第3話「アニマルパニック」 02
「まったく、ヒヤヒヤさせる……」
マフィアの邸宅を出てしばらく歩いた頃、トシロウはしかめっ面でそう言った。アンバーはそんなトシロウの顔をおずおずと見上げる。
「怒ってる?」
「少しな」
「……ごめんなさい」
アンバーは謝りながら俯く。そんなアンバーを、腕の中のオウルバニーはからかってきた。
「やーい怒られてやんのー」
「む……」
少しだけムッとした様子のアンバーは、右手で拳を作ってオウルバニーの顔面にぐりぐりとめり込ませた。
「痛い痛い痛い! 何しやがる!」
「オウルバニーうるさい」
「お前のせいだろうが!」
うがーっとがなり立てるオウルバニーをアンバーは膨れた顔のまま抱きしめる。
「ったく、そういうとこロリコン野郎に似てきやがって……」
「誰がロリコンだ。ドブ川に捨てられたいのか」
「ウルセーッ! ロリコンにロリコンって言って何が悪いんだよ! ギャーッ! アンバー引っ張るな! 千切れる千切れる!」
騒がしく人通りのない道を通り抜け、大通りに入るとオウルバニーはいつも通り黙り込んだ。アンバーはオウルバニーを抱きながら、トシロウの持つアタッシュケースに目をやった。
「トシロウ」
「なんだ」
「中身、何だろうね」
「……ああ、この荷物のことか」
トシロウもアタッシュケースへと視線を送る。アタッシュケースにはナンバー錠が取り付けられており、トシロウたちには絶対に開けることができないようになっている。
「興味は持たない方がいいぞ。死にたくないならな」
「……気になる」
アンバーは右手の手の平をアタッシュケースへとつけた。ひんやりとした金属の感触がする。
「おい、アンバー……っ!?」
一瞬視界が揺れた気がして、トシロウはたたらを踏んだ。アタッシュケースに手を付けていたアンバーも、目を見開いて硬直している。
立ち止まる二人には目もくれず、雑踏は二人を避けて歩いていく。アンバーの手からオウルバニーが零れ落ちた。
とさっと、ぬいぐるみが地面に落ちる軽い音で、トシロウはやっと正気を取り戻した。止めていた息を吸い込み、吐き出す。見下ろすと、アンバーは自分の左胸を押さえて浅く息をしていた。
「アンバー、どうした」
「……なんでも、ない」
アンバーは震える声で答える。咄嗟にトシロウは、懐からタブレットケースを取り出した。
「ジェムの禁断症状か?」
「違う。でも、飲む」
アンバーは大きな錠剤を一粒受け取ると、口の中に放り込んで飲み下した。
薄暗い大通りを、トシロウとアンバーは歩いていく。トシロウの目元にはサイバーサングラスがかけられ、目的地への道順が示されている。隣のアンバーの首にもサングラスがぶら下げられ、両手ではオウルバニーをしっかり抱きかかえていた。
トシロウは道順を睨みつけながらしばらく歩いていたが、ふと傍らのアンバーに視線をやった。
「アンバー」
「うん」
「大丈夫か?」
アンバーは一瞬何を聞かれているのか分からなかったようだが、すぐに先ほどの発作のことだと理解し、逆にトシロウに問い返した。
「心配してくれてる?」
「……それなりにな」
視線を逸らしながらの言葉に、アンバーは何故か頬の筋肉が緩むのを止められなかった。
「なんだその顔は」
トシロウに奇妙なものを見る目を向けられ、アンバーはオウルバニーの後頭部に顔を埋める。オウルバニーは耐え切れないといった様子で叫んだ。
「うわっ、なんだこの空気。きもちわるっ!」
「だまって、オウルバニー」
アンバーはオウルバニーの首を腕でぎゅっと抱きしめた。腕の中で、ぐえ、と間抜けな声がした。
そのままオウルバニーを虐げながら歩いていくと、二人は即席のバリケードが道を塞いでいるのに行きあった。それほど広い道でもないので、道行く人はバリケードを一瞥しては、通り過ぎていく。トシロウはサングラスを外して奥を見やった。
「何か事件でもあったのか……?」
「こら、そこの二人―」
聞き覚えのある声がバリケードの隅の方から響いてくる。
「今ここは封鎖中だぞ。上のお達しでな」
「ヨシュア」
トシロウと既知の中の警察官、ヨシュアが警棒を軽く振りながら近づいてきた。トシロウはヨシュアに歩み寄った。
「何かあったのか?」
「さあ? 俺たちはただ、ここを封鎖しろとしか言われてないんだ」
他の警察官が離れた場所にいることをいいことに、ヨシュアは今の状況をぺらぺらと喋り出した。
「なんで封鎖されてるのかも分からない上に、いつ解除されるかも分からん」
木製のバリケードに腰かけて、ヨシュアはハァとため息を吐く。
「昼も近いのになあ」
そう言ってうなだれるヨシュアの腹がぐうと鳴った。アンバーは咄嗟に自分の腹を押さえ、自分の腹の音ではないことを確認するとホッとした表情になった。
「というわけでここは通せない。他を当たってくれ」
