snidelへの幾つかの秘匿
森 退子
喫煙禁止
卓也はバスに揺られながら、窓外を過ぎゆく街の風景を眺めていた。初夏の日照りを受けたコンクリートの上には、見知らぬ土地に住む見知らぬ人々の生活があった。しかしそれは生まれ育った故郷の初夏の景色となんら遜色ないようにも見えて、新しい生活への期待と諦念が心地よいバランスで卓也の胸を満たした。
バスが信号で止まった時、ふと視線を歩道に向けた。すると突如として道徳の授業の記憶が蘇る。
* * *
卓也は道徳の授業が心底嫌いだった。国語にも道徳に似た
しかし道徳は違った。どのページにも血の通わなくなったかのような言葉が印字されていた。『赤星は車椅子を寄付している』、『黒柳徹子は慈善活動に尽力している』、『勇気の缶詰』……それらを目にする度に卓也は、体の内側から
* * *
頑是ないランドセルたちが歩道を駆けてゆく。子供を見るたびに道徳の授業を思い出すのが常だった。一生この悪癖は治らないかもしれないという懸念が、今年二十一になる卓也に不眠の夜を与えることすらある。いい加減この呪縛じみたものから解放されたいと思っているうちに車内の電光板が目的地名を表したので、卓也は慌てて停車ボタンを押した。
バスを降りると、もう海が目前まで迫っていることに気づく。道が真っすぐに海に続いていて尚且つ緩やかな下り坂になっている。背の高い建物といえば、一階が床屋になっていて、二階三階が居住階になっている建物くらいだから、地球は球体であると思い出させられるほど水平線がわずかに弧を描いているのが視認できた。白波が立ち、日光を光の粒に分散して反射させている。波の音は夏らしく柔らかくなって、街の至るものに染み込んでいった。例外なく卓也の体にもこの潮騒が染み渡っていったが、卓也は暫時、そんなことを感じる余裕もなくそこに立ち尽くしていた。卓也は長い間、海を見ていなかったのだ。
座りっぱなしだったせいか足が少し痺れていた。しかし、バスの中からでは気づけなかった街の表情を窺いたい卓也にとって、足が重くなることは好都合でもあった。幸い約束の時間までまだ少し余裕があったので、一夏を過ごすことになる街を少し知っておこうと思った。
主要駅からはだいぶ離れているが、ひたすらに一本道をまっすぐ行けばこの街に着いた。道中何度か、大型の娯楽施設や商店街、横丁なども見かけた。それほど生活で不便を感じることもなさそうだった。ただ活気はない。今まで卓也が暮らしていた街に流れていた時間の、0.5倍速で時間が流れていると言われても別段不思議とは思わないくらい寂れた街だった。自販機にはジュースの横にカロリーメイトと果汁グミが陳列されている。職人道具店には竹内力のポスターが貼ってある。この街に住む少年は、ポストの色を尋ねられると「白と茶色」と答えるかもしれないくらい、赤が剥げてところどころ錆びていた。まるでジオラマの世界にでも飛び込んだかのような感覚だった。
緩やかな下り坂を辺りを見回しながら下っていき、とうとう道がコンクリートから砂に変わったところで、海の家『
内観は、外観から想像した通りだった。幅が狭くて高めのカウンターがあり、透明なシートの下に手書きのメニューが挟んである。上からは夏によく見かけるかき氷の旗みたいなものが掛かっている。カウンターの横には、高校時代の学祭で見かけたような大きめのテントがあり、日陰に収まるように砂浜に直接テーブルが四つほど置いてあって、それぞれに椅子も四つほど置かれていた。テントは建物と併設されており、テントの奥は建物内の座敷になっていた。なんとも凡庸な海の家である。
目が日陰に慣れてきて、座敷の方に三十代後半から四十代前半とみられる女性と二十代前半とみられる女性がこちらを見ているのが見えた。反射的に軽くお辞儀をすると、年上の方の女性が手招きした。
「どうも。バイトに応募した者ですけど」
座敷に向かいながら卓也がそう挨拶すると、ややあって年下の方の女性も軽くお辞儀した。両方とも感じの良さそうな笑みを浮かべている。
「
