人鴉婚礼奇譚
橘 泉弥
第1話 人鴉婚礼奇譚
相模国のある山奥に、不思議な夫婦が住んでいた。地元の村でも知る人は多く、時折話題に上っていた。
「山寺のあの子、昨日村に来ていたよ。元気そうで良かった」
「しかし珍しいよなあ、人間と鴉の夫婦なんて」
そんな一人と一羽は今――けんかの真っ最中だった。
「翠の馬鹿!」
「大鴉様の阿呆!」
きっかけは些細な事だったのだが、売り言葉に買い言葉が重なって、爆発していた。
「これだから人間は嫌いなのだ」
「これだから妖怪は困るのだ」
古びた寺に二つの声が響く。付近にいた山の動物たちは、あまりの剣幕に逃げ出していった。
「人間のくせに!」
「化物のくせに!」
仁王立ちになる十五、六歳の少女の前で、九尺程の大鴉は四枚の翼を広げている。翠の瞳と睨み合うのは、赤い三つの眼だ。
「お前はまだ子供だろう。俺の言う事に従っていれば良いのだ」
「無駄に歳食ったじじいが何を言う。さっさと隠居しろ」
一人と一羽は疲れていた。言い合いを始めてから、とうに半日が過ぎている。食事も忘れ怒鳴っていたため、お互い腹が減っていた。
大鴉が羽をしまう。
「ついて来たのはお前だろう」
翠は肩の力を抜いた。
「先に惚れたのはあなただろう」
互いにしばらく黙ってから、同時に溜息をつく。
「お互い様という奴か」
「そうだな」
双方苦笑いしてけんかが終わる。
「さて、食事にするか」
寺に入って行く妻の後ろ姿を見て、大鴉はこっそり笑った。
こんなけんかでさえ楽しくて、会話できることが嬉しいと言ったら、彼女はどんな顔をするだろう。
彼は永い間、独りで暮らしてきた。家族も友もいない森の中が、どれ程孤独だったか。
「ありがとう」
何度目か分からない感謝の言葉を呟く。一緒にいてくれる翠は、大鴉にとって何より大切な存在だった。
膳を持った少女が寺から出てくる。
「遅くなったが食事にしよう。大鴉様は食べる物持っているか?」
「カア。干した魚と茸がある」
大鴉が寺の中へ入れないため、日々の食事は寺の庭でとる事になっていた。
「頂きます」
「頂きます」
人間と鴉なので、食べる物もそれぞれ違う。翠は麓の村から米を買い主食としていたが、大鴉は山でとれる物を食べていた。
「そうだ、大鴉様」
少女が汁物を飲み込んで声を掛ける。
「あなたに名前を付けたいと思うのだが」
「名前?」
大鴉は首を傾げた。
「必要無いだろう。そんな物が無くとも、俺は俺だ」
「それはそうだが……」
翠は不満気に米を咀嚼する。
「あなたの名前を呼んでみたいんだ。この世に一羽しかいない、特別な存在だから」
「と、特別な存在……!」
大鴉は突然空へ舞い上がった。
(カアア、特別! 俺は翠にとって特別!)
嬉しさのあまり何度か旋回して、地上に戻る。
「ならば俺に名前を付けるがよい」
大鴉が平静を装って言うと、翠は笑顔を見せた。
「ああ、そうする」
再び大鴉の心臓は跳ね上がったが、何とか表に出さずに飲み込んだ。
その日から、翠は寺に閉じこもるようになった。紙に筆を走らせながら、ああでもないこうでもないと頭を抱えている。
三日経ってもその調子なので、大鴉はたまらず窓にくちばしを突っ込んだ。
「翠、まだ名前は決まらぬのか」
少女は筆を置いて窓辺に寄る。
「いくつかの候補に絞ったからあともう少しだが、どうかされたのか?」
「別に……寂しいとか、そういう事ではなくてだな、少し様子を見てやろうと思ったのだ」
「はいはい」
要するに構ってほしいらしい。翠は太いくちばしを撫でた。窓からのぞく赤い眼が、満足そうに細くなる。
「もう少しだから。待っていてくれ」
極上の笑顔に、大鴉は走り出した。森に駆け込み、啄木鳥の如く大木をつつきまくる。
(かわいいかわいい翠がかわいい、ああもう萌え死ぬっ!)
環境破壊かと思われたが、その穴はすぐさまシマリスの巣となったので問題無い。
そして二日後、翠は笑顔で寺から出てきた。手には一枚の紙を持っている。
「大鴉様、決まったぞ」
「おお、そうかそうか」
大鴉が目の高さを合わせると、翠は自慢げにその紙を見せた。
『鴉鬼羅』
真っ白な紙に、墨で大きく書かれている。
「アキラと読むんだ。かっこいいだろう?」
「カ、カア……」
まさかのキラキラ中二病ネームに、大鴉は思わず声を漏らす。
「一生懸命、強そうな名前を考えたんだ」
どこかの妖怪か神将かと見間違えそうな漢字。だが翠は嬉しそうにその名を掲げている。
(うむ、かわいいから許す!)
