第3話「アニマルパニック」 03

 屋台で適当に昼を済ませ、トシロウたちは目的地に向かって歩いていった。

 道中、トシロウはほとんど言葉を発しなかった。空にはいつも通り暗雲が立ち込め、雨の匂いがし始めている。


 アンバーは何度もトシロウの顔を窺ったが、サイバーサングラスに隠されたそれは容易には読み取れそうになかった。ただ、機嫌がいいわけではないのだろう。普段はあれほど騒がしいオウルバニーすらも、その雰囲気を察知して静かに黙り込んでいた。


 やがて二人が辿りついたのは、真っ白な高層ビルだった。そのビルにはほとんど窓がなく、この街には似つかわしくない清潔な色をしているくせに、どことなく怪しい雰囲気を醸し出してもいた。


「ここが目的地?」


「ああ」


 二人はその真っ白なビル――宝晶製薬の本社ビルを正面から見上げた。相変わらずトシロウの機嫌は直らないようで、アンバーへの返事も言葉少なだ。――と、その時、不意にアンバーは身を強張らせ、咄嗟にトシロウの服の裾を掴んだ。


「どうした」


 トシロウが視線だけで見下ろすと、アンバーは服の裾を握りしめながらかすかに震えているようだった。


「……ここ、いやな感じがする」


 見上げて訴えてくるアンバーに対し、何かに気付いた様子のトシロウはおもむろに懐からハンカチを取り出した。


 ハンカチをアンバーの口に押し付けてぐりぐりと拭う。突然の奇行にきょとんとしているアンバーに、トシロウはハンカチを離しながら言った。


「汚れてたぞ」


 アンバーは口元を押さえる。どうやらさっきの屋台で食べたケバブのソースが口についていたようだ。


「……ありがとう」


 素直に礼を言うと、トシロウは少しばかり纏う雰囲気を和らげたようだった。


「ここで待っているか?」


「ううん」


 トシロウの提案に、アンバーは首を横に振った。


「トシロウと一緒に行く」


「そうか」


 服の裾を離すと、トシロウは本社ビルの裏口へと歩いていった。アンバーもその後を追う。


 ビルの裏口は正面と同じく、清潔にできていた。何の装飾もないドアの横には端末が置かれ、指紋認証と網膜認証がなければ中に入れないようになっている。トシロウがインターホンを押してカーネからの荷物だと名乗ると、しばしの沈黙の後、ドアは音もなく開かれた。


 ――その途端、トシロウの目の前には白い空間が広がっていた。


『あら』


 硬直するトシロウの前に、いつかも出会った女性が立つ。あの、白衣を着た女性だ。


『こ……にも来……のね』


 女性の声はノイズ交じりでよく聞き取れない。その体も細かに明滅し、まるで投影された映像のようだった。


「誰だお前は。ここはどこだ」


 その疑問には答えないまま、こちらに音もなく歩み寄ってきた女性に腕を伸ばされ、トシロウは後ずさる。女性はそれを見て寂しそうに笑った。


『折角……を逃が……たのに』


「――トシロウ?」


 幼い声が傍らから響き、トシロウはハッと意識を取り戻した。見下ろすと心配そうな顔をしたアンバーがこちらを見上げていた。


 前方に視線を戻す。だがそこにあるのは何の変哲もない廊下だ。たしかにその廊下の壁や床は白くはあるが、今見ていたあの空間とは全く違う。


 なんだ今のは。――幻覚か?


 今日飲んだ薬の量を思い出す。タブレットケースを取り出し、残量を確認する。……少し飲みすぎたのかもしれない。


 ケースを懐にしまい込み、トシロウはアンバーに声をかけた。


「なんでもない。行くぞ」


「うん」


 アンバーは少し気遣わしげな視線をトシロウに向けた後、頷いた。


 自動ドアをくぐった二人は清潔な廊下を歩いていく。すると、一人の研究員が奥から出てきて、二人をある部屋へと通した。


「よくいらっしゃいました! お待ちしておりましたよ!」


 にこにこと人好きのする笑みを浮かべるその男に、トシロウはアタッシュケースを差し出した。


「荷物はこれだ。中身を確認するか?」


 中身がすり替えられていないか確認するか、という意味だ。研究員は笑顔で首を横に振った。


「いえいえ、あなたがたを信用しますよ。たしかに中身は貴重なものですが、カーネさんのところの方がネコババをするとも思えませんし」


 研究員がアタッシュケースを受け取ると、アンバーはそれを興味深そうに見つめ、研究員の顔を見上げた。


「何が入ってるの?」


「おい、アンバー!」


 トシロウが声を荒げる。アンバーは首をすくめたが、逆に研究員は嬉しそうな顔をして二人に食いついた。


「よくぞ聞いてくれました!」


 その勢いに二人は思わずのけぞったが、研究員はそれには構わず喋りはじめた。


「お二人はジェムが鉱石の粉末から抽出されているということはご存じですか? ご存知ですか! そうですか! あのジェムというやつはですね、人体に取り込むと脳に作用して精神活動を拡大――つまり脳信号を増幅して、たとえばサイバーサングラスで受信しやすくするという働きがあるんですがね。実は、鉱石の状態のジェムにも似たような性質があることが分かっているんです! そもそも錠剤のジェムは、錠剤の中に含まれる特殊な成分が作用しているというよりは、ジェムから放射される特殊な粒子を体内から取り込んで――まあつまり放射性物質で被曝して、脳神経の変容を促しているんですね。この特殊な粒子は当然鉱石のジェムからも放射されている。しかも、その中で鉱石自体に対して作用して、脳と同じような機能を鉱石の中に作り出しているのです!」


