第4話 悪いやつら倒します

 カラン、とグラスの中の氷がとけて、底に落ちる。冷たく澄んだ響きが、薄暗い店内に響いた。グラスの中身を口にする。テキ─ラの夏を思わせる匂いが、口の中いっぱいに広がる。

「まだ、帰ってやらないのか」

「ふ」

 目の前に座る男──白髪も混じり始めた、昔ながらの付き合いのその男は微笑を顔にはりつける。前々から、こういう気取ったしぐさが嫌いだった。

「まだだな。もう少しで、計画どおり」

「お前、あの子の気持ち考えたことあるのか」

「……」

「お前にも考えがあるのかもしれんが」

 グラスが空になる。

「理解できんよ。年頃の娘を放り出してまでやることかね」

「あの子なら分かってくれるはずさ。俺のやってることを」

 カラン。男がグラスを回して、氷を混ぜる。レッドアイと呼ばれる真っ赤なカクテル。……トマトもそのカクテルも男も、反吐がでるほと大っきらいだった。

「酒がまずい。先帰るぜ」

 俺は会計を済ませて、帰途につく。


 いい年した大人が、子供に甘えてどうすんだってんだ。

 わかってくれるはずだ。理解をしてくれる。だから自分は許されて当然だってか?

 子供が大人の被害者であってはいけない。親が子供を踏みにじってはいけない。

 だってそうじゃないか。一生懸命生きて、親を満足させようと、褒められるために、悪事に走った人間を俺は何人も知ってるぜ。

 グラサンをかける。鼻がツンとする。世の中は見たくないことばかり。変わらないものなど何もない。朽ちて果て行く俺らおっさんに、できるのは若者が道を外さぬよう見守ることだけ。……だけど俺らが道を踏み外してどうするんだ、親友。


「ねえ」

 俺は公園にいた。そう、ご想像通り食事だ。みなの視線はほとんどが花壇、それも花にかぎって注がれているが、実は公園には食べられる草がいっぱいあるのだ。都会の神秘。問題はたまに車の排気のにおいとか、よくわからん酸っぱいにおいだとか、人工の臭いがすごいこと。ま、しょせんは道端に生える草だしね。あんまり期待してもしょうがない。あくまで非常食。んで今は非常事態ってなわけで。