大鴉改めアキラには、キラキラになった自分の名前より、喜ぶ妻の方が大事だった。
「ありがとう。素敵な名だ」
翠の頬に自分の頬をすり寄せ、精一杯の愛情表現をする。
「気に入って頂けたなら良かったよ。これからもよろしく、アキラ様」
頬に愛妻の温もりを感じながら、大鴉は一つ、決心した。
朝食の後片付けをしながら、翠は深く溜息をついた。最近、アキラの様子が目に見えておかしいのだ。
毎晩のようにどこかへ出かけ、明け方まで帰らない。
(私が気付いていないと思ったら、大間違いなのだぞ)
翠は意を決して、本鳥に訪ねてみる事にした。
大鴉の前に立ち、胸を張って強気に出る。
「アキラ様、昨日の夜はどこへ行かれていたのだ?」
「カ、カァッ」
大鴉は見るからに動揺した。羽をもぞもぞ動かし、三つの眼を泳がせる。
「別に、大した用ではない。気にするな」
「しかし毎晩だろう。余程の事があるとお見受けするが?」
アキラは隠し事が下手だ。
「カァ、え、えーと、用事を思い出した!」
そう言って、逃げるようにどこかへ飛んで行った。
庭に残された翠は、失望してうなだれた。自分の夫に限ってそんな事は有得ないと思っていたが、彼の態度は翠の希望を打ち砕いた。
(浮気だ。絶対浮気だ……)
涙が出てくる。
初めて森の中で会った時には喰われるかと思ったが、話してみると優しかった。
図体が大きく村では化物扱いされていたが、実はかなり人間臭くて繊細で、寂しがり屋のいいカラスだった。
そんな優しさに恋したから、ずっと一緒にいると決めたのだ妖怪へ嫁ぐのは心細かったが、それ以上に大鴉といられる事が嬉しかった。
なのに……。
「アキラ様の馬鹿」
初夏の風は生ぬるく、ただ山を駆け抜けて行くばかりであった。
それからの食事の時間は気まずかった。
「……翠、なぜ怒っている?」
「さあ? 自分の心に訊かれれば、お分かりになると思うが?」
「……」
しかしそれも数か月すると、翠の方にも余裕が出てきた。
(浮気相手は人か、それとも鳥だろうか。いや、妖怪かもしれぬ)
人だったらまだ勝ち目はあるが、妖怪相手では太刀打ちできない。そう考えては落ち込み、溜息をつくのだった。
「なあアキラ様、私の事好きか?」
夕食時にふと訊いてみる。
「いきなりどうした?」
丸い眼をさらに丸くされたので、思わず
「いや、何でもない」
と、問いを撤回してしまった。
これで嫌いだと言われたら、心に大きな傷を負う事になる。それよりはまだ、有耶無耶の方が精神衛生上良いという物だ。
夜、布団の中で大きな羽音を聞きながら、不安になる。大鴉は誰と時間を過ごすのか。
涙が頬を伝った時、翠は重要な事に気付いた。
(私達、本当に夫婦なのか……?)
籍を入れた訳でもないし、結婚式も上げていない。
もしかしたら、夫婦だと思っているのは自分だけかもしれない。
(で、でも、付き合ってはいる……よな?)
一度疑うと、どこまでも疑心暗鬼になってしまう。
もしかして、ただの友達だと思われているのかもしれない。いつか正式に相手を紹介されたらどうしよう。平常心を保てるだろうか。
でも、ずっと二人で暮らしてきた。これはもう事実婚というやつだ。誰が見てもそのはずだ。だから結局浮気なのだ。
「アキラ様の馬鹿っ!」
枕に顔を押し付け、嫌な考えを頭から追い出す。頑張って思考を拒否しているうちに、夢の世界へ入って行った。
ある日の朝、朝食の時間になってもアキラは帰らなかった。
(捨てられた……)
翠は泣いた。泣いて泣いて、泣き疲れて、布団に座り呆けていた。
(これからどうやって生きて行こう……)
独りで暮らしていくには、この山寺は静かすぎる。麓の村に行けばどうにかなるだろうか。
否。暮らしの問題ではないのだ。アキラのいない世界で、何を心の拠り所にすれば良いのだろう。
(私は捨てられたんだ……)
再び涙が溢れそうになった時、どこからか自分を呼ぶ声がした。
「翠、どこにいる? 翠!」
その声はどんどん近付いて来る。彼女を探して、家の中を歩き回っているようだ。
こんな時に誰だろう。翠は重い体を上げて、襖を開けた。
「翠!」
その途端、廊下にいた声の主に抱き付かれる。
「え?」
驚いて何も言えずにいると、その人物はどんどん翠を締め上げる。
「やったぞ翠! やっと人間の姿になれた!」
満面の笑みを見せるその人物は、額にも目があった。三つの瞳は赤く、背中には黒い羽が四枚見えている。
「……アキラ様?」
「そうだ、すごいだろう。これでお前と寺で暮らせる。これでお前と並んで歩ける。これで……これでお前を、抱き締められる!」
人間型のアキラは、翠の頬に自分の頬を摺り寄せる。益々強く締め上げられたので、翠は悲鳴を上げた。
「アキラ様、分かった。分かったから離してくだされ! く、苦しいっ」
「む、すまない。気付かなかった」
妻を解放しても、アキラの笑顔は収まらない。
「どうだ? なかなかいけめんになったと思うが」
嬉しそうに一回転して見せる。
翠はそれを見てはっとした。
「もしかして、夜中に出掛けていたのはそのためか?」
「ああ。心配をかけてすまなかったな」
それを聞いて胸を撫で下ろす。
「良かった。浮気されたのかと思ったぞ」
「そんな訳ないだろう。俺の嫁はお前だけだ」
その言葉が嬉しくて、翠は温かい腕の中で、また泣き出したのだった。
六月のある日、山寺には田植えを終えた村人たちが集まった。世にも珍しい人と鴉の結婚式を見るためだ。
人間に化けた大鴉と少女は、仏の前で愛を誓った。
「愛してる」
アキラは翠を抱き締める。
「私もだ」
翠もアキラの背中に手を回す。
村人たちは盛大にはやし立て、彼らなりに二人を祝福した。
相模国のある山奥に、不思議な夫婦が住んでいた。妖怪と人間のその二人は、今でもとても仲睦まじく、ひっそり暮らしているという。
人鴉婚礼奇譚 橘 泉弥 @bluespring
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