「……はあ」


 トシロウは珍しく目を白黒させて狼狽えていた。その様子を見たアンバーは、据わった目で研究員に言った。


「もっと分かりやすく」


 研究員は我に返ったようで、頭の後ろを掻きながら説明を続けた。


「ああ、すみません。つまりですね、鉱石のジェムというのは、それ自体が一個の脳、ないしはサーバーや演算装置といったコンピューターとして動かすことができるものなのです!」


 堂々と言い放った研究員に、二人は圧倒されて後ずさる。そんな二人に、研究員は茶目っ気たっぷりにウインクをした。


「あっ、私が喋ったということは内緒ですよ? 社外秘なので! 一応!」


「……そうか」


「口が軽いんだね」


「いやあそれほどでも」


 容赦ないアンバーの言葉に、研究員は何故か照れ笑いをした。


「物は渡したぞ。もう帰ってもいいな?」


「ああはい、もちろん! どうもありがとうございました!」


 にこにこと笑う研究員に背を向け、トシロウとアンバーは部屋から出ようとする。しかしそんな二人の前に、一人の黒服の男性が立ちふさがった。


「――トシロウさんですね?」


「そうだが何か?」


 トシロウが目を細めて男を睨みつけると、男は丁寧な口調で、しかし目は笑わないままに切り出した。


「あなたに折り入ってご依頼したいことがあるのです」


「それは――あんた個人の依頼か?」


「いいえ、宝晶製薬としての依頼ですよ」


 それを聞いたトシロウは、男を睨みつけたまま面倒臭そうに言った。


「じゃあ拒否権はないのと同じだな」


「そう言わないでくださいよ、カーネ・ファミリーの飼い犬さん」


 トシロウはびくりと体を強張らせた。こいつはカーネがマフィアだということを知っている。――ということは、当然依頼というのも、普通のものではないだろう。少なくとも『おつかい』のような平和なものではないはずだ。


「もちろん報酬は用意しますとも」


「……聞こう」


「ありがとうございます」


 言いながら男は目を細めた。だが笑っているわけではない。トシロウはその目をまっすぐに睨み返した。


「実は当社で開発していた薬の実験動物が逃げ出してしまいまして」


「それを捕まえろと?」


「話が早くて助かります」


 男は大きく頷き、目は笑わないままに口角を上げた。


「捕まえてくださるのなら生死は問いませんが……できれば生かして連れ帰ってくださると嬉しいですね。実験に再利用できますし」


 その言葉にトシロウは眉根を寄せた。


 今更、倫理がどうとか言うつもりもないが、反吐が出るような言葉だということには変わりはない。


 そんなトシロウをよそに、男はまだそこにいた研究員に呼びかけた。


「……フェデリコ」


「は、はい!」


 フェデリコと呼ばれた研究員は、アタッシュケースを抱きしめながら小さく飛び上がった。男はそれを明らかに見下した目で見てから、トシロウたちをとんとんと指さした。


「407号の発信機の情報をこちらの方に送っておくように」


「わ、わかりました!」


 フェデリコは何故か敬礼してそれに応える。黒服の男はフンと鼻を鳴らし、部屋から出ていった。


「怖かった……」


 フェデリコはホッと胸を撫で下ろした。


 こいつは裏のことなんて何も知らないただの研究員だったろうに、災難な……。


 トシロウは、彼にしては珍しく、フェデリコに同情していた。フェデリコはそんな視線を受けているとはつゆにも思わず、サイバーサングラスを取り出して、トシロウに向けた。


「あ、今そちらに送りますね」


 トシロウがサイバーサングラスをかけると、フェデリコのアドレスから位置情報と標的の詳細が送られてくる。


 それを確認するとトシロウは踵を返して部屋を出ていった。続いてアンバーが部屋を出ようとし――立ち止まってフェデリコに手を振った。フェデリコはだらしない顔をして笑い、それに手を振り返した。







 アンバーが追いつくと、トシロウはもう社屋の外に出ようとしているところだった。


 来たとき同様、音もなく自動ドアが開く。トシロウは開かれたドアの外に足を踏み出そうとし――


『もう来ちゃ駄目よ』


 耳元ではっきりと聞こえた声に、トシロウは勢いよく振り返る。視界の端に白衣がひらめいたように見えた。


「トシロウ?」


 アンバーがトシロウの変化に気付き、声をかける。しかしトシロウは背後を凝視したまま動かなかった。


 何だ今のは。ただの幻覚だ。いや、それにしてはリアルすぎた。あいつは誰だ。あいつは白い世界に出てくるんじゃなかったのか。どうして現実に出てきている。どうして俺の前に現れる。


 ぐるぐると回る思考がまとめられず、トシロウは硬直していた。心拍数が跳ね上がる。手が震える。首に汗が伝う。


「トシロウ!」


 強く手を引っ張られ、トシロウは我に返った。見下ろすとアンバーがトシロウの手を握ってこちらを見上げてきている。


「どうしたの?」


 触れた手の平からアンバーの体温が伝わってくる。心臓の音が収まってくる。トシロウは頭を振って白衣の女の幻影を振り払った。


「いや、なんでもない」


 アンバーに握られていた手を放させ、トシロウは目的地に向けて歩き出した。アンバーは慌ててその後ろをついてくる。


「トシロウ」


「なんだ」


「実験動物を捕まえるんだよね」


「そうだ」


「……それってどんな子?」


 捕獲対象の実験動物。その情報をサングラスの中に表示し、トシロウは答えた。


「体長40センチ程度の――猿だ」

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