アンバー -amber-

黄鱗きいろ

第1話「ハローワールド」

第1話「ハローワールド」 01

 エンジン音と地面を踏み越える振動が途絶え、その代わりに慌ただしい破裂音が断続的に響いた。――銃声だ。


 狭い空間に押し込められた少女はその音を聞いてゆっくりと目を開く。記憶が正しければここは革製の旅行鞄の中で、自分は輸送されていたはずだ。


 襲撃だろうか。誰が、何のために?


 ほんの数十秒で銃声は止み、静けさが鞄の中を満たす。しかしそれはつかの間のことで、すぐに忙しない物音が少女の詰まった鞄の周囲に響きだした。


「いいか、アンバー。これはチャンスだ」


 どこからともなく響いた甲高い声が、少女の覚醒を促す。


「俺様は隙を見て逃げるぜ。お前はどうする? ……いんや聞くだけ無駄か。お前にゃそういう機能は備わってねえもんな。もし仮にお前も逃げるとしたって足手まといもいいとこだぜ。俺様一人の方が上手く逃げられらあ。だがまあここまで長い付き合いだったんだ。どうしてもっていうなら、俺様の運び役に任命してやらんでもないが――」


「黙って、オウルバニー」


 金の髪の少女は、腕の中のぬいぐるみをきつく抱きしめた。少女の腕の中から、ぐえ、と絞り出すような声がした。





 猥雑なネオンがちかちかと瞬いている。


 いたるところに設置されたスピーカーから、客引きの音声が流れている。


 通行人を引き留めようと、サイバーサングラスに笑顔を表示した男たちが必死にチラシを配っている。彼等にはノルマが課せられており、一定以上客を入れられなければ、給与が支払われないのだ。


 そんな表通りから一本中に入った場所、霧の立ち込める薄暗い街角に、黒色のコートを纏った男が一人立っていた。


 男は腕をだらりと下ろし、誰かを待っているようだった。男の目元にもサイバーサングラスがかけられている。しかしそこには何も表示されておらず、通信のためだけに使われていることが窺い知れた。


 サイバーサングラス内に表示された時計を男は見つめる。午後9時40分。約束の時間を既に20分も過ぎている。――待ち人来たらずというやつだ。


 男は腕を組もうと手を持ち上げ――かすかに自分の指先が震えているのに気がついた。『ジェム』の禁断症状だ。男は顔をしかめると、サイバーサングラスを外し、震える手でタブレットケースを取り出した。


 ――ジェム。宝石という意味のその単語は、この街では正しくそれを意味しない。この街でジェムといえば1センチほどの白い錠剤(タブレット)のことで、それは精神の集中を助ける合法ドラッグというやつだった。


 男はタブレットを二つ、無造作に口の中に放り込むと、水もなしにそれをガリガリと噛み砕いた。


 医療用などにも使われるそれは、合法でこそあるが、非常に危険性の高いものでもある。依存性は極めて高く、効果が切れてしまえば手足の震えなどの禁断症状が出る。しかし、この街の住人たちは、裏の人間だけでなく、表の一般人でさえもこの薬に手を染めていた。





 霧煙るこの街は俗に『霧の都』と呼ばれている。排煙由来の街の霧は昼夜問わず立ち込め、滅多に日の光が差し込むことはない。


 ぱらぱらと降る小雨を避けるためにフードを深くかぶり、男は足早にネオンの下を歩いていった。


 英字と扇情的なネオンの降り注ぐルスターストリートから、簡体字の看板が聳え立つフォンフアン通りへ――華僑街へと足を踏み入れる。


 用心棒なのだろう。きらびやかな店の前に立つ大男に一瞬怪訝そうな目を向けられたが、男が東洋人の顔つきをしていると分かると、すぐに興味を失ったようで、ふいと顔を逸らされた。


 雨足は弱まってきている。しかし晴れ間は見えない。男はフードを脱ぐと、看板に『Jeweler』と書かれた酒場の扉を開いた。


「おう、トシロウ。今日は遅かったな」


「ユェン」


 酒場に足を踏み入れた男、トシロウはカウンターへと歩み寄る。カウンターの向こうで振り返ったのは五十代ほどの店主の男性、ユェンだった。


「さては待ち合わせ相手に振られたか?」


「そんなところだ」


 カウンター席に腰かけ、トシロウはため息を吐く。


 今回の依頼人はただのチンピラだった。後ろ盾もないくせに金と銃を手に入れていきがっているだけの奴らだ。そんなチンピラ同士の小競り合いに助力してほしいと言われて行ってはみたものの、現場には敵も味方も誰も来ない。


