第2話「楽しい社会科見学」 03

 マーケットを後にしたトシロウとアンバーは、華僑街へと向かっていた。


 昼頃を過ぎ、霧は徐々に濃くなってきている。空に立ちこめる雲は徐々に黒色を増し、小雨が降り始める。トシロウはアンバーの服を引っ張って、フードをかぶせてやった。


「家に戻るの?」


「いや、例のヤクザの縄張りが華僑街の向こう側なんだよ」


 ヤクザ。カーネファミリーから依頼された不届者が身を寄せているジャパニーズヤクザのことだ。


 アンバーは納得して首を縦に振った。


 その時、アンバーの方から、ぎゅるるると大きな音がした。アンバーはオウルバニーを見下ろして首を傾げた。


「オウルバニー何か言った?」


「今のはお前の腹の音だろ」


「腹の音」


 そう復唱したアンバーは自分の腹を確かめるようにさすった。


「おなかすいた」


「そういえば昼がまだだったな」


 サイバーサングラスに表示された時刻を確認する。午後二時。完全に昼時を逃してしまっている。


「移動しがてら食べるか」


 トシロウの一言に、アンバーは力強く頷いた。


 華僑街の門を抜け、二人と一体はフォンフアン通りへと入っていく。まばらな住人達の間を縫って歩き、フォンフアン通りを抜けて裏道に入った途端、あれだけ騒がしくきらめいていたサイバーサングラス越しの景色は、一気に地味なものへと変わっていった。アンバーはサイバーサングラスを外して首からかけた。


「ここはきらきら少ないね」


「きらきら? ――ああ、電子ネオンのことか」


 トシロウもサイバーサングラスを少しずらしてアンバーを見下ろした。


「この辺は治安の悪い裏道だからな。ああいう派手なものは嫌われるんだよ」


 露わになったトシロウのこげ茶の瞳を見上げて、アンバーは数度まばたきをした。トシロウは元通りサングラスをかけ――視界がぐらりと揺れたのを感じて慌ててタブレットケースを取り出した。ジェムの効能が切れると、サイバーサングラスとの脳信号の同期がうまくいかなくなるのだ。


「アンバー、お前はまだ大丈夫か?」


 タブレットケースをかちゃかちゃと振られて、アンバーは何を尋ねられているのか理解したようだった。アンバーは無言のまま首を縦に振った。


「そうか、少しでも体調がおかしくなったら言えよ」


「うん」


「それから、もうくれぐれも、はぐれるんじゃないぞ」


「うん」


 アンバーが素直に頷いたのを確認すると、トシロウはアンバーから目を逸らし、心なしかゆっくりとした歩調で歩き始めた。アンバーはその後ろを小走りでついていく。


「おやおやおや、素直じゃないねえロリコン」


「黙ってろオウルバニー」


 振り向かないままトシロウは答える。オウルバニーはケケケっと悪そうに笑ってみせた。


 トシロウがアンバーたちを連れてきたのは、湯気の立ち込める屋台街だった。薄っぺらいのれんを垂らした屋台が十数台、狭い道の両側に並び立っている。屋台の後ろにはそれぞれ発電機が用意され、白熱電球のぼんやりとした明かりが調理場を照らしていた。


 トシロウは立ち食い屋台のうちの一つののれんをくぐり、柱にかけられたお品書きを軽く一瞥した後、簡潔に店主に注文をした。


「麺を三つくれ」


 店主はトシロウをちらりと窺うと、苛立たしげに答えた。


「二つで十分ですよ」


「こいつの分だ」


 ブロックを引きずってきて踏み台にし、アンバーを乗せる。カウンターからひょっこりとアンバーの頭が飛び出た。


 店主はそれを見ると嫌そうに顔を歪め、それでも手は止めずに麺を湯に通し始めた。数分と待たず、トシロウとアンバーの前にどんぶりが二つ置かれる。アンバーのどんぶりは少し小さく、トシロウの方は大盛りだ。


 トシロウは割り箸を割って、それをこすり合わせてささくれを取りながら、ふとアンバーの方を見下ろした。


「そういえばお前、箸は――」


 そこには案の定、割った箸を拳骨で握りしめるアンバーの姿があった。トシロウは店主に視線を向けた。


「……フォークあるか?」


 チッ、と舌打ちをしながらも、店主は店の奥からフォークを取り出してきた。差し出されたそれを受け取って、アンバーはどんぶりの中身に手を付け始めた。


 大盛りの麺を手早く胃に流し込んだトシロウは、フォークを大きく使って麺を掻きこむアンバーを見下ろした。


 家にこもりきりだった時よりも、今日のアンバーはやけに行動的に見える。表情も変わるようになってきているようだ。ほんの数日前、出会った時とは比べものにならないぐらいには。


