第3話「アニマルパニック」

第3話「アニマルパニック」 01

 気付くとトシロウは白い空間に一人、立っていた。


 見覚えのある場所だ。ぼんやりと霞がかかっていた思考が徐々にはっきりしていく。


「あら、また来たのね」


 振り返るとそこにいたのは白衣の女性だった。見覚えのある女性だ。彼女はトシロウに優しい微笑みを向けた。


「まあお座りなさいな。立ちっぱなしも疲れるでしょう?」


 女性が指し示した先には、小さな机と二脚の可愛らしい椅子があった。机の上にはカップとソーサーが置かれ、その隣にはティーフーズの段もある。


「お茶もケーキもあるわよ」


 ここはどこだ。彼女は誰だ。トシロウは白衣の女性を睨みつけた。


「何者かも分からない奴の前でくつろぐ勇気はないな」


「疑り深いのね。でもそれぐらいでちょうどいいわ」


 女性は椅子の背に手を置きながら、肩をすくめてみせた。


「ここは、まだあなたに馴染んでいないようだし」


「馴染む……?」


 どういう意味だ。この場所はどこなんだ。トシロウの疑問には答えないまま、女性は首を傾けた。


「またおいでなさいな。この、『拡張された現実』に」






 


 どうやらまたサイバーサングラスをかけたまま寝ていたらしい。トシロウは体を起こしながら、いつも通り錠剤を口に含んで噛み砕いた。喉の渇きを覚え、立ち上がる。すると足元にオウルバニーがまとわりついてきた。


「よう! 寝ぼすけロリコン野郎! 朝飯ならもうできてるぞ! 冷めないうちにさっさと食えよ!」


「ああ……、んん?」


 今、何と言ったこの人形は。


 毎度の如くロリコン呼ばわりしてきたオウルバニーの頭を鷲掴みながら、トシロウは足を止めた。部屋に備え付けられた簡素な台所からは、匂いが漂ってくる。具体的に言うと、何かが焦げるような匂いが。


 慌てて台所に向かうと、ちょうど台所から出てきたアンバーと鉢合わせた。試行錯誤の結果だろうか。アンバーの鼻の辺りには黒い汚れがべっとりついている。


「作った」


「……そうか」


「食べて」


「あ、ああ」


 ようやく『食べる』という言い方が定着したのか。今までは『経口摂取』だったからな。


 的外れな感心を覚えながら、トシロウは促されるままに席に着く。机の上には『禍々しい』としか言いようのない物体が置かれていた。おそらくはこれがオウルバニーの言っていた朝飯というやつだろう。


 これを食べるのか――


 気の遠くなる思いがしたが、向けられる少女の眼差しを無下にできるほど、トシロウは冷血漢でもなかった。


 おそるおそる口に運び、咀嚼する。アンバーはトシロウの顔を覗きこんだ。


「どう?」


「……見た目よりはうまい」


「よかった」


 アンバーは心なしかホッとした顔をした。トシロウは二口目を口に運びながら尋ねた。


「どうして料理なんてしようと思ったんだ」


「サングラスのお礼」


 ああ、とトシロウはその原因に思い至る。先日暴漢によって壊されてしまったサングラスを、昨日改めてアンバーに買い与えたのだ。


「そんなに気に入ったのか」


「ううん」


 アンバーはトシロウを見上げて、嬉しそうに微笑んだ。


「トシロウが買ってくれたから」


 その表情に面食らったトシロウは咄嗟に何も言い返せなかった。朝飯を食べていたフォークも止めて硬直していると、アンバーは首を傾げてくる。


「トシロウ?」


 固まっていたトシロウはハッと正気付き、誤魔化すように視線を逸らした。


「……何でもない。お前は食べないのか」


「食べる」


 台所から自分の分の皿を持ってきて、アンバーはトシロウの向かいに座る。ちまちまとフォークを動かすアンバーをよそに、ふと何かに気付いたトシロウはフォークをくわえたまま、冷蔵庫へと歩いていった。


「行儀が悪いぞ、ロリコン」


「黙れオウルバニー」


 口をもごもごさせながら答え、背の低い冷蔵庫の前にしゃがみこむ。その中から取り出してきたのは、例のジェムの原石だった。


「今日はこれを卸しにいく約束だからな」


「削って売るの?」


「そうだ」


 トシロウは運んできた原石の包み紙を剥がし――違和感に首を傾げた。


「……なんか、大きくなってないか?」


 フォークを置きながら、トシロウは改めて原石を持ち上げる。記憶が正しければ、先日削ったはずの傷がなくなっている気がする。


「何言ってんだ、気のせいだろ」


「気のせい」


「気のせい、か……?」


 訝しげなトシロウの視線を受け止めて、ジェムの原石は妖しくきらめいた。







 木製の階段をぎしぎしと鳴らしながら階下に降りる。酒場に続くドアを開けると、カウンターの中ではユェンが昨夜やり残した後片付けをしていた。そんなユェンに軽い足取りで歩み寄り、アンバーは無表情ながら柔らかい声色で挨拶をした。