 どうせ下手打って警察のお世話になっただとか、マフィアの怒りを買って海に沈められただとか、そんなところだろう。小銭稼ぎのためとはいえ、とんだ無駄足を踏んでしまった。


「ケチな山なんて踏むもんじゃないな」


「まったくだ。男なら派手に生きねえとな。――ミルクでいいか?」


 ウイスキーグラスを持ち上げながらニヤリと笑われ、トシロウはムッと顔をしかめた。


「止めろ。もうそんな年じゃない」


「はっは、冗談だよ」


 からから笑いながら、ユェンは粗製ウイスキーをグラスに注いでいく。


「それにしてもお前今年でいくつになったんだ? いつの間に図体ばっかりでかくなりやがって」


「……27だ」


「おお、もうそんなになったのか。俺も年を取るわけだ」


 ほれ、と手渡されたグラスに口をつける。ユェンは腕を組むとしみじみと頷いた。


「あのチビ助だったトシロウがなあ」


「ユェン」


 本当に怒るぞ。


 軽く睨みつけると、ユェンは「おお怖い」と大袈裟に怯えてみせた。






 酒場は決して賑わっているわけではなかった。いくつかの小さなテーブル席を2,3人が囲み、ぼそぼそと話し合っていたと思えば、何か揉め事でも起こったのか、時折、怒声が響いてきたりしている。


 きっとそれぞれで悪だくみでもしているのだろう。だがそんなものは日常茶飯事だ。


 この酒場に迷惑さえかけなければ、何を話していても誰も聞きとがめない。それがこの場所のルールだった。


 しかし、そのルールを破る闖入者が現れた。


「テメェら動くなぁ!」


 入口の戸を乱暴に開けて現れたのは三人の若い男だった。最初に飛び込んできた男は小ぶりの拳銃を手にしており、後ろに続いてきた二人は革製の鞄を引きずっている。


 先頭の男は頭上に向けて一発銃弾を放つと、唾を飛ばしてわめき散らした。


「金を用意しろ! ありったけの金を持って来い!」


「あ、兄貴、違いますよ今日はそうじゃないじゃないですかあ!」


 弟分らしき男が涙混じりに訴えると、拳銃の男は狼狽えながらもまた叫んだ。


「ああえっと、そうだ、逃走用の車を用意しやがれ!」


 男は銃を振り回す。弟分たちがおどおどと男を窺った。


「早くしろ! 誰か持ってんだろオイ!」


 しかしそれに答える者は酒場のどこにもいなかった。男たちは焦り、顔を見合わせた。


「あ、兄貴が車強盗しようなんて言うから……!」


「しかも中にあったのが奴らの財布とトランク一つだなんて馬鹿みたいじゃねえですか!」


「うるせえうるせえ! こうなっちまったもんは仕方ねえだろうが! 今はどうやってサツから逃げるかだけを考えやがれ!」


 騒がしい男たちを品定めするように見ていたトシロウは、ふと体を預けていたカウンターから離れ、男たちに歩み寄っていった。


「そこの奴、動くなあ! 撃たれてえ――のか?」


 重い銃声が響き、男の握っていた銃が弾かれ、男の手に血の花が咲いた。準備動作もなしに拳銃を持ち上げたトシロウが、男の手を撃ったのだ。


「うおっ、うわああ!?」


 銃を狙い撃たれた男は、傷を負った右手を押さえて混乱していた。――その隙に、トシロウは動いた。


 姿勢を落とし、兄貴分が撃たれて動揺している男の腕を掴む。そのままの勢いで掴んだ腕を大きく引いて男が倒れてきたところに、男のみぞおちめがけてトシロウは肘を入れた。男は瞬間的に息ができなくなって、床に倒れ伏す。


 無傷なのは残り一人。慌てて懐から拳銃を取り出そうとする男に先んじて、トシロウは男の顎に下から掌底を叩きこんだ。崩れ落ちてきた男の腹に、とどめといわんばかりに膝を入れる。


