第1話「ハローワールド」 02

「――逃がす?」


「そう、私を追いかけてくるもの全部から逃がして」


 ぼんやりと見上げてくる少女の瞳にひるみながら、トシロウは問い返す。アンバーは感情も意思も見通せない全くの無表情でそれに答えた。トシロウは屈みこみ、アンバーに視線を合わせた。


「アンバーって言ったな」


「うん」


「どこから来た。家族は、家の住所は?」


 アンバーは抱えていた人形に顔を埋めると、何事かをひそひそと囁き始めた。人形と会話でもしているつもりなのだろうか。


「おい」


 沈黙に耐えきれなくなったトシロウが声をかける。アンバーはちらりと目を上げて、少し考えてから答えた。


「……わからない」


「分からないって……」


 片手で頭を押さえてトシロウは立ち上がった。すぐ隣に寄ってきていたユェンと視線を交わす。


「どうするんだ、トシロウ」


「どうするって……どう考えても誘拐だろう」


「だよな、やっぱり警察に……」


「警察は駄目だ!」


 突然、子供のような甲高い声が足元から響いた。見下ろしてもそこにいたのはアンバーだけだったが、明らかに彼女とは違う声だ。アンバーは抱えていた人形の口を勢いよく塞いだ。


「警察は駄目」


 心なしか焦った眼差しでアンバーは二人を見上げる。その手は人形を押さえ付けたままだ。


「ワケありだから」


「……ワケあり、ねえ」


 ユェンが探るような目でアンバーを見回す。身なりからして裕福な家の子供だろう。それが何故こんなところに?


「お願い、トシロウ。わたしを逃がして」


「やめとけよ、トシロウ。絶対に面倒事だぞ」


 ユェンの忠告を受けて、トシロウは顔を歪めた。


「……だが放っておくわけにもいかないだろう」


 このまま放っておけばこの子供は一日ともたず野垂れ死ぬ。しかも相当むごい死に方をするだろう。

 初対面とはいえ、幼い子供がそういう目に遭うと分かっていてそれを見過ごすほど、トシロウは薄情な人間ではなかった。


「あーあー、知らねえぞ」


 ユェンはひらりと両手を軽く上げて歩き出した。


「いち抜けたあー」

 そのままカウンターの中に消えていくユェンを見送り、トシロウは低い位置にあるアンバーの頭を見下ろした。アンバーもそれに気づいたようでトシロウを見た。


「トシロウ」


「……まだ助けると決めたわけじゃない」


 つとめて硬質な声で答えながら、トシロウはアンバーを促した。


「だがここは目立つ。着いてこい」


 店の奥の戸を開け、狭い階段を上っていく。木製の階段は二人が足を乗せるたびにぎしぎしと鳴った。


 二階の廊下の突き当たり、背の高いトシロウにとっては頭をぶつけそうなほどこじんまりとしたドアを開ける。その向こうには簡素な作りの部屋が広がっていた。


「狭い」


「俺の部屋だ。ここに住んでる」


 気分を害した様子もなく、トシロウは部屋の奥から椅子を二つ引っ張ってきた。そのうちの一つにアンバーを座らせ、向かいに自分も座る。


「それで、詳しい事情を話してくれるんだろうな?」


 膝に肘を置いて前かがみになる。自然と顔を近づけられる形となったアンバーは、先ほどのようにまたぬいぐるみへと顔を埋めた。


「……おい」


 ひそひそとぬいぐるみと話している様子の少女に、流石のトシロウも眉間にしわが寄る。


「アンバー、黙ってちゃ何も分からな――」


「良いって」


「は?」


「オウルバニーも喋るって」


 アンバーは手にしていたぬいぐるみをトシロウに差し出した。頭には長い耳がついているというのに胴体には茶色の翼がついている奇妙な人形だ。

 咄嗟にそれを受け取ろうとしたその時、奇妙なぬいぐるみはだらりと垂れていた頭を勢いよく跳ね上げて、トシロウを見た。


「よう、若造! 俺様はオウルバニー! 梟(オウル)に兎(バニー)でオウルバニーだ! 安直な名前だって? んなこた分かってんだよ、俺が決めたわけじゃねえんだから仕方ねえだろ! っとそんなことどうでもいいんだった。まずは俺たちの事情をテメーに話さねえとな! つっても話せることは限られて――」


「――腹話術か? よくできてるな」


 トシロウはアンバーの手からそれを取り上げると、まじまじと見つめ始めた。重量は普通の人形だ。中に骨組みが入っているらしく、ところどころごつごつしている。背中には背負い紐が縫い付けられていて、リュックサックとしても使えるようだ。


