第2話「楽しい社会科見学」 04
アンバーを引きずるようにして、トシロウは道を急ぐ。何度も転びそうになりながらアンバーは尋ねた。
「どうしたの、トシロウ」
「……じきにヤクザの追手がかかる。その前に逃げるぞ」
「はぁ? 追手って、さっきのあれのせいかよ! この考えなし!」
「黙ってろ、オウルバニー」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ出したオウルバニーを一蹴し、トシロウは角を曲がる。背後で車が止まり、複数の足音が慌ただしく降りてくるのが聞こえた。
「早いな……」
さては組織の上役に顔が効く奴だったか。あんなに三下然としていたというのに、人は見かけによらないものだ。
トシロウは舌打ちしたくなるのをこらえながら、アンバーの腰を掴み、片腕で抱え上げた。
「わっ」
「大人しくしてろ」
言うが早いかトシロウはぐんと走るスピードを上げた。背後からは相変わらず足音が追ってくる。トシロウはやみくもに走ったが、どうあっても足音はトシロウの後ろについてくる。
「しつこい……!」
トシロウは腕の中のアンバーを見下ろした。ことを荒げてもいいが、そうなるとアンバーが狙われるのは必定だ。
「――二手に分かれるか」
トシロウは大人一人がやっと通れるほどの狭い路地に走り込むと、そこに置いてあった大きなダストボックスの蓋を開け、その中にアンバーを放り込んだ。
「きゃっ」
「いってぇ! 何しやがる!」
ゴミまみれになるアンバーとオウルバニーを覗きこみ、トシロウは早口で言った。
「お前らはそこで待ってろ。いいか、絶対に出てくるんじゃないぞ」
「は? ちょっと待っ……」
返事も聞かずにダストボックスの蓋を閉め、トシロウは元来た道を――追手が来ている方に向かって走り出した。自然と追手はトシロウを追いかけていく。取り残されたアンバーの付近からは、徐々に足音は遠ざかっていった。
最近訪れていなかったとはいえ、この辺りの地理は頭に入っていた。
テントの幕を巻き上げ、浮浪者の茶碗をひっくり返し、眠っていた猫を起こして、トシロウは走っていく。あえてヤクザたちに接近したトシロウは、複雑に入り組んだ路地を走り抜け、彼らを混乱させて撒いていった。
やがて背後の足音も怒声も聞こえなくなってきた頃になって、トシロウは立ち止まり、息を整えた。
「撒いたか……?」
振り返ってもそこには誰もいない。表通りではまだ捜索が続いているかもしれないが、ひとまずはこれで安心できそうだ。
ほとぼりが冷めたらアンバーたちを迎えに行こう。肩の力を抜いたトシロウは壁に背中を預けようとし――ある感覚に襲われて体をこわばらせた。
首の後ろがちりちりと焼ける感覚がある。誰かがこちらを見ている。……殺意を持った誰かが。
「――奴らじゃ、ない?」
声に出してみて確信する。これはヤクザたちのものではない。もっと、殺意を隠すのが上手い獣の視線だ。
「誰だ!」
銃に手をかけて誰何する。しばしの沈黙の後、こつこつと硬い足音がトシロウに近付いてきた。
「私に気付くなんて、あなた割と勘がいいのね」
「なっ……!」
トシロウの前に現れたのは、つい数時間前に出会ったあの真っ赤な髪の少女だった。少女は真っ赤な靴をこつこつと鳴らしながら、トシロウに歩み寄り、トシロウの数歩手前で立ち止まった。
「改めてこんにちは。私はガーネット。あなたを殺しに来たの」
少女、ガーネットの言葉にトシロウは絶句した。そんなこと、こんな小さい子供が言うべき台詞ではない。
だが口元に浮かべた艶やかな笑みとは裏腹に、向けられる殺意は本物だ。トシロウは手の平に汗をかきながら、手の中の銃を握りこんだ。
「じゃあ挨拶も済ませたことだし。……死にましょうか」
ガーネットは後ろに背負ったぬいぐるみのリュックサックから、素早く大ぶりの拳銃を取り出してくる。トシロウはその銃口が自分に向くことを察知し、慌てて転がるように横に跳んだ。
重い銃声が三発。
その全てを何とか回避し這いつくばる姿勢となったトシロウは、その姿勢のまま地面を蹴ってガーネットへと飛びかかった。
左手でガーネットの銃を押さえ、右手で自分の銃をガーネットに突きつける。銃を持っているとはいえ、相手は子供だ。成人男性の腕力にかなうはずがない。
「こんな子供が刺客とは世も末だな」
「あらそう、それはどうも?」
ガーネットは特に気分を害した様子もなく、トシロウに微笑みかけ、銃を持っている方の手に力を込めはじめた。
ぎりぎりと、押さえていたはずの左手が力ずくで持ち上がっていく。
「なっ!?」
徐々に銃はガーネットに引き寄せられ、銃口がトシロウに向いていく。トシロウは右手に構えていた銃を構え――目の前の幼い子供の姿に、咄嗟に引き金を引けなかった。
「撃たないの? 優しいのね」
ガーネットが引き金を引く直前、トシロウは飛び退ってそれをかわした。しかしガーネットはそんなトシロウとの距離を一気に詰めると、手にしていた銃の底でトシロウのこめかみを思い切り殴りつけた。
「がっ……」
すさまじい力で殴りつけられ、トシロウは地面に倒れ伏す。脳が揺らされたようで、視界がぶれて手足に力が入らない。ガーネットはトシロウに歩み寄ると、銃口をトシロウの額につけた。
「さようなら、優しいお兄さん」
トシロウはきつく目をつぶって与えられるであろう衝撃を待った。――しかし、いつまで経っても銃弾は額に食い込んでこない。トシロウが顔を上げると、揺れる視界の中でガーネットが不機嫌そうに背後に話しかけていた。
「なに? 殺しちゃ駄目なの?」
ガーネットは背負ったぬいぐるみに向けて喋りかけているようだった。トシロウにもかすかにその声が聞こえるような気がしたが、何を言っているかまでは聞き取れない。
やがて納得したのかさせられたのか、ガーネットは銃を下ろし、トシロウを見下ろした。
「命拾いしたわね、お兄さん」
そう言い捨てると、ガーネットは来た時同様に、こつこつと靴を鳴らして立ち去っていった。トシロウはこめかみの辺りから流れる血を押さえ、なんとか立ち上がった。
「なん、だったんだ……」
状況がつかめず混乱するトシロウだったが、そのほんの数十秒後にばたばたと慌ただしい足音が近づいてきていることに気がつき、なんとか体勢を立て直そうとした。
しかしトシロウが脳震盪から回復しきるよりも、足音の主――トシロウを追ってきていたヤクザたちがトシロウを取り囲むほうが早かった。
さっきの銃声でここが知れたか。
トシロウは両手を上げて、ヤクザたちにホールドアップをした。
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