 トシロウは自然と尋ねていた。


「……楽しそうだな」


 アンバーはどんぶりから顔を上げると、トシロウを見て、くしゃっと微笑んだ。


「うん、楽しい」


 思いがけず素直な反応に、トシロウは面食らって咄嗟に言葉を返せなかった。


「……トシロウ?」


 訝しげに尋ねてくるアンバーに、ハッと正気付いたトシロウは誤魔化すように言った。


「食い終わったらさっさと行くぞ」


「どこに?」


 トシロウはサイバーサングラスをかけ直して答えた。


「……情報屋だ」






 奥まった路地の片隅に、地べたにゴザを敷いただけの店らしきものがある。店には竿が縦に二本立てられ、その間を紐が張り巡らされている。紐には木製の洗濯バサミで無数の紙切れがぶら下げられていた。


 店主の老人は胡坐をかいて眠っているようだったが、トシロウたちが歩み寄ると、声をかける前に片目だけを開いてこちらを見た。


「トシロウか」


 弱々しいはずの老人の気迫に圧されて、トシロウは後ずさりたくなるのをぐっとこらえる。


「またマフィア屋さんのおつかいかい?」


 トシロウは無言で答えた。情報屋は両目でトシロウを見て、目を見開いた。情報屋の目は、不思議そうに情報屋を覗きこむアンバーを見ていた。


「ほう、お前もついに子供を売り買いするようになったのか。感心感心」


 心底嬉しそうに言う情報屋に、トシロウは顔をしかめる。


「こいつは売り物じゃない」


 抑えてはいるが銃に手をかけかねない口調で言うと、情報屋は少しだけ身を引いた。


「おお、怖い」


 そんな情報屋の様子は気にもかけず、トシロウは単刀直入に尋ねた。


「何日か前にヤクザを頼って逃げてきた男がいるはずだ。そいつの居場所が知りたい」


 情報屋はトシロウの目を窺った後、背後に吊るされた紙切れのうちの一枚を引っ張り取った。


「そいつならここに入り浸ってる」


 人差し指と中指で挟んで、情報屋はトシロウに紙片を差し出す。しかしトシロウがそれを受け取ろうとすると、情報屋はひょいと手を引っ込めた。


「報酬が先だ」


 トシロウはしかめっ面のまま、財布から紙幣を取り出して情報屋の前に投げてよこした。情報屋は指を舐めてそれを数えてから、紙片をトシロウに差し出した。


「まいどあり」


 紙片を受け取ると、トシロウはアンバーを連れて足早にその場を立ち去ろうとした。そんなトシロウの背中に情報屋は声をかけた。


「トシロウ!」


 ちらりとトシロウは情報屋を振り返る。情報屋はにやにやと嫌らしい笑みを浮かべていた。


「そんな甘ったれじゃあ、いつか足元をすくわれるぞ!」


 アンバーの手を取って引きずるようにその場を後にする。つかつかと足音荒く路地を進み、十分に情報屋から離れてから、トシロウはようやくアンバーの手を解放した。


「何て書いてあったの?」


 アンバーに見上げられ、トシロウはようやく紙片の存在を思い出した。紙片を開き、そこに書いてあった場所を確認したトシロウは、その場所の名前をアンバーに告げるべきかしばし迷った末に口を開いた。


「……ヤクザの縄張り近くの、娼館だそうだ」






 ヤクザの縄張り近くの大通りに、城のような佇まいの建物がある。夜に光り輝くその場所は、今はまだネオンも消えていた。その場所にいるのは女性ばかりで、男性はほとんど見当たらない。