 最後に残った拳銃を撃たれた男に歩み寄ると、男の腕をひねり上げて床にうつ伏せに拘束した。


「うわあああ! あああああ!」


 痛みにわめく首謀者の男の後頭部にこつんと銃口を当て、トシロウは顔を寄せた。


「騒ぐな。死にたくないなら黙ってろ」


 男は浅い息をして黙り込んだ。トシロウは結束バンドを取り出すと、慣れた手つきで三人を拘束していった。


「おい、トシロウ。店を壊すなよ」


 ユェンは、跳弾が貫いた棚を親指で指した。棚の中の酒瓶は衝撃でいくつか割れてしまっているようだ。トシロウは眉根を寄せた。


「銃ならちゃんと小さい方を使ったぞ」


「お前の銃は全部馬鹿でかいんだよ、ド阿呆」


「……以後気を付ける」


「そうしてくれ」


 三人の賊を後ろ手に縛り終わり、カウンターに残っていた酒でも煽ろうとする頃になって、ようやくパトカーのサイレンがこの店めがけて近づいてきた。


 やましいところがあるのだろう。店に残っていた客は、顔を見合わせると、慌てて逃げ去っていった。


「警察だ! 大人しくしろ!」


 なだれ込んできた警官たちを、トシロウはグラスを傾けながら迎えた。ユェンも緊迫した様子はどこにもなく、肘をついて興味なさそうに視線を向けるだけだ。


 制服警官たちの後から現れたのは、ベージュのコート姿の一人の男だった。身長の低いその男はリラックスした様子のトシロウを視界に入れると、嫌そうに顔を歪めた。


「げっ、トシロウ! またテメェか!」


「なんだ、ヨシュアか」


 詰め寄ろうとする警察の男――ヨシュアに、トシロウは床に転がした賊たちを指さしてみせた。


「今回は俺じゃない。ほら、そこに転がってる奴らだ、さっさと持っていってくれ」


 ヨシュアは部下に指示し、誰も殺されていないことを確認すると、悔しそうに顔を歪めた。


「覚えてろよ! いつかテメエもしょっぴいてやるからなあ!」


 来たとき同様に足音荒く立ち去っていくヨシュアを、トシロウは手をひらりと一度振って見送った。


「相変わらずあいつは正義漢だねえ」


「この街じゃ早死にするタイプだな。いくら忠告しても聞きゃあしない」


「……お前も大概に善人だよなあ、トシロウ」


 しみじみと言うユェンを、トシロウは不機嫌そうに見た。


「……何が言いたい」


「何でもないさ、気にすんな」


 カウンターから出てきたユェンはひっくり返った机や椅子を立て直し始めた。トシロウはそれをぼんやりと眺めていたが、ふとあるものが床に転がっているのに気がついた。


 件の賊たちが転がっていた辺りの床には、革製の旅行鞄が一つ取り残されていたのだ。


「お、さっきの奴らの忘れ物だな」


 トシロウの視線に気づいたのか、ユェンは鞄にちらりと目をやった。


「パクっちまえよ、トシロウ。迷惑料ってやつだぜ」


 そう言いながらユェンは机を片付ける作業に戻る。トシロウは鞄に歩み寄ると、鞄を床に倒した。


「あ、俺にも分けろよな。こっちも店壊されてんだ」


「中身次第だな」


 鍵はかかっていなかった。簡素な作りの留め金をパチンと外す。そのままゆっくりと上部を持ち上げる。ぎい、と蝶番が軋む音がする。薄暗い電灯の下に晒されたそこには、場末の酒場には似つかわしくないほど清潔な布と――一人の少女がつめこまれていた。


 真っ白な肌に真っ白なドレス。金色の髪は長く、腰ほどまで伸び、両腕には奇妙なぬいぐるみを抱えている。


 少女はかすかなうめき声とともに身じろぎをすると、ゆっくりと体を起こした。


「何が入ってたんだ、トシロウ……げっ」


 覗き込んできたユェンが顔をこわばらせる。少女の瞼が開き、金色の瞳が現れた。


 琥珀の色だ、とトシロウは思った。


「わたしはアンバー」


 言葉を失うトシロウを、少女はまっすぐに見上げた。


「トシロウ、わたしを逃がして」

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