思いがけない優しさ
思えば前日から予兆はあった。
なんだか頭が重いような気はしていた。でも、それはときどき何の理由もなく誰にでも起こるような軽い頭痛かと思っていたのだ。
それがまさか、起き上がるのも億劫なほど酷い風邪の前触れだったなんて。
わたしは朝になってもベッドから起きられずに、ぼんやりと宙をみつめていた。
この家に来た時、アルベリヒさんからは好きな部屋を使って良いと言われていたが、このお屋敷の部屋はどれも豪奢でなんだか気後れするし、結局わたしは屋根裏の使用人部屋を使わせてもらっていた。内装は至ってシンプルで、ベッドに机に椅子、それに据え付けのクローゼットがあるだけだ。
わたしはぼんやりと天井を見上げる。
喉が痛い。それに悪寒もする。でも、頭は茹っているようにぼうっとしてうまく働かない。
どれくらいそうしていたのだろう。唐突に、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「おい、コーデリア。起きてるのか?」
あ、アルベリヒさんだ……。
いつもならばとっくに起きだして仕事をしていなければならない時間だ。朝食も用意されていないとなれば様子を窺いにも来るだろう。
「アルベリヒさん、たすけて……」
弱々しく応えるわたしの呟きが聞こえたのかは定かでは無いが、
「コーデリア? 入るぞ? いいな?」
という声と共にドアが開いた。
「おい、どうしたんだ。大丈夫か?」
起き上がれずにいるわたしが目に入ったのか、アルベリヒさんがベッドの傍に膝をついて、わたしの顔を覗き込む。心なしか心配そうに見えるのは気のせいだろうか。
「すみません、わたし、風邪引いちゃったみたいです。今日はお仕事できないかも……」
「そんな事、気にしてる場合じゃないだろ」
アルベリヒさんが手袋を外すと、その手でわたしの額に触れる。
冷たくて大きな手。それが触れたとき、何故だかちょっと緊張してしまった。
なんでもない。ただ、熱を測っただけじゃないか……。
「熱があるみたいだな。仕事はいいから今日は一日おとなしく寝てろ」
そう言って貰えるとありがたい。なにしろ起き上がれそうにもないほど身体が重いのだから。わたしは横たわったまま頷いた。
するとアルベリヒさんは慌ただしく部屋を出て行ったかと思うと、暫くして洗面器を持って戻ってきた。
洗面器には水が入っており、そこにタオルを浸して絞ると、それをわたしの額に乗せてくれた。
あ、冷たくて気持ちいい……。
「何か食べたいものは?」
わたしは弱々しく首を振る。なんにも食べたくない。食べられる気がしない。
「無理してでも食べろ。なんでも用意してやるから」
これって風邪を引いた時に必ず言われる台詞なのかな。わたしのお母さんも、わたしが風邪をひいて食欲がない時に同じような事を言っていた。結局何も食べる気が起きなかったわたしは、お母さんに勧められるままに果物を食べさせてもらっていたっけ……。
あのころの様子がふと、脳裏に蘇った。なんだかその思い出も懐かしい。
「……それじゃあ、果物が食べたいです。なんでもいいので」
「果物だな? わかった」
やっと搾り出したわたしの言葉に、再びアルベリヒさんが慌ただしく部屋を出て行った。
額のタオルのおかげか、少し気が楽になった。
それにしても、アルベリヒさん、なんだか慌ててるみたいだった。わたしが風邪なんかひいたから、勝手がわからなくて混乱させてしまっているのかも……。使用人なのにこんなに迷惑かけてしまって申し訳ない。
