3
パッと目を開くといつもと違う天井。
月影は自分の布団で寝ていた。頭の中はすっきりし、どうしてここで寝かされているかもすぐに理解できた。
赤い瞳を喰おうと夢見をした。少し動いただけであれほどの睡魔に襲われるとは、相当体力が落ちているようだな……。四年間も動かず、悪夢を喰ってこなかったせいで幾ばくか耐性も落ちてしまったか……。
とは言っても、あの時、赤い瞳を喰うことはできなかったから、眠っている間はそれほど呪いの苦しみはなかった。いや、覚えていない。苦しみに気づかないほどの眠りに落ちていたのだろう。苦しまずに済むのなら、楽な方がいい。
月影は、横に顔を向けると馨が背中を丸め、床に広げた学校の宿題をしていた。片隅には携帯ゲーム機も置いてあった。
この子は、学校から帰って来ては私の部屋の前まで来て何か話しかけてくる。神主のミチルさんがそうさせているのか。いやミチルさんは、こんな引きこもりの私を知ってか知らずか、あまり関わろうとしなかった。きっと、それが私への思いやりだったのだろう。だから、この子は自分の意志で扉の前まで来る。
この子が話していることと言えば、授業で何をやったとか、テストで満点取ったとか……。まったく友達の話をしなかったような気がする。
この子もまた特異質な力を持っているだけに、周りに溶け込めていないのかもしれない。あの子の気持ちが分からない訳でもない。同い年の誰か一人でも理解者がいてくれたら、きっと悩まずに済むのだろう。
「馨……」
名前を呼ばれた馨は、すっと顔を上げた。
「るーいー」
馨はすぐに月影に駆け寄り、布団の上から抱きついた。
「るーい。大丈夫? 痛いところない? お腹へってない?」
「大丈夫。そんなに心配しなくても」
「だって、もう起きないかもしれないって……」
「眠くなったから、ちょっと寝ただけよ」
「ちょっとじゃないよ。三日も眠ってたんだよ! 目が覚めないかもって思っちゃって……」
――三日? そんなに眠っていたのか。赤い瞳との戦いが夢の出来事のように思えるが、はっきりと鮮明に覚えている。
月影は起き上がり、布団の中から手を外にだして指を見た。片方の薬指に絆創膏が巻かれていた。赤い瞳の光線が月影の脳裏を横切った。
――夢じゃない。
指―人の指には、それぞれ別々の紋が刻まれている。指紋。それは個性とも言える。自分をさまざまに表現でき、自由を連想させる象徴である。五本それぞれ固有の象徴的意味がり、親指は意思、人差し指は権威、中指は性、小指はコミュニケーション、そして薬指は約束。
陽向という男のドリームストリームの中で怪我した私の薬指。解釈するならば、あの男との約束は切られた……約束は果たされないということだろうか。
ふん!
悪夢に取り憑かれていて、意識を失いかけた状態で出てきた命乞いだ。あんな根拠のない一言に賭けようとした私が浅はかだ。あれからもう三日。
「赤い瞳に取り憑かれていた男は無事だったか?」
「無事だったけど……」
馨はうつむいた。
ふん。無事だったならいいか。悪夢を喰うことはできなかったけれど、夢見として対象から悪夢を取り払うことができた。
「夢見としての復帰戦。福夢と報酬がいただけなかったのは、致し方ない。馨が心配することはない」
月影がそう言うと馨が顔を上げると、怒った表情に変わっていた。
「どうした?」
「いるんだよ。対象だったあの男がここに。行くとこもないし、空から落ちる前の記憶もないからしばらくここに住むって。神主様もすぐにいいよって言っちゃうし。俺、アイツ嫌い。なんか軽い男って感じ。いつも笑ってへらへらしているし。空からやってきたんだから、空へ帰ればいいのに」
馨は口早に言い放った。まだ子供の馨が男を語るか。しかし、ところどころ気になることを言ったな。
月影は薄闇の中にいる陽向の姿を思い浮かべた。
「!」
と、そこに部屋の扉が開いた。
「よう! やっとお目覚めか、お嬢さん。月影泪だっけ?」
陽向が、馨の言ったように笑って部屋に入ってきた。
「げっ、来た。出て行け、空人間!」
馨は月影に引っ付き、べーっと舌を出した。
「そんな言い方はないだろ。だから、こうしてこっちに部屋を移すのも手伝ったし、穴をあけた屋根はちゃんと板を張ってやっただろ」