「放せ! 放しやがれ、こんちくしょう!」


「うおっ!?」


 手の中でぬいぐるみが暴れ出したように感じて、トシロウは思わずぬいぐるみを取り落した。だがそんなはずはない。ぬいぐるみが勝手に動くはずがないのだから。


「ったく最近の若い奴は! 挨拶の途中にだっこするだなんて無礼にもほどがあるだろうが! そりゃ確かに俺様は愛らしいぞ? 思わず抱きしめたくなる気持ちはよおく分かるとも! だがそれとこれとは話は別だ! 何が悲しくて野郎に高い高いされなきゃならねえんだ! やるにしたって一言断りがあってしかるべきだろうが! おい分かってんのかテメー……痛い痛い痛い!」


 立ち上がってこちらに向かって腕を振り回す人形の耳を掴んで持ち上げる。人形は手足で殴りかかろうとしながらわめき続けている。


「……喋った」


「うん」


「……動いた」


「うん、オウルバニーだから」


 トシロウは人形から手を離すと、頭を抱えてため息を吐いた。


「ついに幻覚が見え始めたか……俺も末期だな……」


 今日飲んだ薬の量を思って、トシロウは目の間を揉んだ。そうしてもう一度目を開けてみても、やっぱりオウルバニーはそこにいる。それどころか軽くダンスを踊り出している。


「だめだ、顔洗ってくる……」


 立ち上がり、よろよろと洗面所に向かおうとするトシロウの背中に、オウルバニーは助走をつけて思いきり飛び蹴りをくらわせた。


「待てやボケェ! 現実から逃げてんじゃねえぞテメー!」


 トシロウは衝撃で少したたらを踏んで、振り返り、背中をさすった。


「痛い……、現実?」


「現実だよ。オウルバニーだから」


 飛び蹴りをした反動で床に転がったオウルバニーを拾い上げながら、アンバーはいたって冷静にそう答える。トシロウはよろめいて壁に手をついた。


「トシロウ?」


 覗き込んできたアンバーを、トシロウは疲れ切った顔で見て、しっしっと片手を振った。


「無理だ。出てってくれ。俺には受け止めきれない」


 アンバーとオウルバニーは顔を見合わせる。オウルバニーはアンバーの腕の中から飛び降りると、トシロウの真似をして壁に片手をついた。


「いいのか、トシロウ。テメーにとっても悪くない話なんだぞ?」


「……悪くない話?」


「そうだ。おら、アンバー! アレ出してやれ、アレ!」


 オウルバニーが短い腕を振り回すと、アンバーはきょとんと首を傾げた。


「アレ?」


「後生大事に持ってきたアレだよ! まさか失くしたんじゃねえだろうな!」


 ああ、と合点がいった顔で、アンバーはドレスの中から何かを取り出し、いまだ混乱のさなかにあるトシロウに差し出した。


「トシロウ、これ」


 それは拳ほどの大きさをした、黄金色の宝石だった。研磨されていないだろうに、ごつごつのその宝石は向こう側が見えそうなほど透き通っている。こんな巨大な宝石をトシロウは見たことがなかったが、離れていても立ち上ってくる特徴的な香りには覚えがあった。


「まさか――ジェムの原石か?」


 おそるおそるその可能性を口にしてみると、アンバーはトシロウを見上げてこくりと頷いた。


 ぶるりと体が震える。これだけの原石があれば、一体どれだけの量のジェムが精製できる。ジェムの末端価格を思うと思考の許容量をオーバーして吐き気がしそうだ。トシロウは思わず原石に手を伸ばそうとしたが、アンバーはそれを引っ込めて避けた。


「これは取引」


 ハッと正気づいたトシロウはアンバーを見下ろした。


「トシロウはわたしを逃がす。そしたら、わたしはトシロウにこれを渡す」


 真剣な眼差しだった。アンバーにとってこれは生死のかかった賭けなのだ。


「どうする、トシロウ?」


 アンバーが首を傾げる。


 鞄に詰まっていた少女。喋って動く人形。どいつもこいつも信じがたい。――だが、目の前のこのジェムだけは現実だ。


 ――男なら派手に生きねえとな。


 ユェンに言われた言葉が脳裏をよぎる。口の端が引きつる。精神が高揚しているのを感じる。ごくりと生唾を飲み下した。


「――分かった。取引しよう」

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