心の中でアルベリヒさんに謝っていると、ベッドの足元のあたりが微かに沈む感覚がした。
ああ、ロロが目を覚ましたんだ。あの子はいつもわたしの足元で眠っているから。
ロロはベッドからすとんと降りると、ドアに近寄りにゃあにゃあ鳴く。外に出たがっているのだ。いつもはわたしが目覚めてからドアを半開きにしていて、そこから自由に出入りできるのだが、今日は様子が違うので戸惑っているのかもしれない。
「ロロ」
小さく名前を呼ぶと、ロロはちらりとこちらを見たが、再び外に出たそうにドアを引っ掻きだした。
うう、冷たいなあ。飼い主が寝込んでいてもお構いなしか。両親を亡くして泣いていた時にわたしの傍にいてくれた心優しいロロはどこへいってしまったんだろう。
誰かに傍にいて欲しかった。それが動物であっても。風邪の時ってどうしてこんなに心細いんだろう。
ロロは扉を引っ掻きながら、時おりこちらを見てはドアを開けろとばかりに鳴き声を上げる。やっぱりわたしの傍にいてくれるつもりは無いみたいだ。思わず溜息が漏れる。
「寂しい……」
わたしの呟きと同時にドアが開き、アルベリヒさんが姿を現した。ロロはその隙を見逃さず、ドアの隙間からさっと外に出て行ってしまった。
……今の独り言、聞かれちゃったかな……。
しかし幸いにもアルベリヒさんには何も聞こえていなかったようで、表情を変えることなくベッドの傍に歩み寄る。
「食事と薬を持ってきた。起きられるか?」
その言葉に、どうにか上半身を起こす。
ぼんやりしていると、アルベリヒさんがベッドの端に腰掛ける。そして持っていた小鉢から黄色っぽいものをスプーンですくうとわたしの口元に近づけた。
「ほら、口を開けろ」
「そ、そんな、子供じゃないんですから、一人でできます。貸してください」
慌てて身を引くわたしに、アルベリヒさんはなおもスプーンを近づける。
「いいから」
この人はときどきこういう強引なところがある。わたしもそれを知らないわけではないけれど……でも、こんなの、子どもみたいで恥ずかしい……。
けれどこれ以上抵抗する体力も気力もなく、諦めておずおずと口を開けると、スプーンが口の中に入ってきた。
舌の上に氷のような冷たさを感じると同時に、それがふわりと解けた。なんだろう。シャーベットみたいだ。林檎の味がして美味しい。
「……これ、なんですか? すごく冷たい」
「すりおろした林檎を魔法で凍らせたんだ。口に合わなかったか?」
「いえ、とっても美味しいです……でも、こんなことに魔法を使ってよかったんですか?」
「俺の魔法を、俺がどう使ったっていいだろ。ほら、もう一口」
アルベリヒさんに勧められるままもう一口、あと一口と林檎のシャーベットを食べているうちに、いつのまにか小鉢の中は空っぽになってしまった。
「もっと食べるのなら作ってくるが」
「いえ、もう十分です。ありがとうございました」
風邪のせいでこれ以上は食べられなかったが、弱っているわたしの身体には優しく染み渡った。体調が悪いことがつくづく残念だ。
わたしが元気になっても、またアルベリヒさんは作ってくれるかな……? 頼んでみようかな……?
薬を飲んで再びベッドに横になると、アルベリヒさんは冷たいタオルをまたわたしの額へと乗せてくれた。
こんなに手厚く看病してもらって、申し訳ないという半面、ほんのりと幸せだという気持ちが胸に沸いた。こういう時に誰かがそばにいてくれるというのは、やっぱり安心する。
「他に何か欲しいものは?」
欲しいもの……?