「なんだ、マリ─か。いきなり声をかけて、驚かせやがって」

「こっちのセリフよ……やっと探し当てたと思ったら、地べたに這いつくばって。

 コンタクトでも落としたの? それとも小さなメダルみたいに1マスずつ小銭を探してるのかしら」

 俺は自分のやっていることを客観的に思い浮かべてみる。ため息。

「どこもおかしくないだろ。俺は教わった通りにやってるだけだぜ」

 マリ─も溜息でそれに応える。

「あなたこそ何を教わったのか知りた……ごめん、やっぱ知りたくない。怖いから。

 知らないほうがいい世界も、あるもんね」

「食べられる草を物色してたんだ」

 俺は膝についた泥を払いながら答える。「この公園にも何種類かあって、味も多様だ。生食でデザ─ト代わりにもなる。一口どうだい」

「要らない」

「そうか」

 俺は雑草をポケットにしまう。ポケットの中で、雑草がキラキラと光っているように見える。ま、雑草なんだけど。

「……、それはもしかして、家で食べるの?」

「もちろん。まあ、これだけじゃ物足りないから調理はするけどね」

「そ、そうよね。私の生きてきた世界が狭いんじゃないかって、今一瞬不安になったの」

「ははは馬鹿だなあ」

「そうね、私って馬鹿。いい年した男が公園で待ち合わせしたのに地面に這いつくばってるだなんて思わなかったから。自分の世界が狭いんじゃないかと心配になったわ」

「ははは、そうだろう。それじゃあお口直しにどうだい」

「うふふ、遠慮させていただきます。口がなおるどころかひん曲がっちゃう」

「もともと曲がってるからちょうどいいんじゃないか」

「先にあなたの性根を直すのが先かしら」

「ははは」

「うふふ」

「……」

「……」

「なんだっけ」

 マリ─は頭をかきながら思い出す。

「そうそう、今日集まった目的だったわね。

 面白おかしく雑草を食べるのは犬猫のやることだわ」

「俺にとっては死活問題なわけだが」

「早く人間になりなさい。ま、それはそれとして」

 マリ─の前に居たのは、おさげがよく似合い高校生ぐらいの女の子だった。

「この子が今日の依頼人。二瓶佳奈。希望は勇者になること」

「まっとうな道に戻してあげたい」

「それは依頼人の希望に反するわ」

 なかなか難しいもんだ。

「私の話を聞いてください」

 その子は両手を握り締め、がんばって整理してきたのだろう頭の中を必死に並べ立てる。

「最近、家の近くまで知らない人がついてきてるみたいなんです」

「警察に行きなさい」

「信じてもらえなくて。実害がなければ動けないとかなんとか」

「この案件も手に負えなさそうだ」

「今度は何? コロンボ? 」

 お、通だねえ。


「俺らが武闘派だったことってあった? 」

「少なくとも、私はないわね」

「んじゃ─、無理じゃん」

「……、あんた、理由も分からなく身体能力アップしたの、忘れたの? 」

 俺はポン、と手を叩く。

「思い出した、じゃないの。

 毎日反復横跳びの自己記録を更新してる場合じゃないのよ」

「世界記録は塗り替えたぜ。非公式だけど」

「あっそう。それで? ふ─ん。

 ほかにすることないの? 」

「することって……。お前みたいに「魔法で作ったご飯がくっつかないパラパラチャ─ハン」でも作ることか?

 言っとくけどな、あれは魔法の力なんかじゃねぇぞ。ただの火力だ」

「いいじゃんおいしいんだから」

「そこに異論はないが」

「あのぅ」

 おずおずと、俺とマリ─の間に割って入ってくる。

「それで、私の依頼はどうなったのでしょう」

「ああ、もちろんお断り──」

「引き受けますよ」

 二つ返事でマリ─は答えた。

 あ─あ、また面倒臭くなるなぁと思った。

 お腹がぐぅと鳴る。けれど腹の虫の声だけは、裏切れないんだよなぁ。


 事務所に寄った帰りに、ブル─に飯を誘われる。珍しいもんだ、と俺は二つ返事で応える。二人で駅の線路沿いにある、屋台のラ─メン屋に入る。とんこつラ─メンがおすすめらしい。

「ずずっ。どうだ仕事は」

「まあ、ボチボチです。ずずっ」

「そりゃずずっ。いいな」

「替え玉、いいすか」

「……なかなかずうずうしいな。さっさと食え」

 俺は替え玉を2回ほど頼んで、ス─プまで飲み干す。

 これでしばらくの栄養は補給できたに違いない。


「頼みがある」

 ブル─は懐から写真を取り出した。

「こいつの目を覚ましてやってほしい」

「え、ええ? 」

「ちなみに報酬はいまのラ─メンだから」

 騙された。

「できそうか」

「いや─、殴ってくれとか連れ戻せとかだったらわかるけど」

「それもそうだな」

 ブル─は苦笑する。

「そいつを見かけたら殴っといてくれ。

 もう俺じゃダメみたいだ」

 包帯がまかれた右手をみせる。

「……しかたない、やっときますよ」

「お前、いいやつだな」

 ブル─も最後の一滴を飲み干す。

「勇者に一番必要な条件を教えてやろうか」

 ニヤリ、と意地悪げに笑う。

「お人好しであることだ」

 俺は溜息をついてジャケットの前をあわせる。ああ寒い。壁がないから寒いな、と。


 二瓶さんからの依頼を受けた次の日、俺とマリ─は二瓶さんのあとをつけることにする。

「これって職質されたら俺らのほうがやばいよな」

「大丈夫逃げるから」

「いっしょに? 俺をおいて? 」

「あんたを置いて」

「あ─、そっちのパタ─ンか」

 わかるわかる、と俺は頷いて、

「人でなし」

「豆腐メンタル」

「……」

「……」

 先を歩く二瓶さんは、まっすぐ帰路についているようだ。駅で友達と別れ、バスに乗り込む。それを確認して、停車駅まで先回りする。……不審者は今のところどこにもいないようだ。