「修理するのは当然だけど、板張っただけだし……。だいたい時間も考えずやって来て、人の部屋に不法侵入。しかも、器物破損罪だぞ!」
馨少年は、陽向を睨む。
「難しい言葉知ってるな。重力っていう不可抗力が働いて、屋根が壊れたんだから仕方ないだろ。それに引きこもりを治してやったんだ。名誉の破壊だよ」
「意味分からないぞ」
「で、宿題は終わったのか、馨? 俺が見てやろうか……んっ?」
陽向はノートの脇に置いてあったゲーム機を手に取った。
「シューティングゲームねぇ。こんな小さい画面の中じゃ、迫力も緊迫感も感じられないよな。飛空艇に乗れたら味わえるのに。かわいそうだな、少年」
と、陽向はさりげなくゲーム機の電源を入れる。
「えっ? 飛空艇に乗ると銃撃戦できるの?」
「乗る船にもよるな。旅客船じゃ、まず戦闘にはならない。空賊に襲われることはあるだろうけど。乗るなら、空賊の飛空艇だな」
答えながら、ゲームを始めようとする陽向。
「へー……って、お前、なに勝手に!」
話に聞き入っていた馨は我に戻り、すかさず、陽向の手からゲーム機を乱暴に取り返した。
「俺のものだ。勝手に触るな」
「なんだよ、いいだろ。面白そうだから少しやらせてくれよー」
「なんだよ、さっきは迫力がないとか言ってただろ」
「ゲームと本当の空は別物だ」
「記憶が戻ったんなら、空へ戻れ」
「何度も言うけど、ほんの少しだけしか、思い出せないんだよ。どういう訳か」
「それは本当なのか?」
そこで月影が子供二人の下らない口喧嘩の間に割って入った。月影はムッとしていた。正直、静かにして欲しい。馨は大人びた考えを持ってはいるが、まだまだ子供らしい子供だ。しかし、この空人間は図体だけ大人で精神的には考え無しの子供だ。ドリームストリームの中で見た赤い瞳との戦い方もそうだ。ゲーム的戦略を知っている馨の方が百倍ましな戦い方をするだろう。
「あぁ。空賊船や旅客船に乗ってたりしていたのは覚えている。空の街を転々と……。でも具体的にって言われると、頭の中に靄がかかっていてよくわからないんだな」
――なるほど。記憶がないから、この男には福夢が存在しなかったのか。
「そうか。でも、記憶がないというわりには、ずいぶん明るい顔をしているんだな」
「ん? まぁ、ないものはないわけだし、落ち込んでいてもどうしようもねぇだろ。目の前になにかが広がっていれば、進んでみたくなるでしょ」
「はぁ……」
月影は大きくため息をついた。まさに思っていた通りか。先ばかりみて、自分の歩いてきた道を振り返ることはしない奴か。性格も少しくらい忘れてしまえば、幾ばくかのトキメキもあっただろうに。
「泪は、夢見なんだってな。本当に助けてくれてありがとうな。落ちたところに夢見がいるとは、すんげー奇跡! これは偶然というより『運命』! 本当にありがとうな!」
陽向は太陽のように目を輝かせ、月影の手を取って握りしめた。
「……」
馨より大きな手はすっぽり月影の手を包んでいた。馨より強い力……。
「放せ!」
月影はぐっと手を引っ込めた。
「あ、悪かった。痛かったか……」
「そっ、そんなんじゃない。気にするな。それより、ひむかい……」
「テラス。陽向照だ。よろしくな!」
陽向は手を差し出した。今さっき私の手を握っていたくせに、すぐに握手を求めるのか。
月影は差し出されたその手を見るだけで握り返そうとはしなかった。顔を上げると、陽向の両耳にある耳飾りが目に入った。向かって左の耳飾りは四角い形をしたもので、右は刀を模した耳飾りだった。
「陽向。君は夢絶らしいな」
月影が聞いた。
「らしいじゃない。夢絶だ! って、何で知ってるの?」
「ふん。私は夢見だ。それくらいわかる」
「あぁ、さすが運命の夢見だ!」
「やめろ、『運命』とか言うの。気持ち悪くなる」
「あ……、悪かった……」
陽向は少し顔を落とした。いささか笑顔だった人間が急に笑顔を失うと、見ている私まで気落ちしてしまいそうだ。
「で、陽向。なぜ、赤い瞳に取り憑かれた?」
月影は話を切り替えた。
「いやー、それがさぁ、わからないんだな。なんせ、記憶喪失なもんで」
陽向はもとの笑顔に戻った。それは月影を気遣ったことを忘れているほどだ。
「あっ?」
と、突然、陽向は何かを思い出した。もぞもぞとポケットから何かを取り出した。
「ジャ―ン! 飛空艇操縦免許!」
車の免許証と同じような形をしていた。