額のタオルに冷たい食べ物。それに薬まで。もう十分してもらった。けれど、それを伝えたら、アルベリヒさんもロロみたいにこの部屋から出て行ってしまうのかな……。
それを考えると急に寂しくなった。
「……あの、少しの間だけいいので、傍にいてくれませんか?」
自分でも消え入りそうな声だと思った。
こんな事言われて、煩わしいと思われるかもしれない。アルベリヒさんだってやらなければならない事があるかもしれないのに。それを考えれば声も小さくなる。
でも、それよりもこの身にのしかかる心細さに耐えられなかったのだ。
アルベリヒさんは少し驚いたような顔をしたが、わたしがじっと返事を待っていると、やがて部屋にあった椅子を持ってきてベッドの傍で腰掛ける。
「わかった。わかったから、そんな顔するな」
アルベリヒさんは、苦笑しながらわたしの顔を覗き込むと頭を軽く撫でた。
わたし、どんな顔してるんだろう。心細さが顔に出てしまったのかな。情けない顔をしているのかも。
でも、今日のアルベリヒさん、優しい。こんなの煩わしいだろうに、嫌そうな素振りも見せない。
いつもは捻くれてるのに、こういうときは優しいんだな。これなら風邪を引くのも悪くないかも、なんて。
「アルベリヒさん、ごめんなさい。看病までしてもらった上に、傍についててくれて……」
「俺が倒れたら同じことしてもらうからな。覚悟しておけ」
「はい。わたし、精一杯看病するので安心して倒れてください……」
「変な事言うな。熱が上がってるんじゃないのか? 大人しく寝てろ」
「……でも、退屈です」
「そんな事言われてもな……おとぎ話でもするか?」
その時、わたしはふと思いついた事を口にする。
「……それなら、アルベリヒさんの話を聞きたいです」
「俺の話?」
「はい。アルベリヒさんは、どんな魔法が使えるんですか?」
わたしは以前にちらりと気になった事を聞いてみる。とはいえ、この世にどんな種類の魔法が存在するのか、わたし自身あまり知らないのだけれど。
「どんな魔法と言われても……火に氷、風に……まあ、下手をしたら誰かに危害を加えるようなろくでもない魔法ばっかりだな」
「そんな事ないです。さっきの林檎のシャーベット、とっても美味しかったです。あれだって、アルベリヒさんの魔法が無かったら食べられなかったわけですから。アルベリヒさんは、子どもの頃から魔法が使えたんですか?」
「うーん、まあ、そうだな」
「へえ。何かきっかけとかは?」
アルベリヒさんは何かを思い出すように視線を上向ける。
「……よく覚えていないんだ。気が付けば、俺はこの家にいて、師匠である魔法使いの養子になっていた。その頃から修行がてら日常的に何かしらの魔法を使っていた気がするし……」
まるでなんでもない事のように、アルベリヒさんがそんな過去をさらりと口にした。
「養子って……本当の家族は?」
言ってから、しまったと思った。養子になっていたって事は良くも悪くも何かしらの事情があったはずだ。そんな事を聞くなんて無神経にも程がある。熱のせいで頭が働いていないのかもしれない。
「……それも覚えていないし、知らない。悪いな。面白い話ができなくて」
アルベリヒさんは困ったように頭を掻くと、黙り込んでしまった。
どうしよう。気まずい……。
けれど、どちらかというと、アルベリヒさんは面白い話ができない事に対して気まずさを感じているみたいだ。
それでも、わたしは何と言葉をかけたものかわからず、思わず沈黙してしまう。
しばらくの間どちらも言葉を発しなかったが、やがて、その気まずい空気を打ち破るかのように、アルベリヒさんが溜息をひとつついた。
「やっぱり俺なんかの話より、おとぎ話の方がよっぽど面白い。そうだ、こんな話を知ってるか? むかしむかしあるところに、一人の魔法使いが住んでいて――」
アルベリヒさんは、何事もなかったかのようにおとぎ話を語り始めた。けれど、わたしの耳にはあんまり内容が入ってこなかった。
ああ、もう、なんで家族の事なんて聞いてしまったんだろう。わたしの馬鹿……!
大人しく話を聞くふりをしながら、アルベリヒさんの顔を窺う。さっきの事、気にしてないと良いけれど……。
今度は余計な口を挟まないよう気をつけよう……。あんな雰囲気の後で暢気におとぎ話を楽しめるほどわたしの神経は図太くないのだ。
そう思っていたのだが……。
アルベリヒさんの顔を黙って見つめていたら、やがて薬が効いたのか、わたしは図太くもいつのまにか眠りに落ちてしまったのだった。
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