「お前、探索魔法とか使えないの? 」

「私たちには携帯があるじゃない」

 今ちょっと濁らせたな。何か秘密があるらしい。

 取り出した携帯で「お友達捜索アプリ」を起動する。バスがこちらに近づいているのが確認できる。……まだまだ時間はかかりそうだ。

 ぼんやりと空を眺める。

「雲がわたあめみたい、って思ったことある? 」

「急に乙女ちっくね。あるけど」

「俺もある」

「あんたの場合は食い気でしょ。アスファルトに咲く花も食べそうだもんね」

「俺をなんだと思ってるんだ」

 虚空を見上げ、

「食欲大魔神」

「俺だって満腹の時はそんなことしないぜ」

「問題は人生の中で、何回満腹だったのかってことで──」

 バスが、道路をはさんで向かいのバス停でとまる。予定どおりだ。

 中から合計で3人の乗客がでてくる。最後に、二瓶さん。周囲を一瞥し、俺らを見つけると少しだけ安心した表情を浮かべる。そして、いつもの帰り道へ。


「あ、居た」

 マリ─が声をあげる。俺と同じものを見つけたのだろう。ねずみ色のトレンチコ─トを着た男が、バス停の正面にあるコンビニがでてくる。コ─ヒ─を飲みながら、左右を確認している。誰もいなくなり、30メ─トルほど離れた位置から、その男は二瓶さんのあとをついていく。

「私たちも追いかけましょう」

「ガッテン」


 バス停から二瓶さんの家まで、10分と聞いている。男は明らかに挙動不審になりながらとおりを歩いている。

「どうする、捕まえる? 」

「証拠がないから、白状するか」

 分からない。と俺が言いかけた目の前で。


 おっさんの左脇からトラックが飛び出す。あんなのキョロキョロしてるのに、一体何を見てたんだ。マリ─が短く悲鳴をあげる。間に合わないかもしれないが、俺はおっさんに向かって駆け出し、ジャンプしようと、



「あれ? 」



 気が付くと着地していた。


 マリ─は30メ─トルほど後方にいる。おっさんは俺の体のしたでうめき声をあげていた。

あれ、意外とすごいんじゃね。

 俺はおっさんを立ち上がらせ、服についた泥を払ってやる。

「変質者だけど、死ななくてよかったね」

「殺されるかと思ったわ。

 まったく。物騒なやからばかりだ」

 いつの間にか追いついたマリ─が、

「おじさん、二瓶さんを尾行してるの?

 私たち、本人に頼まれてるんだけど」

「私も娘に頼まれて──」

 俺とマリ─は顔を見合わせる。

「娘? 」



 おっさんと俺たちは、連れ立って近くの喫茶店に入る。コ─ヒ─二つに紅茶一つ。マリ─は紅茶の中に砂糖を流し込みながら口を開く。

「私たちは本人に頼まれて──、見られてる気がするからって」

「わたしもそうだよ。娘が怖がっているから、こうして会社を抜け出して見張ってるんだ」

 俺はコ─ヒ─を一口すする。

「それで、首尾は」

「残念ながら」

「いっしょに帰ってあげたらいいじゃない」

 マリ─はミルクを2つ、紅茶にいれる。

「そういうわけにはいかんだろ。

 娘には娘の事情がある」

「でもことがあってからじゃ遅いのよ? 」

「違う、悪いのはわたしなんだ。あまりにも反抗期でいうことを聞かないから。門限を守らないから」

 頭を抱えてしまうおっさん。

 どういうことだ?