年上の方の女性がそう言って席を立った。隣には年下の方の女性。卓也は元来、こういう状況が不得意だった。性別や年齢に関わらず、初対面の人と二人きりになると背中に嫌な汗が流れるのだ。互いが互いに話し出すのを窺っている気配に痺れを切らして、いざ話しかけようとするとすんでのところで声がうわずったらどうしよう、などと杞憂を勝手に膨らませて、臆病風に吹かれるのだ。
波の音に脚色された沈黙が二人の間に流れてから暫くして、彼女は存外平気そうに「はじめまして」と呟いた。てっきり向こうも同じように冷や汗でシャツを濡らしているものだと思っていた卓也は調子外れな生返事をする。長い黒髪を垂らす会釈を視界の端に捉え、卓也も軽く会釈した。
「
「水瀬卓也です。こちらこそよろしく」
丁度、年上の方の女性が戻ってきて二人の前にグラスを置いた。そのまま二人の前に腰を下ろし、一人ずつに丁寧に一瞥を投げてから微笑んだ。
「snidelの店長です。マイさんって呼んでください。ごめんね、あんまり苗字で呼ばれるの好きじゃなくって。とりあえず、応募してくれてありがとう。本当は今すぐにでも働いてほしいところなんだけど、いきなり従業員として迎え入れるのも気が引けちゃうからいちおう面接するね。ほら、二人のうちどちらかが悪人だったりしたら怖いじゃない」
彼女なりのコミュニケーションであることに間違いはなかったが、悪人であることを胸を張って否定することもできない卓也は下手な笑みでしか応対できなかった。打ち解けるために度々遣われる棘のある言葉は、ほとんど思い当たるところがあって卓也はいつも閉口してしまう。本当は思い当たるところがあろうとも気に留めなければ済む話だが、卓也の場合は思い当たるまで自分を見つめてしまう。思い当たらなければ反って不安になるほどだった。
小池沙織は顔の前で手を横に振っている。正しい応対だと思った。
「まず、二人の年齢は?」
マイが小池沙織を見て言う。
「二十四です」
マイが頷いて目線を卓也に移す。
「二十一になる年の二十です」
マイは再び頷く。持ってきていたバインダーに挟まっている紙に、おそらく二人の情報を書いている。
「好きな映画は?」
沈黙が流れた。先程の沈黙とは違って、並ぶ若者二人の脳みその回転音が聞こえてきそうな沈黙だった。小池沙織が「好きな映画ですか?」と聞き返しても、マイは表情を変えずに頷くだけだった。ややあって、小池沙織が答える。
「スタンドバイミーです」
マイはまた頷く。会話のきっかけ作りにも思える突飛な質問を投げかけたわりには淡泊な反応だった。そして卓也に目線を移した。
「映画、あんまり観ないんですよね。すいません」
「あんまり観てなくたっていいの。なんなら観たことない映画を言ったっていいのよ」
卓也は記憶を巡らせて過去に観た映画を思い出そうとする。スパイキッズだって、ジブリだって、スターウォーズだって良かったが、卓也にはそれが憚られた。どうせ観たことがない作品でもいいのなら、耳にしただけの作品名を言ってやろうというほんの悪戯心がはたらいたのだ。
「ダンサーインザダーク」
マイは口の端を僅かに上げて頷いた。マイがその映画を観たことあるのかないのかは、そんな微々たる表情の変化で充分に察することができた。そしてマイの方もおそらく、卓也がその映画を観たことがないということを卓也の表情から察していた。
マイの質問はそれからも続き、応答者の二人は投げかけられる質問に淡々と答えた。冷や汗をかきながら会話の糸口を探る他人行儀な沈黙よりずっと居心地が良くて、途中からはマイの口から飛び出る素っ頓狂とも言えるような質問を楽しみつつ二人は互いの素性をそれとなく知っていった。
二人とも無事合格を告げられ、会話がひと段落ついたところで卓也は立ち上がり店を出ようとした。煙草を吸いたくなったのだ。するとマイが「あ、卓也くん」と呼び止める。
「言い忘れてたけど、喫煙禁止なんだ。海に煙草ってなんだか無粋じゃない?」
卓也は呆気に取られた。二十にして既にヘビースモーカーの卓也にとって、ひと夏を通して喫煙を禁止させられるのは死活問題なのだ。暑さへの苛立ちに行き場がなくなるのが自分で怖くなる。
「このお店で働く上で、禁止事項がいくつかあります。それは_____」
snidelへの幾つかの秘匿 森 退子 @HALYOSY
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