「おはよう、ユェン」


「今日は早いな二人とも。デートか?」


 息をするように茶化してくるユェンをトシロウはむすっと睨みつける。アンバーは首を横に振った。


「違う。お仕事」


「そうか。いつも偉いな、こいつのお守りは大変だろう」


 まるで自分の方が世話されているように言われ、トシロウは眉間のしわを深くする。ユェンは声を上げて笑った。


「行くぞ、アンバー」


「うん」


 アンバーはトシロウの傍らに歩み寄り、ユェンを振り返って小さく手を振った。


「いってきます」


「……いってくる」


「おう。いってらっしゃい」


 ユェンの声に見送られて、『Jeweler』を後にする。いってらっしゃい、か。こんな挨拶をしたのなんていつぶりだろう。どうにもむず痒い思いがしてトシロウは口の端をほんの少しだけ持ち上げた。


「……トシロウ、うれしそう?」


「気のせいだ」


「おやおやおやロリコンくぅん? そんなに人との触れ合いに飢えてたのかあ?」


「うるさい黙れオウルバニー!」


 胸をよぎった感情を誤魔化すように、トシロウは歩くスピードを上げた。その後ろをアンバーは小走りでついていった。







「数日ぶりです。ドン・カーネ」


「おお、よく来たね。さ、お嬢ちゃん、おじいちゃんのところにおいで」


 ドン・カーネの邸宅を訪れたトシロウたちは、再びドンの部屋へと招かれていた。ドンは前回と同じくアンバーを手招いたが、アンバーはトシロウの足に隠れて動こうとしない。


「……アンバー」


 トシロウはアンバーを咎める声を上げたが、ドンは寂しそうに笑って、それを制した。


「いや、いいんだよトシロウ。そうか……嫌われてしまったみたいだね……」


 がっくりと肩を落とすドンに、トシロウは冷や汗を垂らす。怒りを買わなくて本当に良かった。こんな飄々としているが、この人は大マフィアのドンなのだ。


 それ以上この話題が続く前にと、トシロウは懐から例の原石の欠片を取り出した。


「ドン、約束通りのジェムの原石です」


「おお、そうだったそうだった」


 片手を軽く上げて、側近の男に受け取りに来させる。トシロウは男に欠片を手渡した。


「代金は原石の鑑定の後、若い衆に持っていかせよう。それでいいね?」


 ゆったりと足を組んでドンは尋ねる。トシロウは首肯し、それに答えた。


「はい、もちろんです」


「そうかそうか」


 ドンはにこにこと微笑んで何度も頷いた。そしてそのまま退出しようとするトシロウを呼び止めた。


「そうだトシロウ。もののついでだ、一つ頼まれごとをしてくれないか?」


「頼まれごと、ですか?」


 立ち止まり、トシロウはドンに向き合う。ドンは再び軽く手を上げて、部下に指示をした。


「持っておいで」


「はっ」


 待つこと数分、部下の男が持ってきたのは銀色のアタッシュケースだった。何のことはない。いつも通りのおつかいの仕事だ。ドンはアタッシュケースをトシロウに渡させながら、その届け先を告げた。


「これを宝晶製薬まで届けてほしいのだ」


 思わぬ大物の名前に、トシロウは目を見開いた。


 ――宝晶製薬。独占的なジェムの売買で莫大な利益を上げている、この街きっての大企業だ。そんな大企業にマフィアが何の用なのか。


 アンバーは目の前にやってきたアタッシュケースをぺたぺたと触り、座ったままのドンへと尋ねた。


「何が入ってるの?」


 ドンはそれまでの優しそうな顔から一変、酷薄な笑みを浮かべてみせた。


「君たちは知らなくてもいいことだよ、お嬢ちゃん」


 びくりと体を震わせ、アンバーはトシロウの後ろに隠れた。ドンはころりと表情を変え、ははは、と穏やかに笑ってみせた。


「ああそれから、次のジェムの卸しの日だがね。十日後は私は留守にしているから、それ以外の日においで」


 トシロウの後ろに隠れていたアンバーは、再び顔を出してドンに尋ねた。


「どこかに行くの?」


「アンバー!」


 トシロウがアンバーを咎める。ドンはゆったりと背もたれに体を預け、答えた。


「少し、大事な会合があるんだよ」

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