 店の外から、小さい秋のメロディ─が流れてくる。それもステレオのスピ─カ─の音を、メガホンで無理やり増幅したようなノイズ混じりの音質だ。

「お父さん、どんなもんでっしゃろ」

 その男、紫色の目出し帽をかぶり、下は黒い全身タイツといういでたちの珍妙な男が、いつの間にかテ─ブル脇にたっていました。

「娘さん、怖がってましたやろ」

「うるさい。お前らなんかに頼んだから、こんなことに──」

 男はおっさんの胸ぐらをつかんだ。

「おいおい、人聞き悪いやん。

 元はといえばお父さんが『娘の聞き分けが悪い』いうて頼みに来たんちゃうの?

 ま、金はもらっとるし、なんもいうことないけどな。

 めんごめんご、今のはちょっとイラっとしただけやわ。

 ただのジョ─クってやつ。堪忍や」

 男が今度はこちらをみる。

 こちらを値踏みするような、すごく嫌な目だ。

「あんさんたちも、ようけ深く立ち入りなさらんな。

 こっちも仕事や、手加減できへんで」

「仕事? 」

「お、ね─ちゃん興味あるか」

 男はポケットから名刺を取り出した。

「『魔王代行請け負います。黒鉄祐也』? 」

「せや。うちの社長の方針や。

 いまの時代必要なの人助けじゃなく、『悪』やって。

 君らも何かあったら声かけてや。

 法律にふれることは、やらん主義やけど。

 いらつく違法駐車に引っかき傷つけたり、横柄な友達いてもうたり。

 むかつく先生いわしたり。

 ま、なんでもやるで」

「私、要らない」

 マリ─が名刺をつっ返す。

「あんたたちみたいなの、嫌いだから」

 マリ─は堂々と。頭一つ分は背が高い、男の顔をにらみつける。

 窓から入る日差しを受けて髪の毛がキラキラとしている。俺はくっくっ、と押し殺した笑いをもらす。

 お前のそういうところ、俺は好きだぜ。

 俺ももらった名刺をくしゃくしゃに握りつぶす。

「そういうことだから、帰ってくれ。

 仕事は終わったんだろ? 」

 男は、無言。

 小さい秋のメロディ─だけが流れている。

「ほ─ん。ま、いいけど。

 せや思い出したわ。あんたら商売敵やんか。

 ……せいぜいガキ相手に小銭稼ぎしとけよ」


 黒鉄は不気味な存在感だけを残して、店をあとにする。


「で、どうするの」

 マリ─が紅茶を飲み干し、何事もなかったように続ける。

「わたしは、こんなことになると思ってなかったんだ」

 おっさんが頭を抱える。

「ただ娘が心配だった」

 俺はマリ─に目配せをした。彼女はうなずき、バッグの中から1枚の名刺を取り出した。

「その悩み、解決します」

「え? 」

 おっさんがくしゃくしゃになった顔をあげる。

「家庭の都合、一身上の不都合、刃傷沙汰は勘弁願いますけれど。

 『勇者代行』請け負います。私たちがなんとかします」




 会計を払って。

 俺とマリ─は「今日はもう何もないだろう」という結論を出して、帰ることにした。

 黒鉄にあったからだろうか、それとも日が短くなってきたからだろうか。やけに外が暗く見えた。



 次の日、──。

「私のバッグが、ぐちゃぐちゃになったんです」

 父親に付き添われて、二瓶さんは事務所にやってきた。俺らと父親は一瞬目があうが、たがいに初対面のふりをする。

「昨日の帰り道は何もなかったんだけど。

 もう怖くて、一人じゃ帰れない」

「とりあえず、おちついて」


 俺とマリ─はそれから毎日、二瓶さんの周辺を見守ることにした。マリ─は変装して学校の中を。俺は周辺を。ぐるりと歩いていると、黒鉄と出会う。

「お、にいさんお疲れさまやな」

 俺はじろりとにらんで、

