(3)ソーン侯爵令嬢


 そんな無粋なものは 必要なかった。


 令嬢が馬車の扉から頭を出す直前に、馬車の周り、その雨滴が消えた。

 馬車の足踏みに靴(踵は、あまり高くない)が届く前に、濡れていたそれが一瞬で乾燥した。

 続いて雨に濡れて緩んでいた地面が硬化して平坦になり、正面玄関まで絨毯を敷いたような形態に変化した。当然 水飛沫など一滴も付いていない。


 魔法? 新米隊員の疑問は、彼自身の『眼』によって否定された。魔法を使えば 彼にはそれが見えるのだから。


 黒衣の男にリードされて令嬢が数歩進み、続いて侍女が4人、馬車から降りた。


 新米隊員が それに気付いた時、御者を含む馬車が、馬と共に光の粒になって消えた。

 何たる非常識。

 彼は心の中で、大声で叫んだ。


 いつの間にか黒衣の男も消えていた。


 令嬢の服装は、そういえば舞踏会用にしては落ち着いた色と形状だ。

 それでも、スラリとした 姿勢の良い彼女は、精霊の輝きがなくとも素晴らしく、それは 正に、眼福と言える。

 朱金の髪、軽いウェーブがかかり腰の少し上まである。精霊が太陽光に近い光を放ち彼女の後ろに回ったとき、その髪色は 鮮やかな黄金色に見えた。


 新米隊員には、遠くて顔の詳細までは分からない。だが、今見える限りにおいても素晴らしい美少女(彼女は御年15歳)のようだ。


 騎士団員の来客に対する礼は直立のままだ。監視任務の者が頭を下げては意味がない。令嬢は侍女達と共に正面玄関に至り、記帳し、虹彩認証の上、入場した。


 新米隊員には、特に何も問題は無いように見えた。


 彼は気付かなかったようだな。と、彼の指導員は苦笑した。


 新米隊員は、ずっと見ていた、見えていた。令嬢が即席の絨毯の上を進み、入場するまで。

 記帳の時以外は ずっとが見えていた筈なのに、それに気付かなかった。


 この大陸のヒトの体格は、成人男性で平均165センチメートル、成人女性では平均160センチメートルである。

 新米隊員は未だ平均身長に足りない160センチメートル。彼には身長170センチメートルある隊長の頭も ちゃんと見えていたのだ。


 ■■■


 招待された貴族子女は もう全員が揃ったようだ。

 舞踏会開始にはまだ30分程である。

 新米隊員に、彼の指導員が その時刻を見計らって声をかけた。


 「さて、中に入ろうか」

 今日は新入りの教育のため、全部署の配置状態を見学させる予定になっている。

 指導員は新米隊員を促して雨水を弾き飛ばした。

 これは、もちろん魔法である。


 「そうだった。『眼』の感度は、今の半分程度に落としておくように」

 新米隊員はいぶかしく思いながらも、『眼』の感度を調整しながら指導員に続いて邸内に入った。


 近衛騎士団・特務警備隊の新米隊員が舞踏会場に入って驚いたのは、精霊の数と量、そして その輝きの強さだった。

 予め聞いていたものとは、あまりにも違っていたからだ。


 「何なんですか、これは?」

 指導員は「やっぱりな」と呟き、小さな声で続けた。姫様が来ると、何時いつでもこうなるらしい。精霊が喜んで、はしゃいでいる状態(躁状態とも言う)だ、と。


 一通り警備員が配置されている場所を回った後、新米隊員が待機している場所からは、王と3公、それにソーン侯爵が加わって会談をしている席。その関係者の席。軽食や飲み物を載せた たくさんの立食形式のテーブルや、いくつかの 小休憩のための席などが見渡せる。


 国王と公、侯爵の会談は一段落したようで、弛緩した空気の中、それぞれが紅茶を口にして寛いでいた。

 姫は王と3公に挨拶をしてから、改めて義父に何か話しかけながら、大きな封筒から書類を取り出して それを渡していた。

 侯爵から それを手渡された王は、書類を見て軽く頷いた。既知の用件であるようだ。


 彼女は用事を済ませると、再度 全員に挨拶して、その場から退き、東公国関係者のために設けられた 所定の席に着いた。


 それを待っていたかのように、侍女が そのテーブルの上に紅茶を置いた。

 令嬢は、ゆっくり その香りを堪能した後、それを一口含んで話し掛けた。

 「ありがとう。リンデ、とても美味おいしいしいわ」


 小さく聞こえた声と、その洗練された一連の動きが終わったと同時に、新米警備隊員は止めていた息を 大きく吐き出した。かなり緊張していたようだ。


 彼女は 侍女に向かって笑顔で何か告げると、バッグから本を取り出して栞のページを開いた。


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