ひらひらと手を振るヨシュアにトシロウは考え込む。
宝晶製薬のビルに行くには、この道が最短ルートだ。他に道がない訳ではないが、かなりの遠回りになる。他のルートに行くのはあまりに面倒だ。トシロウは腹を押さえるアンバーを見下ろして、顔を近づけた。
「……アンバー」
「何、トシロウ?」
「今から俺の言うとおりのことをアイツに言ってこい」
アンバーの耳元で何事かを囁く。アンバーはそれを、背伸びをして聞き終わると、ヨシュアに走り寄り、彼の服の裾を引っ張った。
「ヨシュアさん」
うなだれていたヨシュアが顔を上げる。アンバーはそんな彼の顔を見上げて、トシロウに言われた通りの言葉を無表情のままに言い放った。
「漏れちゃう」
「へ?」
「トイレ探してるの。一番近いのがこの中なの」
顔を引きつらせて混乱するヨシュアに、アンバーはさらに畳みかける。
「ヨシュアさん、お願い」
いたいけな少女に縋られ、ヨシュアはトシロウに向かって声を荒げた。
「ひ、卑怯だぞトシロウ」
「何のことだが分からないな」
飄々と言うトシロウに、「お前いつか本当にしょっぴいてやるからな」とヨシュアは歯噛みする。そうしてうーんと考え込み、アンバーを見て、トシロウを見て、それから両手を上げてぱっぱっと振るった。
「駄目だ駄目だ! 入れられるわけないだろ! 何のために見張ってると思ってんだ!」
「だったらお前もついてこい。んでもって、俺たちを見張れ。それでいいだろう?」
トシロウの提案に、ヨシュアはぐっと言葉に詰まる。タイミングよく、アンバーはヨシュアの裾を引っ張った。
「……ヨシュアさん」
「あーもう、分かったよ! 通せばいいんだろ通せば!」
頭をわしわしと掻いて、ヨシュアは二人をバリケードの中に通した。周囲の警察官たちに一声かけると、既に奥へと歩いていってしまっている二人を追い掛ける。
「それで、どこに行くんだ」
アンバーは目をぱちくりさせてヨシュアを見た。ヨシュアは心底うんざりした顔をして答える。
「トイレだなんて嘘だろう」
「なんだ気付いてたのか」
「騙されるかよそんなもん」
あーあ、とヨシュアはため息をついた。トシロウはかすかに笑ったようだった。
「泣きたくなるほどお人好しだな、お前は」
「うっせえ。――で、どこに行くんだ?」
「言う必要はない」
「ああ?」
苛立った声を出すヨシュアを見上げて、アンバーはあっさりと行き先をバラした。
「宝晶製薬に行くの。それを届けに」
「……アンバー」
トシロウの咎める声に、アンバーは身を竦ませる。ヨシュアはトシロウの持つアタッシュケースを見て、眉根を寄せた。
「またマフィアどもの使いっぱしりか」
「お前には関係ないだろう」
つっけんどんにそう言うトシロウに、ヨシュアは彼の目をじっと見つめて問うた。
「トシロウお前、いつまでそんなこと続けるつもりだ?」
「何のことだか分からないな」
目を逸らしたままトシロウは答える。ヨシュアもそれ以上は聞かなかった。
しばらくの間はそのまま無言で歩いていったが、ふとあることに気がついたアンバーはヨシュアの胸ポケットを指さした。
「タブレット」
「ん?」
「トシロウと同じケース」
「ああ、ジェムの錠剤のことか」
ヨシュアは胸ポケットからタブレットケースを取り出してみせた。アンバーの言った通り、トシロウと同じ型のケースだ。アンバーは小さく首を傾げたあと、素朴な疑問を口にした。
「ヨシュアもジャンキーなの?」
「あー、まあそうなるな」
「警察なのに?」
ジェムは、一応は合法薬物だ。だが、その乱用は褒められたものではない、とアンバーはトシロウに教わっていた。ヨシュアはケースをポケットの中にしまったあと、右手の手袋を取ってみせた。そこには柔らかな肌はなく、鋼鉄でできた銀色の手があった。
「俺にはこれがあるからな」
「ぎんいろ」
「ただの義手だよ。珍しくもない」
ヨシュアはアンバーに見えるように、ひらひらと義手を振ってみせる。
「ジェムには脳信号を増幅させる効能があるからな。義手との神経伝達率を上げるのにはもってこいなんだよ」
アンバーはそれを興味深そうに見上げ、ヨシュアに言った。
「義手」
「うん?」
「かっこいいね」
「おお、だろ? 俺も結構気に入って――」
「アンバー」
ヨシュアの話を遮り、トシロウはアンバーの名前を呼んだ。アンバーが振り向くと、トシロウは一瞬こちらを見た後、すぐに前を向いて大股で歩きだしてしまった。
「行くぞ、アンバー」
「あ、おい!」
ヨシュアが追いすがるも、トシロウは振り向かない。
駆け足で追いつき、低い位置から見上げたトシロウは、今まで見た中で一番恐ろしい顔をしていた。
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