「また悪いことしてんじゃないか」

「仕事してるだけや。

 仕事はええことやから、言い換えたらええことしかしてないで」

 クスクス、と変な笑い声をもらす。

「二瓶さんに、何かやってるのはお前か」

「知らん。たとえ知っててもしゃべらん。

 依頼者のプライバシ─もあるさかい」

「依頼はキャンセルしたはずだぞ」

「うちはキャンセルできないことになってんの。

 でないと途中でビビって逃げるやから続出で、

 商売にならんから」




「そろそろ我々の出番だな」

 ブル─が勇ましく立ち上がる。

「年寄りの冷や水って言葉知ってるかい」

 続いてレッド。

「二人に任せてもラチがあかないってんなら、しかたあるめい」

「わしらは見えないところで援護しとるよ」

 と、ブラウン。

「年若い二人が傍で見張っててくれ」

「オ─ケ─」

 ということで、俺とマリ─は二瓶さんの両脇をガ─ドしていた。

「もしもし? こっちは大丈夫だ」

 携帯からイヤホンにつながれて、レッドの声が耳元で聞こえる。

「俺らは前方後方に備えている。心配するな。何かあったら連絡する」

 前回と同じように、電車から降りる二瓶さん。同じ駅で降りる。周囲を見回す。特にあやしい気配はない。……バス停でバスを待つ。俺とマリ─は、「夏カレ─にいれる具はどこまで許されるか」という他愛もない会話をする。

「ネバネバは入れなきゃ」

「断固反対。ゆるしてトマトまで」

「うげ─、私トマト嫌い」

「だから大きくなれないんだ」

「関係ないでしょ、」

 バスが目の前でとまる。携帯に向かって、「これから乗車。返事どうぞ」とつぶやく。ステップの一段目に足をかけようとした、ちょうどその時──。


「うへぁ」



 誰かの情けない悲鳴が聞こえた。

 マリ─が咄嗟に二瓶さんの前に立ちはだかる。

「正面、二つ目の曲がり角だ。

 俺らもすぐ行く」

 レッドの声。


 俺とマリ─が駆けつけると、そこには黒鉄祐也と足元に這いつくばる二瓶さんのお父さんが居た。それから、苦悶の表情のブル─。

「お、意外と早いやん」

「お前ら、逃げろ」

 ブル─はこっちをみて叫ぶ。

「こいつ普通の人間じゃない」

「なかなかいいセリフ。

 そう、普通の人間じゃない」

 巨躯の男は、無造作に。


 本当になんでもないように、サッカ─ボ─ルのように。60キロはあるだろう、二瓶さんのお父さんの体を、こっちまで軽く「蹴り飛ばす」。

「わいも噛まれたんや。赤い目に。君もわかるやろ」

「イカせん」

 ブル─が正面から蹴りかかるが、なんなくいなされ、軸足にするどいロ─キックを受ける。

「骨折れたかもしれんなぁ」

「ちくしょう。ふざけんな」

 やぶれかぶれで殴りかかるレッド。

 ……。


 そして俺の目の前に、黒鉄が立っていた。

「まだ依頼は完了してないで」

「何が依頼だ」

「ええとたしか……『二度と外を出歩けないようにする』だったかな」

 黒鉄が二瓶さんに伸ばした手を、俺は横からつかむ。

 それを読んでいたのか、黒鉄は俺の腕をさらに掴み、──次の瞬間、俺の態勢は前のめりになっていた。目の前に膝がある。無我夢中でそれを受け止める。

 体勢を立て直し、俺は右手で殴りかかる。それも分かっていたのだろう、黒鉄はほんのわずか顔をずらすだけで、俺の拳を避ける。「さいなら」。冷たく言って、ガラ空きとなった足元を払う。俺はそのまま転倒。目前にアスファルトの灰色が近づいてくる。左手で顔面をかばう。──違うな、俺は右手で、手探りながら黒鉄の足首をつかんだ。逃げられないように。「マリ─! 」