「あ、トシロウちゃん」


 開け放たれた城の窓から気だるげな声が降ってくる。トシロウが見上げると、年嵩の娼婦がこちらを見下ろしていた。


「みんなートシロウちゃんが来たわよー」


 建物の中から黄色い声が聞こえてきたかと思えば、娼館の中に引きずり込まれ、トシロウはあっという間に女性たちに囲まれてしまった。


「あらあら久しぶりねえ」


「最近はこっちに来なくて寂しいのよ」


「背は伸びちゃったけど相変わらずかわいいわね」


「ほら、おいでなさい。お姉さんがちゅーしてあげるわ」


 高いヒールを履いた女性たちにもみくちゃにされて、頬にキスの嵐を受ける。トシロウは表情一つ変えず、それでも抵抗しないまま、されるがままになっていた。


 きゃあきゃあと騒ぎ立てる女性たちを見上げていたアンバーは、背負っていたオウルバニーと二言三言話し合ったかと思えば、トシロウの裾を引っ張ってきた。


「トシロウ、トシロウ」


 見下ろすと、アンバーは両手を広げて抱っこをねだるような姿勢を取っていた。


「ん」


「……なんだ?」


 トシロウがそれに応えて屈んでやると、アンバーは背伸びをしてトシロウの頬に唇をつけた。ちゅっ、と軽いリップ音が響く。


 満足そうな顔で離れていくアンバーに、トシロウは呆れたような顔で尋ねる。


「……お前、それ意味分かってやってるか?」


 アンバーはきょとんとトシロウを見上げた。どうやらよく分からないまました行動だったようだ。しかし周囲はそうは思わなかったようで、娼婦たちは一様に口元に手をやると微笑ましそうに二人を見比べた。


「あらあらあら」


「ごめんなさいね、あなたのダーリンを横取りしちゃってたみたいね」


 娼婦たちの興味は、今度はアンバーに向いたようで、アンバーは彼女たちにかわるがわるに頭を撫でられた。


「小さなレディね。きっと綺麗な女性に育つわ」


「生活に困ったらうちにいらっしゃいな。歓迎するわよ」


 降ってくる娼婦たちの優しい声色に、アンバーは訳も分からないまま頷いた。トシロウはようやく解放された安堵でため息を吐きながら、懐から一枚の写真を取り出した。


「この男を探してる。どこにいるか知らないか?」


 娼婦たちはそれを受け取ると、ああ、と声を漏らした。


「最近毎日来てる子ね」


「ヤクザの名前を使って豪遊してるのよ」


「ツケもたっぷりたまってるからそのうち若い衆にしめさせようかって言っていたところなの」


「ここで待ってるといいわ。多分今夜も来るから」


 事情は聞かないまま次々と情報を教えてくれる女性たちに感謝を告げ、言われたとおりに娼館で夜まで待とうとしたトシロウだったが、その時、表から聞こえてきた騒がしい音に顔を上げた。


「ふざけるな! 金が無けりゃ客じゃないだと!?」


「当たり前じゃない! ここをどこだと思ってるのよ! ここは春を売る場所よ! 買ってくれない奴をどうして客扱いしなきゃいけないのよ!」


「娼婦が男に口答えするのか! 俺たちがいなけりゃ生きていけないくせによぉ!」


 どうやら勘違い野郎が真昼間から騒いでいるらしい。トシロウがサングラスを操作してから外に出るのと、男が女性に拳を振り上げたのが同時だった。トシロウの体は自然と動いていた。


「――それぐらいにしておけ」


 拳を片手で受け止め、男を見下ろしてやる。男は一瞬怯んだようだったが、すぐにトシロウを敵だと認識したらしく、殴り掛かってきた。


 右から、左から、後ずさりながら繰り出されてくる拳の全てを受け流していく。いつまで経っても決定打を与えられないことに、男は苛立ち始めていた。


「いいぞ! やっちまえ、トシロウ!」


「娼婦を馬鹿にするんじゃないよ!」


 娼館の窓からヤジが飛ぶ。普段はあんなにしなをつくっているくせに男勝りの女性たちだな、とトシロウは内心ため息を吐く。


 何度攻撃しても拳が当たらないことに怒りを募らせた男は、ついにポケットからバタフライナイフを取り出してトシロウに向かって突き出した。


「俺は、梅木組のダイキチだぞ!」


 トシロウは、ダイキチと名乗った男の手を掴んで受け流すと、そのままの勢いで背負い投げた。派手な音を立てて、ダイキチの体が地面に打ち付けられる。周囲から歓声が上がった。


「お、覚えてろよ、テメエ! 梅木組を怒らせたらどうなるか、思い知ればいい!」


 捨て台詞を吐いてダイキチは駆け去っていく。トシロウは口の中で「まずいな……」と呟くと、遅れて娼館の中から出てきたアンバーの手を掴んだ。


「アンバー行くぞ」

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