「赤い瞳に取り憑かれた理由を思い出したのではないのか……。君は、飛空艇というものを操縦できるのか?」
月影は問うた。
「みたいだな。これを見ると」
「そこも覚えていないのか」
差し出された免許証を見ると、陽向の顔写真と名前、規約などが細かく書かれていた。そして、陽向の写真は今の顔より若さを感じる。幼くも見える。
「俺、いつ、こんなの取ったんだろうなぁ」
「君は、年はいくつなんだ?」
「俺は、十七才だ」
すんなりと答えた陽向を見て、月影は嘘ではないだろうと思った。
「私と同い年か」
「泪も十七才かぁ……。んー」
そう言いながら陽向は顎に手を当て、少しはだけた浴衣姿の月影をじっくり見つめた。
「……小柄なわりには、ちゃんと胸、あるんだな」
「――!」
月影は自分の姿を確認した。はだけた浴衣から、ちらちと見えるふっくらした柔らかそうな御胸。陽向に見られているにも関わらず、月影は浴衣をただそうとしない。
「ふん。女だからな、私は」
「いや、ちょっとは恥ずかしがって、隠せ。っていうか、そういう風俗の乱れは悪いことの一つだ。い、い、いけないんだぞ。泪、破廉恥だ」
陽向は慌てふためき、頬を赤らめ、月影から視線を外した。
「女の胸ごときで、動揺する男とは……」
月影はいつの間にか静かにして傍らにいた馨を見ると、馨も少し顔を赤くしていた。……男の子って普通、こうなの?
すると、陽向の上着のポケットから折りたたまれた紙が落ちた。月影はそれを拾って広げた。そこには、
【必見】 悪夢で、お困りの方
と、目立つ位置に大きな字で書かれていた。それに悪夢に取り憑かれたときの状態や行動などが書かれている。そして、末尾に連絡先としてこの烏丸神社の住所と電話番号が書かれていた。
「これは、一体どういうこと?」
「それ、いいだろ! 俺が作ったチラシ。泪と俺で、夢見をするんだよ。誰にも相談できず、毎晩悪夢にうなされている人がいると思うんだよ」
――正直、気持ちは嬉しい。あの時、言ってくれたことを本当に……でも。
「私は呪われている。私と共にしても良いことはない。夢見なら別を当たれ」
「何があって引きこもってるかは知らねーけど、使える力を持っていて使わないのはもったいないだろう? 少しの間だけでもいいから力を貸してくれ!」
陽向はこの通りだ、と言って頭を下げた。
「いつかその呪いを解いてやる! 泪」
「――っ!」
チラシを持つ月影の手が震え、心臓が熱くなったのを感じた。
「陽向。そうまでして言うなら、それなりの方法はあるんだろうな?」
「――ないっ!」
「……」
部屋は静まりかえった。
「ふん! いいだろう、名誉の破壊者。その根拠のない自信は勝ってやる」
「本当かっ?」
「夢見として、夢絶と手を組もう」
月影がそう言うと、すぐに陽向は月影の手を取って上下に揺さぶりながら激しく握手をした。
「おい、やめろ。放せっ!」
月影は手を引き離そうとしたが、しっかり握られて離れない。
「なんだよー。俺と手を組もうって言ったじゃないか!」
「いや、そういう意味で言った訳じゃない。いいから、放せ」
月影は足にかかっていた布団を蹴り上げ、さらに陽向を蹴り飛ばした。ようやく月影の手から陽向が離れた。
「るーい。こんな奴と夢見をするなんて、やめた方がいいよ。絶対!」
馨が月影に引っ付いた。月影は馨の背中に手を回した。
「大丈夫。心配いらない」
「なんつぅー、蹴りだ。そんな華奢な身体から出る力じゃないね」
と、陽向は腹部を押さえながら起き上がった。が、月影を見るなりすぐに顔を赤らめ背を向けた。
「破廉恥だ!」
月影は陽向を蹴り飛ばしたせいで、月影の浴衣ははだけ、細い御御足があらわになっていたのだった。
トントンと部屋の戸を叩く音が聞こえてきた。
「私だ」
その声は、神主のミチルだった。
「どうぞ。開いてます」
月影がそういうと、ミチルが戸を開けて入ってきた。
「泪、目を覚ましたか。良かった。テラス君もここにいたのか。起きてすぐで悪いが、話がある。向こうに来てくれ。テラス君も一緒に」
ミチルはホッとした顔を見せ、すぐに真剣な表情に変わった。
「はい……」
陽向と月影はお互いに目を合わせ、返事をした。
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