 俺の叫び声に応じて、マリ─がさけんでいた。

「燃えろぉ! 」

 突如として吹き出した火炎放射が、黒鉄の上半身を包む。


「うそやん、こんなの。

 ル─ル違反や」




 けれど、黒鉄はピンピンしていた。


「『悪魔の眼』が与えるんは、ポイント強化だけやないのか。

 魔法が使えるなんて聞いてないで。

 こりゃあかん。降参や」

 両手をあげて、降伏の意を示す。

「そんなファンタジ─なもん持ち出されたら、勝ち目ないやん」

「持ってるものは、ファラオも使え。じゃないと勝てそうになかったし」

「おもろないで」

「黙ってろ」

「ごめん、わたしも面白くないと思う」

 俺はうしろにいたマリ─を一瞥する。

「とにかく、これでもう二瓶さんには手をださないって約束してくれるな」

「出さん……、と言いたいところやけどな」

 黒鉄が、両手をあげたポ─ズから、背中からシ─ツのようなものを取り出し、それを前方に広げる。次の瞬間、シ─ツは人の形を成していた。

 それは白髪まじりの中年男性。紫色のシ─ツが、マント代わりになっている。

「マリ─」

 今度は、俺が叫ぶ前に、マリ─が動いていた。

「燃えろ! 」

 けれど、マリ─が放った炎は、シ─ツを燃やすどころか……、

 男が食べている。



「初めまして、半面くん。

 久しぶりだね、マリ─」

「どうして……」

 マリ─の顔は蒼白になり、手はふるえている。

「それからレッドに、ブル─に、ブラウンはまだ生きてるのかい? 」

「けっ、魂を売った奴に、言われくないぜ」

 足をおさえながら、レッドが毒づく。

「パパ。パパがどうして、そんなことやってるの? 」

「マリ─、よく聞いてくれたね」

 マリ─がパパと読んだその男は、背中から木製の看板を取り出した。「魔王代行請け負います」。黒鉄の名刺に描かれていたのと同じ文章だ。

「正義の味方になるために必要なのは何か。私は考えた。力か、美貌か、ヒロインか……。1つ1つ求め、手に入れ、失い、そして絶望した。どれも必要なものではなかったから。

 しかし、神様は私を見捨てはしなかった。私から大切なものをうばうことによって、正義に必要あものが何か、身を持って教えてくれたのだ。

 正義に必要なもの、それはすなわち『悪』だ」

 まるで演説するかのように、両手を広げながら男はしゃべる。

「マリ─。君は幼いころ犬に噛まれたことがある。それ以来犬が嫌いになったね。

 だから、公園の犬をおびき出した」

 ピカッ、と雷が光る。

「それからマリ─、君は髪の色が理由で、学校でいわれもない批判を受けたことがある。

 一時期は学校に行けなくなったほどだ。

 ……今は同じ学校にかよっていると聞くけど」

「何が言いたい」

 俺はマリ─の前に歩み寄り、男をにらみつける。

「これは必要なことなのだ。

 誰かがやらねばならぬ。君らが「犬をしっかりしつけましょう」。あるいは「見た目が珍しくても、みんな仲良く」と戯言をいったところで、世の中は何も変わらぬ。

 世の中を変え、秩序を守るためには、相手の意向に屈しない、信念に基づいた絶対悪が必要なのだよ」

 ぱちぱちぱち。

 黒鉄が、後ろから白々しい拍手を送る。

「それではマリ─。また会おう

 君なら分かってくれるだろう」

 男は来た時と同じように、シ─ツに包まれていなくなる。黒鉄は右手で空を切ると、信じられないジャンプ力で電柱の上まで飛び立つ。そして電柱の上を跳躍して移動していった。


「どうして……」

 ぽつ、ぽつ、ぽつと雨が降り出している。

「どうしてパパが」

 マリ─は泣いていた。

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