながらも407号は起き上がり、ガーネットにニヒルな笑みを向けた。それを見たガーネットは、興味なさそうに言い放った。
「そう。じゃあもうあなたは必要ないわね」
「ああ覚悟はできてるよ。この体にゃこだわらないさ」
荒い息のまま407号は壁に体をもたせかける。ガーネットは銃を持ち上げた。
「殺してあげる。407号」
ガーネットの銃が407号の額に当たる。
「慈悲をありがとよ、赤いジェムドールのお嬢さん」
407号は目を細めて笑った。
「ガーネット、待って!」
階下からアンバーが叫ぶ。直後、重い破裂音が響き、407号の体は床に倒れた。
ガーネットは顔に跳んだ返り血を拭うと、血まみれの猿の頭部を掴み上げて、咄嗟に動けずにいたトシロウに差し出した。
「あげる」
トシロウは何か言葉を発しようとしたが、その前にガーネットは猿をトシロウに向かって投げつけると、開かれていた窓から跳躍し、姿を消した。
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